ピリオドに続く
ある若いアーティストが亡くなったとき、母は「美人薄命だね」と言った。そうか、美しいと人は死ぬのか。そりゃそうだ。神という存在があるとして、そばに置きたいのは美しい人だろう。
もうすでに四十年以上生きた私だが、まだお迎えがくる気配はない。この年齢では今死んだとて、美人薄命とは言ってもらえないだろう。そもそも私は美人ではない。異性から言い寄られた経験もなければ、お付き合いをしたこともない。そんなことは重要ではない。あの時の母の言葉が、死と美しさを結びつけるに十分だったことだけが重要なのだ。
今日は昼前に起きて営業所に出勤をする。Tシャツとジーパンは、乾いた順にハンガーから外して着回している。菜花タクシーの営業所はアパートから自転車で十分程度。その間体を覆うことができればなんだっていい。営業所に着けば、上下黒色の制服に着替える。その後いくつかの健康チェックを受け、車両の点検に向かう。
タクシードライバーであれば、客の指示に従って運転すればよく、自主的に考えたり判断したりといったことはしなくていいだろうと安易に考え就職した。そんなことはない。曜日、天気、イベントに合わせて配車しなければならない。仕事を教えてくれた先輩は、「人の流れを読むんだよ」と言っていた。インターネットで情報を集め、人の流れを読む。その渦中にいることはないのに、アイドルのライブや花火大会のスケジュールに詳しくなった。飲酒はしないが、終電後も営業している居酒屋を何軒も知っている。
車の点検と清掃を終え、運転席に乗り込む。誰かの人生を想像する仕事だな、とふと思う。今日は金曜日か。まだ繁華街に行くには時間が早いため、主要駅に向かうことにした。新大阪駅は新幹線も走っているハブステーションだ。昼間でも大きなキャリーケースを引きずる人々がタクシー乗り場に並んでいる。
前に並ぶタクシーに客が乗り、発進する。次は自分の番だと乗り場に合わせてタクシーを停め、先頭に並ぶ客を確認する。若い女性だ。キャリーケースは持っていない。トランクは開けなくていいなと思い、運転席に座ったまま、後部ドアを開けた。
「淡路駅まで」
こちらが言葉を発するより先に女性は目的地を告げた。
「淡路駅ですか?」
新大阪駅から淡路駅はJRで乗り換えせずに向かうことができる。路線に詳しくないのだろうか。しかし、わざわざ教えることもないだろうと、車を発進させた。
女性は窓から外をずっと眺めていた。楽な客でよかった、と思った。指示された目的地に向かうだけでいい客が一番楽で好きだ。余計なおしゃべりはしたくないが、話しかけられると返事をしなくてはならない。新大阪駅から十分程無言で車を走らせた。
「西側か東側どちらに停めましょうか?」
そろそろ淡路駅に着くというところで女性に声をかけた。淡路駅は東と西に改札があるが、駅の近くは車での行き来ができない。線路を高架にして、その下をくぐれるようにすると言ってずっと工事をしているが、あと数年は東西開通までかかるだろう。
「あ、えっと、商店街があるほうで」
女性は答えた。たぶん西側にある淡路商店街のことだろうと予想し、西側に向かった。淡路駅西口の前でメーターを止めようとしたところ、女性がここで待っててくださいと言った。
「この後も乗るということですか?」
少しの用事を済ませてそのままタクシーで別の目的地に向かう人はままいるため、それほど驚くことではなかった。
「はい。二、三分で戻ります。メーターはそのままで大丈夫です」
それを聞き、後部ドアを開け女性を見送った。このまま戻ってこない客もいると聞いたことがあるが、幸運なことに今まで出会った客の中にはそのような不届き者はいなかった。
女性も約束通り三分ほどで戻ってきた。
「お待たせしました。次は十三駅にお願いします。」
十三駅も淡路駅から阪急電車で一本だ。
「あの、ここから十三駅ならそこの淡路駅から梅田駅方面の電車に乗ればタクシーより安いですよ」
優しさで教えたわけではない。居酒屋の多い十三駅に昼間行っても客が拾えないため、新大阪駅に戻りたかった。
「あ、そうなんですね。でもその後も行きたいところがあって」
十三駅が終着点ではないのか。
「停車している間もメーター動き続けますし、結構料金高くなりそうですけど」
これも優しさで言った言葉ではない。支払い能力があるのか確認をしたまでだ。
「お金は大丈夫です。クレジットカード使えますよね」
女性はちらりと車窓に張り付けられた支払い方法案内のシールを見た。ええ、まあ、と私は答え、車を発進させた。目的はわからないが、乗車料金さえ支払ってくれればれっきとした客だ。
車を数分走らせたところで女性を見ると、スマートフォンで外の景色を撮影しているようだった。新大阪駅から淡路駅までの道のりも撮影していたのだろうか。
