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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

星座もの

アンブレラ・ワルツ

作者: 佐藤山猫

ワルツは、舞踏会の社交ダンスを指し、貴族社会を象徴しています。


なお、恋愛物としていますが、あまり恋愛要素はないです。

また、比較的過激な描写が出てくるためご注意ください。

 少女の母親は娼婦だった。

 種親は居れど父親はなく、少女は貧民街で糊口を凌ぐことを運命づけられていた。

 少女の名前はプレセペ。

 自分の名前よりも先に、暴力とは何かを覚えた子供だった。


 貧民街ではそれなりの長屋で、プレセペは朝に夕に働いた。

 母親は娼婦としては見目良く、身体も熟れすぎていなかった。客を選ぶほどでは無かったが、客がつかないほどでもなかった。だから金はそれなりに手元に残った。

 あばら屋とはいえ、屋根のある場所で寝起きできている。

 路上で膝を抱える、自分と同年代の子の視線を考えると、プレセペは自分の幸運を感謝せずにはいられなかった。


 ある夜、針仕事をしていると、プレセペは針の先で自分の指先を刺してしまった。青い血が泡のように滲んだ。

 幼子にはままあることだった。プレセペも気にしていなかった。

 ただ、その日は、家にプレセペの母がいた。

 自分の娘の体内から滴る血の色を見て、母親は慌てふためいた。


「貴族は青い血をしている」


 母親は無学だったが、見目の良い娼婦だった。時にはあからさまに雰囲気の違う男に買われることもあった。そういう客は商家の二男というところと当たりをつけていたが、どうやら貴族だったらしい。

 不思議がるプレセペに、母親は言い聞かせたものだ。


「いいかい? お前の父親は貴族なんだ。だから青い血が流れているんだ。平民の血の色は知っているだろう? 赤いんだよ。血が青いのは貴族だけだ」


 プレセペは母親に肩を強く揺すられた。


「わかっているねプレセペ。お前を産んだのは私だ。私に感謝するんだ。だからお前はお貴族様にならないといけない。お貴族様になったらお金持ちさ。お金持ちになって、あたしを幸せにするんだ。いいな?」

「私がお貴族様になったら、ママにいっぱいお金をあげるね」


 プレセペの母親は一生に一度の努力をした。

 自分を買ったであろう貴族を見つけたのだ。


 その貴族──カルシノエ男爵は困った。

 兄を流行病で亡くし、跡を継いだ途端に昔の女に迫られている。

 昔の女と言っても、一夜限りの夜鷹の顔や名前なぞ覚えていない。


「お嬢さん。悪いことは言わないからスラムへ帰りなさい」


 カルシノエ男爵は、屋敷に無理やり残されたプレセペの肩に手を置いた。


「ここに居させてください」


 プレセペは繰り返し頼んだ。静かな口調で、しかし力強く、頼み込んだ。


「私を養女にしてください」


 プレセペは、歳の割には頭抜けて賢い少女だった。自分の生活を豊かにするためには、養女となる他ないと気付いていたのだ。握る手に力が入る。

 プレセペの情熱に、カルシノエ男爵は突き動かされた。カルシノエ男爵は「分かった! よ、養女にする! 約束する!」と言った。


「ありがとうございます」

「…………ああ。だけどこの家の実権を握っているのは父だ。隠居したとはいえ前当主だからね。しかも僕は遊び歩いていた身だ。信用力という意味でも親父の方が強い」


 プレセペが感謝の意を示し、男爵の返事は捲し立てるようだった。


「お父様の一存では決められないのですか?」

「無理だ! みんな親父に従う! くそったれ! もう諦めてくれ!」

「そうは言いますが、私もここ以外に行く当てがありません」


 プレセペは思わず手を強く握った。子どもながらに侮れない迫力があった。カルシノエ男爵は息を飲んだ。


「……いや! すぐに! すぐに説得するから!」


 何度か呼吸を整えて、そして重たい足取りでカルシノエ男爵が出ていくのに、プレセペはついていった。今から会うのは自分の祖父となる人物だ。挨拶をしなければ。

 引退した前当主を説得するにあたっては、文字通り骨が折れた。


「分かった! 受け入れる! 君は今日からカルシノエの一族だ!」

「ありがとうございます。お祖父様」


 プレセペの挨拶に、カルシノエ前男爵は苦虫を噛み潰すような表情で応えた。


 こうして、プレセペは貧民街を離れ、プレセペ・カルシノエ男爵令嬢として育つことになった。

 生活は一変した。

 なにせ、働かなくても寝食が確保されている。

 物乞いや路上生活者が虎視眈々と奪う隙を窺っている、あの視線に悍ましさを覚えることもない。

 爵位の低い男爵令嬢だから、貴族全体で見れば行き届いていないことも多い。家の専属で抱えている使用人の数も五人に満たず、特に教育については週に一度、各科目の教師が一時間を割くにとどまっていた。

 プレセペにとっては、貴族の中での家格の優劣などどうでも良いことだった。

 貴族に必要な教育を受けたプレセペは、スポンジが水を吸うように漏らさずその内容を吸収していった。特に礼儀作法の講義には熱心に耳を傾けていた。

 何人もの教師がそれぞれの得意な科目を代わる代わる教える。

 カルシノエ男爵はプレセペの授業を見物することは殆どなかったが、ある時、たまたまその一部始終を見ることがあった。

 見事な音色のバイオリンが聞こえてきて、つい中を覗き込んだのだ。

 演奏していたのはプレセペだった。


 プレセペは目敏くカルシノエ男爵を見つけた。視線を追って、芸術の教師も男爵の方を向いた。


「お聞きになっていましたか」

「ええ。すみません。盗み聞きをするつもりはなかったのですが」

「いえいえ。お気になさらず」


 カルシノエ男爵は非礼を詫び、プレセペの出来はどうかと尋ねた。


「優秀な生徒ですわ」


 通いの芸術の教師はカルシノエ男爵にそう語った。カルシノエ男爵はその目を覗き込んだ。嘘を見抜くことには自信があった。そんなカルシノエ男爵の目でも、教師が心の底から言っていることが分かった。


