第8章 夏月とケイジ
松山総合公園の展望広場で、どうやらうたた寝をしてしまったようだ。
目を覚ました時、まず感じたのは頬に当たる涼しい風だった。体が重く、まるで深い海の底から浮上してきたような感覚がある。ベンチの硬い感触が背中に食い込んで、首も痛い。どのくらい眠っていたのだろう。
空を見上げると、あんなにギラギラと暑かった空には、西からの雲がこちらにも雨を落としそうな気配を漂わせている。風の匂いも変わった。乾いた夏の匂いから、湿ったような匂いをしている。
これは夢だったのか。じゃあ何でここにいるんだ?
スマホにはケイジからの着信通知が入っていた。
慌てて画面を確認すると、時刻は午後2時を回っている。待ち合わせの時間は9時30分だったはずだ。ケイジには悪いことをした。
圏外だったはずのスマホが、今はちゃんと繋がっている。あのカヅキという女の子がいた世界では、どこを歩いてもずっと圏外だった。
あの時の混乱が蘇ってくる。
さっき、公園の公衆電話で自分が持っている十円玉ではかけることができなかった。それから公園の管理人室のおじさんが首をかしげながら電話を貸してくれて、ケイジの番号にかけたら、全然知らない人が出た。「違います」と言われて、番号を間違えたのかと思ったけれど、間違いなくケイジの番号のはずだった。
あの時の不安な気持ちのまま、改めてスマホからケイジに電話をかけてみた。
コール音が響く。1回、2回......まさか、またあの時のように知らない人が出るんじゃないだろうな。少し緊張した。
すると、背後から着信音が聞こえる。
振り返ると、そこにケイジが立っていた。
いつもの格好で、息を切らしている。その顔を見た瞬間、安堵で膝の力が抜けそうになった。ケイジだ。間違いなく、俺の知っているケイジだ。
「あー、いたー!」
ケイジの声には、怒りと安堵が混じっていた。
「ケイジ...なんでここに?」
「待ち合わせの場所から何度も電話したんだよ。でも全然繋がらなくてさ。それでお前ん家行ったら、おばさんが"もう出かけた"って言うし。まさかと思ってここに来てみたんだ」
ケイジの説明を聞きながら、俺は混乱していた。待ち合わせ場所? そうだ、いつもの高架橋の上で、待ち合わせて、J Rの駅前からバスに乗って楓の応援に行くはずだったんだ。でも、その待ち合わせ場所になぜか楓がいて…
「俺...あの女の子のところにいたんだと思う」
「え?何言ってんだ?」
ケイジの表情が困惑に変わる。当然だろう。俺自身、何を言っているのかよくわからないのだから。
「こないだ見ただろ?」
「ああ、あの子か!」
ケイジは理解をしたような顔をした。あの日、出会ったわけのわからない女の子のことだ。俺に似た顔をしてて、俺の家を自分の家だと言い張り、自分もカヅキだと言う女の子。
「彼女のスマホには、彼女と楓と、お前が写ってる写真があった。ロックフェスに行った時だと思う。向こうで会った楓も、俺の母さんも、俺のことなんて知らないって反応だった」
説明しながら、あの世界での出来事が鮮明に蘇ってくる。聞いていたケイジは何かを思い出したように言った。
「楓と言えばさ!」
楓の名前が出たのに、俺はその話をさえぎった。
「でも、夢かもな。だってここで寝てたんだから...ケイジ、俺に何回電話した?」
この違和感を確かめたかった。時間の経過、電話の履歴、全てが噛み合わない。
「けっこうしたぜ?30分に一回はかけてたと思うけど?」
ケイジは汗を拭きながら答えた。確かに、疲れた様子を見ると、あちこち探し回ったのだろう。
「でも着信通知は1回だけしかない」
スマホの画面を見せながら言った。
二人でお互いのスマホを見比べた。
ケイジの履歴には何度も俺にかけた形跡がある。
9:28、9:32、9:46、10:15……確かに30分おきくらいに電話をかけている。
なのに、俺のスマホには1件しか残っていない。
14:15の着信のみ。
「俺もお前に電話したんだ。番号、これで合ってるよな?」
ケイジの番号を確認しながら聞いた。何度も見慣れた番号だけれど、今は確認せずにはいられない。
「合ってる合ってる。さっき鳴ったじゃん」
不思議なことに、ケイジの着信履歴には、公園の管理人室かららしき番号は残っていなかった。
あの時の管理人のおじさんも、知らない人の声も、やっぱりこっちの世界の人ではないということなのか......