「キヤスというお団子屋さんの近くに停められますか」
突然声をかけられ咄嗟に反応できなかった。キヤス?喜八洲か。
「店の前は車で入れないですけど、近くの大通りまででしたら」
十三駅近くの通りを想像しながら答える。
「じゃあ、すみませんがそこでまた待っていてもらえますか」
女性は少し申し訳なさそうに言った。料金を払ってもらえるなら構わないと思った。しかし、この女性の終着点がどこなのかは確認しておかねば、その後の客入りに影響する。
「それは構わないですが、どちらに向かわれるんですか。この後も何ヶ所か停車させますか」
あくまで職務上必要な質問をしているのだが、好奇心で聞いていると思われないよう注意しながら言葉を選んだ。
「はい。喜八洲の次は中之島美術館で一度降ろしていただきたいです。外観を観るだけですので、すぐに戻ります。その後櫻宮神社で降ろしていただいて、また新大阪駅まで戻って終わりです」
美術館の外観だけ見るための客を乗せるのは初めてだ。「人それぞれ事情があるからあまり深入りするなよ」というのは、先輩から言われた言葉だ。女性の事情に興味があるわけではない。どれくらいの時間でこのドライブが終わるのかを知りたかっただけだ。
女性とはその後会話をすることもなく車を走らせ、十三駅近くで停車した。淡路駅と同じく数分で女性は戻ってきた。団子屋に行ったはずだが、女性の手荷物は増えていなかった。女性は車に乗り込み、中之島美術館にお願いしますと告げた。
中之島美術館に向かう間も女性は車窓から外の景色を動画撮影しているようだった。最近よくいるユーチューバーとかいう類の人だろうか。行ったことのない街並みを見たいと言う人もいるだろうから需要はあるな、と勝手に一人で納得した。
中之島美術館では隣接した駐車場で待機した。どうやら女性は動画撮影しながら美術館の入り口付近まで行き、そして撮影を終えたのかスマートフォンを手提げかばんにしまい車に戻ってきた。
「お待たせしました。では、櫻宮神社にお願いします」
はい、と私は答えて車を発進させる。やはり女性は車窓から動画撮影をしている。
「今日辿っていただいた道順を同じように運転されたことはありますか」
思いがけない質問だった。景色の撮影はしたままに、女性はこちらを見ていた。
「いえ」
質問の意図がわからず、必要最低限だけ答えた。そうですか、と女性はつぶやきまた車窓から外を眺めた。
沈黙を破り女性が話し始めたのはそれから数分後だった。
「足の悪い祖父が、亡くなった祖母のお気に入りの場所をこうしてタクシーで巡っていたらしいんです」
女性はそれだけ話し、口をつぐんだ。先ほどの質問は、女性の祖父を乗せたことがあるかという質問だったのかと、合点がいった。こういった時に気の利いた質問なり相槌なりをするのが大の苦手だ。客の流れは読めても心は読めない。なんとか口を動かし、そうなんですかと発声した。
しかし、祖母の足取りを祖父が追い、その足取りを孫が追うのか。孫の足取りを追う誰かもいるのかもしれないなと思った。
「亡くなった人の思い出の場所を辿るのって、どんな気持ちになるんだろうと思って」
女性は会話を続けるようだった。
「さあ、どうなんでしょう。試したことがないもので」
今まさに女性に湧いている感情が答えなのではないのか、とも思ったが口にはしなかった。
もうこの世にいない人が、生きているうちに見た景色を、その人が亡くなってから他の誰かが辿っていく。本当にその景色を観たいのか、その景色を見た誰かの気持ちを追体験したいのか。少なくともこの女性の祖母は、夫である女性の祖父から、亡くなってもなお同じ景色を見たいと思ってもらえたのだ。
櫻宮神社でも女性は鳥居の外を撮影した後車に戻り、新大阪駅にお願いしますと言った。
新大阪駅に着くと、女性はお礼を言って足早に駅構内に入っていった。撮影した動画は女性の祖父に見せるためのものなのか、はたまた祖母の思い出を追体験した祖父も亡くなり、その祖父の足取りをなぞるためのものなのか。私がそこまで知る必要もないなと思い直し、車を発進させた。
今朝は営業所が慌ただしかった。京阪電車が人身事故で運転が取りやめられ、再開見込みもわからないという。JRや阪急電車と違い、京阪電車の路線は振替輸送できる区間が短いため、配車要請の電話が鳴り止まなかった。
こういうときは自分でルートを考えなくていいから楽だ。
いつも通り健康チェックを終え、車の点検と清掃に向かう。その後は要請のあった駅に向かい客を拾っては送り届け、また要請を受けてどこかの駅で客を拾う。単純作業だ、ありがたい。二時間ほどで徐々に配車要請は少なくなった。
