第9章 華月と楓3
夏休みもとうとう最終日。残りの1週間はずっと楓と一緒だった。
映画を見に行ったり、プールに行ったり、図書館で宿題をしたり。どれも楽しかったけれど、同時にどこか落ち着かない気持ちも抱えていた。
あの、楓の突然の告白以来、目を合わせるとなんだか照れてちゃってしょうがない。
だってその度に、
「好きよ、華月」
という言葉が耳の奥で響く。頬が熱くなって、視線をそらしてしまう自分が歯がゆい。楓はいつものように自然に振舞ってくれるけれど、わたしの方がぎこちなくなってしまう。そしてそれを気づかれてないか不安にもなる。
わたしだって、楓が好き。
選手として陸上競技に打ち込む姿勢も尊敬に値するけれど、楓の優しさ、真っ直ぐな性格、困った人を放っておけない正義感と公正さ、そんな人としての楓が好きなのだと、この夏休みを通してよくわかった。
今日は駅前のショッピングモールのいつものカフェに来ていた。夏休みでも客足はまばらで、ゆったりとした時間が流れている。
カフェでちょっと贅沢なパフェを注文して、スマホで写真を撮って、二人でシェアして食べた。
「うんま!」
と楓が嬉しそうに言いながら、パフェを食べている。イチゴ、ベリーフルーツ、キウイとか、たっぷりのフルーツにアングレーズソースがかかっていて、確かに声を上げるほどに美味しい。
「もう、楓、もっと可愛く感想言ったら?」
と言うと、楓は照れながら笑った。
二人でスプーンを交代しながらパフェを食べていると、楓が微笑みながら言った。
「ねえ、あの時のことってちゃんと覚えてる?」
ふとこの間の楓の言葉を思い出した。
”わたしは、華月だけが大事だよ……あの時から…”
わたしは尋ねる。
「あの時のこと?」
楓が続けた。
「小さい頃、わたしが男の子たちを従えてた頃、華月たちとちょっと揉めたじゃん」
楓の声には、何かを確かめようとする響きがあった。わたしは記憶を辿ろうとしたけれど、その頃のことはとても曖昧で、まるで古いフィルムを見ているような感覚だった。
わたしには朧げになった思い出だが、なんとなく映像のピントを合わせてみる。
いつもの公園、砂場の匂い、子どもたちの声......断片的な記憶が頭の中で踊っている。
「うーん……あ、確か女の子たちで砂場で遊んでたよね。バケツでけっこう立派な山を作ってた。わたし、相変わらずバケツに砂を入れて、もっともっと高くしようって夢中で遊んでた。他の子は決まってわたしの山の周りに道路やお家のようなものを飾っていくの」
話しているうちに、映像のピントが合って行く。
砂の感触、バケツの重さ、みんなで作り上げた砂の山やトンネル開通の達成感。そんな細かい感覚まで蘇ってきた。
わたしは続けた。
「それから......そう、そのあと男子たちが壊したのよ。女の子の一人が文句を言って、すごい言い合いになって。その時だったよね、楓が男の子たちに『お前らが悪い、謝れ』って言ってくれたのは」
その光景は確かに記憶にある。楓は男の子たちの仲間なのに公平だった。それは正義感に溢れていて......
「え?覚えてないの?」
楓の表情が困惑に変わった。
「何を? 何か違うっけ?」
「その時、男子たちに向かっていったのは華月だよ。弱いものいじめする方が弱虫だーって」
楓の言葉に、わたしは言葉を失った。
「うそ......覚えてないよ」
わたしはあの時、砂山を壊されて泣いていたのでは?あの事件がきっかけで、楓に憧れるようになったんじゃなかったの?
「全然目立たない子だったのに、あの時ばかりは正義の味方に見えたもん」
楓の目には、あの日の記憶がはっきりと映っているようだった。
わたしは、砂山を壊されて、男子と女子の喧嘩が怖くて泣いていたと思っていた。
でも、楓の言葉を聞いても、どうしてもその記憶が蘇らない。
――ありがとう。
「!」
ふと、幼い男の子の声が頭の中に響いた。 それは楓に向けた言葉じゃない。
確かに、わたしに向けた言葉だった。その感謝の気持ちだけは鮮明に蘇ってくる。そして後ろ姿まで、なぜか顔以外がはっきりと思い出せた。
小さな背中、少し大きめのTシャツ、そして振り返った時の安堵した表情。その子はわたしに救われたような顔をしていた。なんとなく顔が見えてくる。
この子は男の子?
