第7章 華月と楓2
「どこ行っちゃったんだろう?」
楓は、さっきの男の子のことを心配している。
鋭い陽射しが高架橋のコンクリートに反射して、眩しく光っている。環状線を行き交う車の音が響く中、いつもように混雑していて賑やかな時間帯、カヅキくんはわたしの家の方へ急に走って行ってしまった。
ただ、家に帰っても、昨日のわたしと同じように自分の家じゃない。そのことがわかって困惑したら、次行くところはなんとなく見当はつくよ。あの子が別の世界のわたしというなら、行くのはあそこしかない。
わたしが落ち込んだ時に必ず向かう場所。きっと、心の奥底で同じものを求めているはずだ。松山総合公園、あそこから見下ろす街並みと瀬戸内海の島々が、いつもわたしの乱れた心を落ち着かせてくれるから。
「華月? どこか心当たりがあるの?」
楓が不安そうにわたしの顔を覗き込む。
「うん、たぶん。でも、その前に......」
楓に聞きたいこと、今は後回しにして、今はカヅキくんを探すことにしよう。
途中、家に寄った。きっと、あの子はまずここに来ているはず。わたしだって、まず最初に確かめたくなるのは家族のことだ。
「母さん、男の子こなかった?」
リビングに向かって声をかけると、キッチンからエプロン姿の母さんが顔を出した。さっき出たのにもう帰ったの?というような表情だったが、楓を見ていつもの優しい笑顔に戻った。
「来た来た。お友達? でも、なんだか他人に思えなかったな」
それにしても母さんの直感は鋭い。血の繋がりというものは、こういう時に不思議な力を発揮するものなのかもしれない。
「そうね。他人じゃないかも」
「え?なに?」
と聞いてきたが、母さんは続けた。
「あの男の子、なんか変だった。話しているうちに困惑した様子で、走って行っちゃったのよ......」
母さんの言葉に、わたしの胸はきゅっと締め付けられた。あの子がどんな気持ちでこの家を訪れたのか、想像するだけで切なくなる。
「そういえば楓ちゃん、いつもありがとう。脚はもう大丈夫?」
母さんは楓に温かい笑顔で声をかけた。楓の頬が薄っすらと赤くなる。
「あ、はい。わたしこそ華月には、その、お世話になってます」
楓の控えめな返答を聞きながら、わたしは母さんの返答を頭の中で復唱する。
「やっぱり、一度来たんだね」
母さんに…一番身近な人に他人行儀されたんじゃ、たまったもんじゃないよね。
「母さん、また後で話すね」
「うん、気をつけてね」
母の声を背中に受けながら、わたしたちは家を出た。
「行こう!きっとあそこだ」
松山総合公園に向かった。 わたしも落ち込む時、そこによく行った。
坂道を上りながら、楓のペースが遅いことに気づく。普段なら何でもない坂なのに。
「楓、大丈夫? 痛むの?ちょっと休む?」
「ううん、平気」
楓の表情には、後ろめたさのようなものが混じっている。
歩き続けた。あの子が、別の世界のわたしというなら、きっと同じ場所に安らぎを求めるはず。瀬戸内海を見下ろすあのベンチで、風に吹かれながら混乱した気持ちを整理しようとしているに違いない。
公園の展望塔のところまで登り、わたしはもう一度楓に聞いた。
「楓、わたしたちは写真の男の子と、いつも三人だったんじゃない?」
楓の足が、わずかに止まった。ほんの一瞬だったけれど、確かに動揺が走ったのが分かった。
「......」
「楓、教えて。何か知ってるんでしょ? 小さい頃から、わたしたち一緒だった気がするの」
スマホに残っている写真の記憶が、頭の中でぐるぐると回っている。今探しているカヅキくんがケイジと呼んでいた男の子。でも、どうして記憶がこんなにも曖昧なのだろう。
楓の表情は、いつもの明るさの陰に、深い悲しみを湛えていた。
「そうね、一緒だったよ。でも今、わたしは、華月だけが大事だよ……あの時から…」
楓の声に込められた感情の重さに、わたしは一瞬たじろいだ。
「え? あの時?」
詳しく聞こうとした時、楓が急に前を指差した。
「あ、あそこ!」
思ったとおり、海の見えるベンチに座っている、カヅキくんがいた。
ぼんやりと存在感がない。でも、間違いない。確かにそこにいる。
わたしと楓は、彼のいるところへ走って向かった。
「ねえ!」
彼の前に立つ。カヅキくんは涙を流し、途方にくれた表情で座っている。
その目を見た瞬間、わたしの胸に鋭い痛みが走った。まるで鏡を見ているようにわたしと同じ目をしている。こんな目をした自分を鏡で見た記憶がある。これは確かに、もう一人の自分だ。