枚方駅から樟葉駅に客を送り届けたところで、タクシー乗り場で待つ客を拾った。人身事故の影響でなかなかタクシーが拾えず、ずっと乗り場で待ちぼうけていたという。客は八十歳前後だろうか。先程携帯で確認した天気予報では、今日の最高気温は三十五度となっていた。暑い中待たされた老婆は額に汗を浮かべていた。
「お姉ちゃんが来てくれるの、あともうちょっと遅かったらくたばってたわ」
見た目とは裏腹に口は達者なようだ。間に合ってよかったですと言いかけて、さすがに失礼かと思い直して謹んだ。
「樟葉墓地まで頼むわ」
私が良い反応をしなかったからか、老婆は目的地を告げて暑い暑いと独り言を言っていた。
老婆が座る隣には紫色がきれいな墓花が横たえられている。来週はお盆だな、どの辺りで客を拾うのがいいだろうかと思案した。
「お姉ちゃん、好きな色何」
墓地に向かって車を走らせていると、突然老婆から質問をされた。
「なんでしょう。青、ですかね、強いて言うなら」
特に好きな色はない。空が青かったので青と答えた。
「青か。ええ色や。うちの姉はな、紫が好きやってん。濃いのよりちょっと薄いやつ」
墓花の話だろうかと思った。バックミラー越しに花の色が見えるかと思ったが角度が悪く見えなかった。花の色には触れず、そうなんですかと相槌を打った。
「ほんで、大きい花びらより小さい花びらがいっぱいついた花のほうが好きやってん」
やはり墓花の話で間違いなかったようだ。老婆が墓花を抱くように持ったため、バックミラー越しに色を確認できた。花は薄紫色だった。老婆の言うように小ぶりな花弁が何枚もあるように見えた。
「その花きれいですね」
墓花の話と分かった以上、全く花に触れずに会話を終わらせるのは接客業としていかがかと思い、無難に花を褒めることにした。
「せやろ。姉が好きな色や」
お姉さんを思い出しているのだろうと思った。声色が少し優しかった。特に相槌を打つことはなかった。
それからお互い何も話さず車を走らせた。数分無言が続いたところで老婆が口を開いた。
「姉も私も子供を産まへんかったから、もう姉を思い出すんは私だけや」
返答に非常に困った。客の流れは読めても心は読めない。そうですかとだけ言った。
「死人を思い出したらどうなるんやろな。思い出してもらえへん人はどうなるんやろな」
どうもならないだろうと思った。しかし、その答えが老婆が欲しいものではないことはわかった。
「どうなるかはわかりませんが、思い出してもらう内容も大事な気がしますね」
老婆にとって思いがけない回答だったようで、そらそうや、と言って歯抜けを見せて笑った。
私自身、口をついて出たセリフに驚いた。自分は死後に思い出してもらう内容も大事だと思っているのか、と新たな発見があった。
自分が死んだあと、自分を思い出してくれる人がいないというのは不安なことなのだろうか。この老婆にとっては不安なことなのだろう。こんなただのタクシー運転手の記憶に残ろうとするのだ。
「思い出話ができる人がおらんくなるのはさみしいことやで」
何のことだかわからなかったが、すぐに先ほどの話の続きかと思い至った。
「姉のことを覚えてる人間が一人二人とどんどん減っていく。私が死んだら誰が姉のこと思い出してくれるんやろ」
驚いた。不安の原因は自分ではなく姉を思い出す人間がいなくなることか。安易なことを言うべきではないと思った。しかし口をついて出てしまった。
「薄紫色の小さい花びらが好きなお姉さん」
老婆が驚いている気配がした。会ったこともない人間が姉を覚えていたからといってなんだというのだ。やはり安易なことを言うべきではなかった。
「そう、そうやねん。薄紫色のな、ちっちゃい花びらの花が好きやってん」
老婆の感情が昂るのがわかった。私が代わりに覚えておきますとは言えないが、会ったこともない老婆の姉の思い出話を今まさにしている。
老婆を墓地で降ろし、帰るまで待っていましょうかと提案したが、断られた。会ったことのない薄紫色の小さな花弁のついた花が好きな女性の冥福を祈って帰ることにした。
包丁を向けられ、とにかく車を前進させろと命令されている。樹海に向かえと言うのだ。ここは大阪府だ。火山の山麓をさして樹海と言うならば、そんな場所は大阪にはない。ならば、海に向かえと言う。海と言うのは大阪湾のことだろうか。
樹海と海を目指す若者から連想されるものは、決して前向きなことではない。
「あの、包丁なんて向けられなくても、タクシーなのでお客様の目的地までは送り届けますよ」
若者の耳に届いているのだろうか。ひとまず、この包丁をどうにかできれば交番に若者を引き渡すことができるのに、と思った。
「目的地を言うとみんな説得してなんとか邪魔しようとしてくる」
