第5章 華月と楓
ケイジという男の子の顔を見たとたん、涙が溢れ出し止まらなくなって、思わずまた玄関に駆け込んでしまったんだ。
心臓がドクドクと激しく鼓動して、息が荒くなった。自分が知っている風景が微妙に違って見える世界、自分と同じ名前の男の子、自分の置かれている状況がまったくわかんない。頭の中は混乱したまま。何が何だかだ。自分の理解を超えちゃってて、その場にいることが突然怖くなって駆け込んだんだ。
そのままドアにもたれかかって座り込む。
玄関のタイルでお尻が冷たい。その冷たさでだんだんと冷静になってきた。あの男の子の家の玄関、今はどう見てもわたしの家とおんなじ感じだ。さっき入った時は、なんとなく色味とかが微妙に違う気がした。でも鍵は合ったわけだし……。
ドクドクしていた鼓動がしだいに緩やかになって、ようやく少し落ち着いたころ、ふと我に返った。
カヅキという男の子が怒鳴り込んできてもいいはずなのに、何も言ってこない。玄関の外には誰の気配もなく話し声も聞こえない。家の中は静まり返っている。よく耳を澄ますとさっきまで全然意識していなかった蝉の鳴き声が響いている。
「あ、あのう…」
もしかして、出てくるのを待ってるんじゃと、そんな不安を抱いて、わたしは恐る恐るドアノブに手をかけ、玄関の扉を少し開けた。
「あれ…?」
今度は大きく扉を開けて、もう一度外に出た。
「暑っ!」
玄関のひんやりした空気とのギャップに驚く。カンカン照りの暑い空気が汗を滲ませる。蝉の鳴き声が響いて、アスファルトから立ち上る陽炎が揺れている。8月の終わり、いつもの風景。さっきまでいた場所は、もう少し気温が低くて、初夏という感じだった。
道路には、近所の奥さんが買い物帰りらしく自転車で通り過ぎていく。その後ろを、小学生の男の子たちが笑いながら走っていく。いつもの日常の光景。さっきまで感じていた違和感はもうなくなっていた。
そして、わたしと同じ名前の男の子も、ケイジという男の子もいなかった。
ケイジ——わたし、ケイジという子を知っている?
そう思った瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。知ってる気がするだけ?。どこで会ったっけ?いつのことだっけ?そうやって記憶を辿ろうとするけど、霧がかかったようにはっきりしない。ただ、その名前を聞いた時の安心感、親しみやすさだけが残ってる。
玄関にもう一度入って家の中を見回した。木製の手すり、踊り場の小さな窓、二階に続く階段。間違いなくわたしの家だ。
リビングを通り過ぎて、階段を見る。さっき置いてあったスケボーもグローブもない。あの男の子の持ち物だったのかな?でも今はいつもの通り、わたしの買ったばかりの靴の箱が置きっぱなしになっている。そろそろおろそうと思ってたんだ…いや今はどうでもいいや。
キッチンで冷蔵庫の扉を開けて飲み物を探す。中は朝見た時とおんなじだ。昨日飲みかけだった炭酸飲料を一気に飲んだ。あ、そういえば、さっき洗ったはずの弁当箱がない。学校から帰って、確かに洗って水切りカゴに置いたはずなのに。
「これって…さっきいたのはここじゃないってことだよね…」
そう呟き、お気に入りの弁当箱どうしよう…などと思いながら、2階の自分の部屋に向かう。部屋は見慣れたいつもどおりの部屋。さっきエアコンをオンにしたはずだけど、停まっている。エアコンをつける。設定はちゃんと冷房になっている。あたりを見渡す。ベッド、勉強机、本棚。全部、いつもの配置のまま。机の上には昨夜やりかけの宿題がそのまま置いてある。数学のワークブック、開いたままのページ。書きかけの文字は確かに自分の字だ。答えが合ってるかどうかは別として。
そして、壁の隅に貼ってあるロックバンドのポスター。
RADIANCEのライブポスター。楓と一緒に行ったロックフェスの記念に買ったやつ。バンドメンバーの顔、カラフルなロゴ、ライブの日付。これだけは、さっきまでの家のものとおんなじだった。
「あいつも好きなのかな?」