「あの......」
声をかけても、彼は、まるで私たちなど見えていないかのように、反応がない。
「カ......カヅキくん......?」
後から来た楓も声をかけるけど、全く反応がない。
なんだか、映像を見ているようだった。カヅキくんはここにいない。
見えているけれど、確かにここにいない。生気が感じられない。そして、だんだんと透けてきている。
「これって......」
わたしの言葉も途中で止まった。信じられない光景だった。人が透明になっていくなんて、まるで映像がフェードアウトしていくようだ。
楓と二人で見ているうち、彼は完全に消えてしまった。
最後まで、涙を浮かべたままだった。その表情が、わたしの心に深く刻み込まれた。
しばらくの間、二人とも言葉を失っていた。海からの風だけが、空になったベンチの周りを吹き抜けていく。
「似てるよ。あの涙を浮かべた目。」
楓が、かすれた声で呟いた。
「ああいう目を見ると、絶対泣かさないからって、いつも思ってたのよ……。あの時から、私が華月を喜ばせてあげようって、ずっと思ってたの…」
楓の声には、長い間胸に秘めていた想いが込められていた。
あの時? さっきから楓が言ってるのは、どういうこと?
あの時、わたしと楓は何があったの? そこにあの写真の男の子はいたの?
記憶の奥底で、何かが蠢いている。でも、それが何なのか掴めない。まるで霧の中を手探りで歩いているような感覚だった。
「好きよ、華月」
「え?」
楓の突然の告白に、思考が停止した。
思いがけない楓の言葉に、わたしは顔が熱くなった。
強くなる陽射しを受けて、楓の表情は普段よりもずっと大人びて見えた。その真剣な眼差しに、わたしは言葉を失った。
昨日からいろいろなことがあって、整理がつかなくて言葉が出てこない。
消えた男の子、失われた記憶、そして今の楓の言葉。全てが複雑に絡み合って、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
「行こっか」
楓は微笑みながら、わたしの手を引いた。
坂道を下りながら、わたしは楓の横顔を盗み見る。彼女の「好き」という言葉が、まだ耳の奥で響いている。
どういう意味で好きと言ったのか、そんなこと聞くなんてことできるはずなかった。
友達として? それとも......
考えれば考えるほど、心臓が早鐘を打つ。楓の手を握り返していいものかどうかも分からない。
陽はどんどん高くなる。わたしたちは街を歩き、ショッピングモールで涼んで、お昼を食べ、次の日の約束をして、夕方には家路についた。
今日起こったことの全てが、昨日から続く夢のようだった。でも、わたしたちはずっと他愛ない会話を続けていた。わたしも楓も今日あったことは、もうどうでもいいと思い込みたかったのだ。カヅキくんはきっと元の世界に帰ったはずだし、今わたしの手には楓の温もりだけが残っている。
楓のわたしに対する気持ち、そして自分の心の奥にある、まだ名前のつけられない楓に対する感情のこと、これが今のわたしには一番大切なことかもしれない。でも一人になると、また大切な何かを忘れてしまっている感覚に襲われてしまう。
自分の部屋に戻ってから、スマホであの写真をまた眺める。結局、わたしのスマホに写っているこの男の子のことは、謎のまんまだ。
そういえば、あんなに思い出深いロックフェスの写真なのに、極端に写真が少ないことに気がついた。いつもの私なら、移動の時でも、着いた時でも、フードスタンドで買った食べ物とか、周りの風景だって、たくさん撮っているはずだ。ロックフェスだけでなく、楓と写っているものはどんな場所だろうと、その前後の写真が少ない気がする。
母さんが、洗濯されたわたしの服を持って部屋に入ってきた。
「楓ちゃん、綺麗になったね。あなたのことすごく気にかけてたよ」
「たまに連絡してんの?」
「…そうね、時々」
「ふうん…」
「ほら、いつまでもスマホ見てないで、夏休みの宿題終わってるの?」
母さんは、わたしのスマホの画面を覗き込みながら、そう言った。いつもはそういう仕草はしないので、少し気になった。それに、楓が母さんと連絡取り合っていることなんか、楓から一度も聞いたことがない。
わたしは、机に向かい、やりかけていた数学のワークブックをしばらく眺めて、結局閉じてしまった。