それはそうだろう。私だって目的地に送り届けますよなんて言いながら、交番に連れて行こうとしている。自分が送り届けた客が、直後に自ら命を絶つなんてことがあれば、誰だってたまったものではない。
しかしこの若者、樹海だ海だと向こう見ずな目的地を言う割にはどこか落ち着き払っている。これから自死しようという人間はこのように落ち着いていられるものなのか。
「それはそうでしょう。樹海と海と聞いて、思いつくのは一つですから」
細心の注意を払いながら、過激な単語を使わないよう言葉を選んで発言する。
「たぶん運転手さんが想像していることに間違いはないけど、でもたぶん違う想像をしている」
なぞなぞだろうかと思った。想像に間違いはないが、違う想像をしている。答えを聞かせてもらえるのだろうかと少し待ってみた。
「元々の何もなかった状態に戻すだけ。元々あった場所に私を還すだけ」
答えをもらえたようだが、何一つわからなかった。元々あった場所が故郷や実家をさすならば、樹海や海と言った曖昧な目的地にはならないだろう。それに、何もなかった状態とはどういうことだ。
「どういうことですか」
解明できる気がしなかったので、正直に教えを請うことにした。
「自然に還るだけ」
若者の言葉を聞き、昔若くして亡くなったアーティストのことを思い出した。神という存在があるならば、美しい人をそばに置きたいだろう。
若く、まだ生命力のある彼女を呼び寄せているのだろうか。
「何もなかった状態というのはどういうことですか」
元々あった場所というのが、人工的な都市ではなく自然を意味していると仮定して、何もなかった状態とはどういうことだ。
「私が生まれてくる前の綺麗な状態」
私に理解を求めている回答ではない。若者の中にははっきりとした解があるが、それを私が理解できると思っていないようだ。実際理解できない。さも当たり前の事実を述べているだけとでも言いたげに、若者からは特に説明は得られなかった。
「あなたが生まれてくる前の状態は、綺麗だったのですか」
理解しがたいことだらけだが、私の中で一番引っかかりのある部分を尋ねてみることにした。
「何もないのだから綺麗でしょ。綺麗さっぱりという言葉があるくらいなのだから」
少し若者の内側に踏み込めた気がした。
「元々何もなかった状態と、存在していたものがなくなった後というのは同じなのでしょうか」
若者は少しムスッとした。何を分かった気になっているとでも言いたげだ。
「イチ引くイチはゼロでしょ」
それはそうだ。算数の問題ならそうだ。しかし、算数の話をしていないことは確実だ。うまく言えないが、生き物、特に人間を想像しながら「イチ引くイチはゼロでしょ」と言われても納得できなかった。
「そうですが、小数点が残ると言いますか」
算数に引っ張られすぎてわけのわからないことを言ってしまったなと言葉尻を濁した。
「小数点…」
若者は何か考え込む様子だった。
「何もない状態は綺麗だよね」
回答を誤ってはいけない質問が来たと直感した。しかし、私はうまい切り返しや相槌ができる人間ではない。人の流れは読めても心は読めないのだから。
「どうでしょうか」
肯定も否定もしない。わからないのだから答えようがなかった。死と美しさをつなぎ合わせた頃の私が聞いたらなんと答えただろうか。綺麗さっぱりと言うのだからそうに違いない、と考えただろうか。
「小数点はどうなるの」
先程口をついて出た言葉の責任を取れと若者に言われている気がした。
「小数点は残り続けるんじゃないでしょうか」
間違いではないと思った。若くして亡くなったアーティストはゼロになったわけではないだろう。ゼロになったと言うのなら、事あるごとに彼女を思い出す私はなんなのだ。
そもそも、死と美しさをつなぎ合わせるに至った思考はなんだっただろう。若くして亡くなったアーティストが一般的に美しいと言われていたからか。神がそばに置くなら美しい人がいいだろうという私の妄想からか。亡くなった人を思い出し話す、生きている人間を見て思ったのか。
「小数点はなくならないのかな」
小数点という言葉がどうやら若者に引っかかりを与えたようだった。
「そうですね、たぶん」
私の回答を聞き、若者が包丁を下ろす。若者には若者の死への求心力があったのだろう。
命の危機は脱したが、若者を交番に引き渡すのがよいのか思案した。本人に尋ねるのがよいかと思い、目的地を再度確認した。
若者は人工的な都市部へ帰っていった。
連休中に実家に帰りテレビをつけると、若くして亡くなったアーティストの曲が流れた。
隣にいた母が「美人薄命だったね」と言った。深い意味はないだろう。いや、もう少し生きて曲を聴きたかったという意味が込められているのかもしれない、と柄にもなく人の心を読んでみた。