RADIANCEは、楓と行ったロックフェスで大好きになったバンドだ。ロックフェスには楓に強引に誘われたっけ。最初は乗り気じゃなかった。ロックなんて全然聞かないし、ましてや野外のライブなんて行ったことなかった。でも、楓がRADIANCEが出るからどうしてもって言うから、しぶしぶながら付き合った。
楓が大会で出走前によく聴いていたって教えてもらった。
「これを聞いて、心を落ち着けたり、奮い立たせたりするんだ」
って楓はよく言ってた。楓にとって、RADIANCEの音楽は、競技に向き合うための大切なお守りのようなものだったんだ。
初めは楓にほぼ無理矢理に聴かされていたけれど、ロックフェスで生の演奏をきいて、すっごく感動しちゃって、気がついたら泣きながら拳を上げていた。今じゃ、わたしのスマホにはそのバンドの曲ばかり入ってる。勉強中に聞いたり、散歩の時に聞いたり、眠る前に聞いたり。RADIANCEの音楽は、わたしの日常に欠かせないものになってた。それに楓とのつながりをいつも感じられるものでもあったしね。
スマホを手に取って確認すると、110番した記録が残ってる。あの時圏外でかからなかったんだ。さっきこの部屋で「圏外」だった表示は、しっかりアンテナが立ってる。
わたしは着替えて、学校から帰って来た道をもう一度辿ることにした。制服を脱いで、いつものTシャツとショートパンツに着替える。日焼け止めを塗って、買ったばかりの靴を履いて、部屋のエアコンはそのままで家を出る。家を出てしばらく歩く。強い日差しが容赦なく照りつけて、アスファルトから立ち上る熱気が頬を撫でていく。しまった日傘持って出ればよかったな。
わたしはそのまま学校からの帰り道を逆に辿っていく。曲がり角、信号機、遠くの建物、壁に貼られたポスター。全部、ちゃんと見覚えがある。さっきあんなに感じた違和感は全く感じられない。
さっき帰りに歩いた時は確かに違ってた。でも夢だったんじゃないかみたいにその痕跡は何も残っていない。
「夢……なんかで片付けられないよね……」
そう、夢にしてはあまりにもリアルだった。あの男の子と言い合い、ケイジという子の顔を間近で見た。家で触れたものの感触も残っている。全部、現実と変わらないくらいリアルだった。
高架橋の手前まできたところで、前から自転車が勢いよく下ってきた。急な坂道を、かなりのスピードで下ってくる自転車。危ないな、と思った瞬間、その自転車の乗り手の顔が見えた。
「華月ーっ」
すぐにわかった。楓だ。知っている声、知っている顔に出会えて、安心感というか安堵感でいっぱいになった。
ブレーキ音とともに、後輪をスライドさせて、わたしの目の前で楓は止まった。楓は2〜3か月伸ばした髪を振り乱しながら、まあまあ汗だくだった。ただ、わたしを見つけ、嬉しそうな表情をしている。
「楓、そろそろ髪結えてもいいんじゃない?」
「部活辞めてから伸ばしてるけど、確かに鬱陶しいわ」
楓は髪を手で撫でながら笑った。県大会を終えて、楓は部活を引退していた。
「でもちゃんと似合ってる。なんだか、大人っぽくなったし」
「ほんとに言ってる? まあいい加減女の子らしくしようかなって」
「じゃあ、女の子らしく自転車乗ってよ」
楓の笑顔は、以前よりも柔らかくて、優しくて、でもどこか寂しそうでもあった。きっと、この夏まで最前線で戦ってきた陸上競技を大学に進学しても続けるかどうか、ケガのこともあって、まだ悩んでいるのだろう。
「で、どうしたの?」
楓の表情が心配そうに変わった。
「どうしたのじゃないよ!どこ行ってたのよ。なんか心配で後から家に寄ったんだよ。」
楓が家に来た?でも、わたしは家にいた。一度外に出たけど、すぐに戻った。
「え…?」
楓の言葉に、わたしはまた困惑する。
「わたし…ずっと家にいたよ…」
「玄関で呼び鈴も鳴らしたし、そうそう携帯も繋がらなかった!」
わたしはスマホをもう一度見た。110番の記録以外、着信の痕跡はなかった。じゃあ、楓が家に来た時や、電話をかけた時に、わたしはあの同じ名前の男の子のところにいたってことだ。わたしとあの男の子の世界は別の世界なのか?