「またあの子に会ったのか?」
ケイジが興味深そうに聞いてきた。
「ああ。楓と親しかった。俺たちが撮った写真と同じような構図の写真を持ってたよ」
あの写真のことを思い出す。3年前のロックフェス。楓が俺と自撮りして、後方の方でケイジが微笑ましく俺たちを見ている写真だ。あの子の写真はその構図とそっくりで、俺の代わりにあの子が楓と写っているような感じだ。
「俺も会ってみたいな、向こうのカヅキと楓に。俺はいなかったのか?」
ケイジの質問に、俺は言葉に詰まった。
そう言えば、あいつら、ケイジのことで何か揉めてたような...
カヅキがスマホの写真を見せてきた時、確かにケイジが後方に写っていた。でも、カヅキと楓は、ケイジについて何か重い話をしていたような気がする。混乱して俺がその場を離れたために詳しくは聞かなかったけれど、楓の表情が曇った瞬間があった。
「さあ、会ってないよ」
とっさにそう答えてしまった。
ごまかそうとするつもりはなかったけれど、あの時の雰囲気を思い出すと、軽々しく話すべきではない気がした。
あっちの世界でのケイジがどうしているのか、それはまだわからない。
女のカヅキがケイジを見て泣いた------それだけは、気になっていた。
あの涙の意味は何だったのだろう。向こうのケイジっていったい?......
「そういや向こうの楓は髪が長かった。きっと部活は引退したんだろうな。真夏だったし、あのタイミングで引退って…全国には…」
話題を変えるように言った。向こうの楓は確かに髪が長くて、私服だったし大人びて見えた。
「楓、勝ったってよ。でも去年の秋に痛めてた脚をまたやっちまって、全国は厳しいかもって」
ケイジの言葉に、俺の心臓が止まりそうになった。
「なんだって!ケイジ、俺、楓に会わなくちゃ!」
楓がケガをしている。それも、全国大会を諦めなければならないほどのケガを。向こうの世界の楓も、もしかしたら同じようなケガを抱えて、引退してしまっていたのかもしれない。ということはやっぱりあっちは少し未来ということか?
それより今すぐ楓に会いたい。
楓が俺をわかってくれているかどうか確かめたい。そして全国大会を諦めるとしたら、楓にとってどれほど悔しいことか。
楓がどれだけ陸上に情熱を注いでいるか、俺は知っている。この5年半、雨の日も風の日も練習を欠かさなかった楓。その楓が......
すぐにメッセージを送った。
「今日は優勝おめでとう。ケガの具合はどう?落ち着いたら連絡ちょうだい」
短いメッセージだったけれど、今の俺の気持ちを込めて送信した。
俺たちは公園の展望広場を離れ、下ったところの自動販売機でコーラを買って、楓からの返信を待つことにした。
お詫びも兼ねてそのコーラをケイジに渡す。
「お、ありがと」
とケイジ。いつものように気を遣わない関係が、今はとても心地よい。
もう一つコーラを買って俺も飲みはじめる。そしてスマホをいじるケイジを横目に、ふと考えた。
俺と楓がもし付き合ったら、この三人の関係はどうなるんだろう?
今まで当たり前だった三人の関係。でも、そこに恋愛感情が混じったら、全てが変わってしまうのだろうか。
ケイジは、楓のことをなんとも思っていないのか?