あれから、謝ってくれた男子たちが、わたしやその男の子もドッヂボールに誘ってくれた。その後も、楓の声かけで男女混ざってドッヂボールをしたり、鬼ごっこをしたりした。
この砂場での出来事をきっかけに、小学校の間、男の子と女の子みんなで一緒に遊ぶことが増えた。
中心にはいつも楓がいて、「みんなで遊ぼう」ってまとめてくれてた。
楓は何年生の時でもクラスのムードメーカーだった。誰とでも仲良くなれて、いつも明るかった。
わたしと男の子が他のみんなから少し離れていたら、楓が声をかけに来てくれた。だから、一人でいるのが好きなわたしも、人見知りがちなその男の子も、楓のおかげで自然にみんなの輪に入ることができた。
でも、その男の子って誰だったのだろう。まだはっきりと顔が思い浮かばない。声だけが記憶の奥に残っているのに。
小学生で遊んでたみんなはそれぞれわたしたちとは別の中学校へ進学し、部活動に励んでいた。
中学受験という選択をしたのは、クラスでも数人だけだった。みんなそれぞれの道を歩み始めて、小学校時代の友達との関係も自然に疎遠になっていく。
楓とわたし、そして男の子は、中高一貫校へ進学し、陸上競技に忙しい楓よりは男の子と一緒にいた時間が多かった。
中高一貫校へ入ってからの日々をなんとなく思い返してみる。放課後の教室、廊下を歩く二人の影、校門を抜け、終わった〜と背伸びする......
話すことといえば、観たテレビの話、すれ違うおじさんのこと、好きな音楽のこと、楓のこともよく話したかな。そんな他愛もないことばっかりだったけれど、とても楽しかったんだ。その男の子と話していると、時間を忘れてしまうことがよくあった。
その男の子は将来、看護師になりたいって言っていた。
「医者は流石に無理だけど、人を助ける仕事がしたいんだ」と、その男の子は照れながら言っていた。とても優しい子だった。小さい頃とは打って変わって、困っている人を見ると放っておけない性格になり、まさに看護師という職業が似合いそうだった。
わたしもなんとなく同じように看護師になりたいって思ってたから、色んなことで気が合った。
将来の夢を語り合うようになり、看護師という職業について調べた。二人で医療ドラマを見て、「こんな看護師さんになりたいね」なんて話したこともあったっけ。
話が長くなった時は、たいていあの坂道を登って高架橋の上だった。
市内の環状線の高架橋。そこからの景色を眺めながら、よく話をした。街を見下ろしながらの会話は、なぜか特別な時間に感じられた。
そういえば楓には、
「え?ずっとあそこで話してたの?」
ってよくあきれられてたっけ。
いつだったか、男の子と一緒に看護専門学校のオープンキャンパスへ行こうという話になった。
ん?それって割と最近じゃなかったか?進路について真剣に考え始めたのは先月くらいだし…
その学校には電車に乗って行った。いつもと違う線の電車に乗り換えるのも新鮮だった。普段とは違う景色を眺めながら、これからの人生について話した。
学校の様子や校内の設備を見学して、説明を受けて------
その学校は想像していた以上に本格的で、医療現場に近い実習設備が整っていた。実際の病室を模した教室、最新の医療機器......
終わってから駅を出て「やっぱり大変そうだね」なんて話しながら歩いていた。
わたしはなんとなく自信が持てなかった。
看護師という職業の責任の重さ、必要な知識の膨大さを実感して、自分にできるのだろうかという不安が頭をもたげてきた。
でも、あの男の子は目を輝かせていた。
「大変だけど、やりがいがありそうだよね」と、男の子は興奮気味に話していた。困難であればあるほど、挑戦する気持ちが湧いてくるようだった。
帰り道、駅から出てあの高架橋の手前の交差点。
いつもの場所だった。二人でよく立ち止まる交差点。ここをわたって、高架橋を越えてそれぞれの家に帰るのがいつものパターンだった。
信号待ちの間も、何度もパンフレットを見返しては夢中で話していた。
自分が向かうべき道を探し当てて、希望に満ち溢れた男の子を見ていると、自信が持てない自分も一緒に頑張れそうな気がした。
それから------
突然、記憶が途切れた。まるで映画のフィルムが切れたように、その先の記憶がない。
「華月......」
楓の声が聞こえた。 ふと我に返ると、わたしは楓の手を握っていた。
いつの間にかテーブルの上で楓の手を握りしめている。楓の手は温かかった。
不意に涙がこぼれてくる。
なぜ涙が出るのかわからない。悲しいのか、寂しいのか、それとも……
「華月…どうしたの? 急に黙り込んだと思ったら…」
楓はあの時から…公園の一件からわたしをずっと見てくれている。あの時からわたしが大事だと言ってくれた。
「楓......わたしも楓が好き。けど......誰かわからないけど......わたしにも大事な人がいる気がするの......」
心の奥底で誰かを探している自分がいる。その人の顔は思い出せないけれど、とても大切な人だったことだけは確信できる。
楓は優しい眼差しでわたしを見ている。
「ごめん、楓。わけのわからないこと言って......」
「ううん、大丈夫」
楓は優しく微笑んだ。その笑顔には、いつもの明るさに加えて、少し大人びた影があった。
パフェはもうすっかり溶けてしまっていたけれど、二人とも気にしなかった。今はそんなことよりも、お互いのことが大事な存在であることは十分感じられた。
きっとわたしが思い出せないでいるあの男の子はロックフェスの写真に写っていた彼だ。
あれだけ一緒にいたはずなのに、なぜわたしの記憶に彼がいないのだろう。
カフェの窓の外では、夏の終わりを告げるように、少し涼しい風が吹いていた。
楓が言った。
「もういいかな?」