「ねえ楓…信じてくれる?」
わたしは楓の目を真っ直ぐ見つめて言った。楓の瞳も、いつもの通り真っ直ぐだが、少し不思議そうな表情だ。
「何を?」
「今から話すこと、とても変な話だから、普通なら信じてもらえないと思うけど…」
楓は黙って頷いた。
わたしは、学校からの帰り道、楓と別れてからあったこと、全部話した。高架橋を下ってから感じた違和感のこと、自分の家の中の様子がところどころ違っていたこと、自分と同じ名前の男の子やケイジという男の子に会ったこと、そして気づいたらいつもの自分の家だったこと。
楓はずっと真剣に聞いてくれていたが、
「…ケイジ?」
楓がその名前を聞いた時だけ、微妙に表情が変わった。少し驚いたような複雑な表情だった。
「うん、楓はその男の子たち知ってる?」
「……さあ、でも不思議な話ね」
楓は少し考え込むような表情をした後、そう答えた。でも、その「さあ」という答えには、何か含みがあるような気がした。
でも優しい楓は何一つ否定することはなかった。こんなに突拍子もない話なのに。
「信じてくれるの?」
「華月のことはいつも信じているよ。華月にとっての真実は、わたしにとっても真実だよ。あ、今のちょっとかっこ良くない?」
楓らしい。おどけて見せるけど、いつもわたしの気持ちを大切にしてくれる。
「それって……なんとかワールドっていうんじゃない?」
楓は続けて言った。
「”なんとか”ってところが重要なんじゃない?」
わたしは楓の言葉に、くすっと笑ってしまった。
「えへへ、えっと、並行って意味だったよね…」
楓はスマホを取り出し、何やら調べている。楓の指がスマホの画面を素早く操作してる。検索結果をいくつか見て、納得したような表情になった。
「パラレル!…そうパラレルワールドよ!」
楓は嬉しそうに言った。そのドヤ顔がおかしくって…
「ある世界からいろいろ分岐して、それに並行して存在する別の世界だって。"もしも"の数だけ、世界が分かれてるの。もしわたしが男だったら…とか」
楓の説明は、とてもわかりやすかった。そして、わたしの体験した不思議な出来事も、パラレルワールドという概念で説明がつくような気がした。
「そんないろんな"もしも"が無数にあって、華月が男の子だったり、ケイジが——」
ちょうどその時、バイクが1台通りすぎて、エンジンの爆音に楓の声がかき消された。
バイクが通り過ぎた後、楓は言い直した。
「ケ…ケガも…わたしがケガもせず全国大会で優勝しているような世界もあるかもね」
「楓が…おしとやかな世界も?」
「何よそれー!」
楓は予想通り反応してくれて、いつもの元気な笑顔を見せてくれた。
二人で顔を見合わせて、久しぶりに笑った。本当に久しぶりだった。楓と話していると、やっぱり楽しいし、楓の笑顔を見てると、不安な気持ちが少しずつ和らいでいく。やっぱり楓がそばにいてくれると安心する。
「ありがとう、楓、夏休みもうちょっとだけど、ずっと会ってくれるよね?」
「もちろん!」
楓は即答してくれた。その答えに、わたしは心から嬉しくなった。
でも——わたしは、何か大事なことを忘れている。
そのことについては、楓に聞かなかった。わたしたちは明日の約束をして別れた。
家に帰り、シャワーを浴びた。エアコンを効かせたままの部屋は快適だった。わたしのスマホには写真アプリが思い出の写真を通知していた。
「あ、フェスの時の写真だ」
楓とフェスを楽しんでいる写真を見ていたら、またRADIANCEを聴きたくなった。スピーカーから最新の曲を流し、ベッドに横たわる。
そして、ある1枚の写真を見て、わたしは固まってしまった。