「なあ、俺さ、たぶん本気で楓が好きなんだ。ケイジは、楓のこと好きじゃないのかよ?」
思い切って聞いてみた。友情にヒビが入るかもしれないけれど、今聞かなければ一生後悔しそうだった。
「なんだよ、お前らがくっついて、俺が妬くとでも思ってんの?」
ケイジは呆れたような表情で笑った。
「そうじゃないんだけど...」
「俺は平気だから、心配すんなって。むしろ嬉しいんだよ。前に楓がどっかのハードル選手に惚れてたろ?」
ああ、そういうこともあった。楓が他校の陸上選手に憧れているという話を聞いた時は、妬くというよりも、意外だなって感じてた。
「牛丼やけ食いの件な」
「あれ、本気じゃなかったと思うな。それより、去年の秋、負けた時にお前に見せた涙。あれが本当の楓の気持ちなんだと思うよ」
「でも、それまで俺は楓を支えたことなんてなかったぜ」
楓に比べりゃ、自分は何かを目指してもいなし、何かを成し遂げたこともない。そんな不甲斐なさを認めるのは辛いけど、事実だ。楓が頑張っている時も、俺は何かしてあげたことなんてない。応援してただけだ。いや、勝つと分かりきった楓が身内なもんで、悦に浸ってただけかもしれない。
「...あの時からじゃないかな」
ケイジの声が、急に真剣になった。
「あの時?」
俺たちにとって、"あの時"といえば、仲良くなるきっかけになった砂場の出来事。
小学校の頃の記憶が、ぼんやりと蘇ってくる。確か、砂場で何かあったような......
男子たちからいじめられていたケイジを、楓がかばってくれたんじゃなかったっけか。
楓が「そうだお前らが悪い!」っていじめた男子たちに謝らせたじゃないか。
俺...あの時、何してたっけな。 ケイジと二人して怖くて泣いてたような気がする。
記憶が曖昧で、まるで霞がかかったように詳細が見えない。でも、あの時から三人の関係が始まったのは確かだった。
「そうだ、俺、ちょっと用事思い出した!またな!」
突然、ケイジが立ち上がった。
「え?おい!」
慌てて呼び止めようとしたけれど、ケイジはもう走り出している。
ケイジのやつ、気を遣ってとっとと帰りやがった。
きっと、俺と楓の時間を作ってくれたんだろう。ケイジらしい優しさだった。
...あの時のこと、俺と楓の接点、思い出せないんだよな。
砂場での出来事、楓のひと声、そして三人の始まり。全て大切な記憶のはずなのに、なぜだろう、自分がどうしたかが曖昧だ。
スマホに返信が来ていた。
「ありがとう、まだ病院なの。帰ったら電話するね」
楓からの短いメッセージに、心配が募った。まだ病院にいるということは、ケガが思ったより重いのかもしれない。
「今日、行けなくてごめん。応援したかったんだけど、いろいろあってね。話せるときが来たら話す。ケガひどいの? 遅くなるようなら無理して電話しなくていいからね。」
今日の不思議な体験のことは、ちゃんと楓に話そうと思う。
「全国はムリかな。8月はめっちゃ暇になるから、夏休みはうんと遊んでよね!」
楓からの返信は、スタンプ付きで相変わらず明るい文面だった。
そんな明るい文面なのに、画面の向こうで全国大会を断念する悔しさが伝わってくる。
楓のやつ強がっているな。痛いほどわかる。全国大会を諦めなければならない悔しさを、明るい言葉で隠そうとしている。
そうだ俺は楓のことをちゃんとわかってる。だから電話じゃなくメッセージにしたんだ。そして楓も俺ことをわかってくれてる。 応援に行けなかったことをひとつも咎めようなんてしない。
それにしてもあっちの世界でも、この世界でも、楓は楓だった。優しくて、強くて、そして少し不器用なやつ。向こうでカヅキに言い寄られていたのもそういう理由に違いない。きっと向こうのカヅキを気遣って、ケイジのことを黙っていたと推測できる。
楓が好きだ。
次会ったら、この想い、直接言葉で必ず伝える。
ついに、空からポツリと雨粒が落ちてきた。6月に入って最初の雨が、静かに公園を濡らし始める。
俺は立ち上がって、楓に早く会いたい気持ちを、雨で冷ましながら家に帰った。