「ありがとうございます。先生」


 控えめに頭を下げるプレセペは、少女から大人へと変わっていく途上の年齢特有の無邪気な可愛らしさを持っていた。脱皮をするように、日に日に大人になっていくプレセペを、この頃時折カルシノエ男爵はつい一人の女を見る目で見てしまう。


「プレセペさん。このまま嫁ぐなんてもったいないわ。学校に通わない?」


 また別の日、学科の教師から言われ、プレセペは考えた。

 教師の言う「学校」とは王立レルナエ学園のことを指す。王族と貴族しか通うことができない学校だ。試験の受験資格でさえも貴族以上の高貴な身分にしか与えられない。身元が確かで有能な官吏を育成するための学校だ。男爵令嬢であるプレセペはかろうじて受験資格があった。


「挑戦してみたいです」


 逡巡は一瞬だった。

 プレセペは一層勉学に励み、見事合格を果たした。


「お世話になりました」


 プレセペは教師の一人一人に礼を言って回った。


「きっとどこでもやっていけますよ」

「つらいことがあるかもしれないけれど、頑張ってね」


 教師方の助言を胸に、プレセペは学園の門を潜った。


「ここがあなたの部屋よ」


 プレセペは寮に入ることを選んでいた。

 寮監に礼を言い、足音が遠ざかるのを待って鍵をかけた。

 与えられた部屋は半地下の薄暗い部屋だった。天井あたりに設られた採光窓から光が注ぐ。ガラスがあるから雨が降っても水が入ってくる心配がない。カルシノエの屋敷よりは劣るが、貧民街の荒屋よりは良く思えた。

 荷物を置き、寝台に身を預けた。久しく横になっていなかった気がする。プレセペは溜息をついた。


 学校のクラスは表向きは身分差に関係なく、しかし実際には明白に上下関係が存在していた。王族、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。王族や公爵は絶対的に数がおらず、男爵家に生まれた者は学問を修めている暇があれば家業を手伝っている。学年に一人はいる侯爵家の子どもがカーストの頂点で、伯爵家の子どもがそれに次ぎ、子爵家の子は数を頼んで子爵家で群れていた。

 男爵位のプレセペは浮いていた。


「大きな声では言えないけどさ。男爵家の人間までレルナエに通えるのはおかしくないか?」

「男爵位は金でも買える。その気になれば平民がある日から突然爵位持ちだもんな」

「そうそう。子爵より上は伝統ある貴族だからな。大違いだ」


 陰に日向に囁かれる悪口を、プレセペは聞くともなしに聞いていた。


「プレセペさん。気にしちゃダメよ」


 やっかみをかけられていたプレセペを見かねて慰めたのは、同じく寮生のエネア・バイオレット男爵令嬢だった。


「男爵令嬢はわたしたちだけなんだもの。助け合って、仲良くしましょ?」


 寮の共用部。食事の提供される広間で二人は額を突き合わせるように話している。通りがかった寮監が通り過ぎざまに睨んでいく。寮監の態度にも男爵位への蔑みが覗けるようで、エネアは寮監の背中へと舌を出した。


「わたしは、お父様に言われてここを受けたの。勉学もマナーも、お父様に厳しく仕込まれたわ」


 エネアはうんざりといった様子で溜息をついた。


「爵位が低いから、コンプレックスがあるのよね。娘に押し付けないでほしいわ。すぐにでも家から離れたくて、寮に入ることを決めたの。……それでやっと解放されたと思ったら、今度は家の格に任せてみんな気を遣ったりマウントを取ったり。あー肩が凝る」


 エネアが吐き出す言葉を、プレセペは最後まで聴いていた。プレセペには同類の悩みが無かったので、特に大した反応を返すことができなかった。


「ねえ。ちゃんと聞いてた?」

「もちろんです」


 エネアは疑り深い半目をプレセペに向ける。


「じゃあ何か感想言って」

「え? その、私はそういった不満を持ったことがなかったので、新鮮でした」

「ふうん」


 望む応答ではなかったからか、エネアはなおも不満そうだったが、これ以上プレセペを突いても仕方がないと悟ったのだろう。表情を元ように無垢な少女のものに切り替えた。


「カルシノエ男爵って、どんな方なの?」


 問われ、プレセペはしばらく考えて答えた。


「お父様はとても優しい方です。一人娘の私のために、心を尽くしてくださいます」

「あら、そうなの? 良いお父様なのね」


 エネアは微笑を浮かべた。

 プレセペには、その表情の浮かべる意味が分からなかったし、そもそも気付くこともできなかった。


 二人は行動を共にすることが多くなった。子爵家の子どもたちが爵位が同じ家の子だけで群れるように、男爵令嬢である二人が一緒に行動するのは自然なことだった。

 二人の関係は、学術試験まで続いた。


 入学して最初の学術試験で、プレセペは全科満点を獲得したのだ。


「知らなかったわ。プレセペがそんなに頭が良かったなんて。ずっと勉強してきた私よりももっと頭がいいのね」


 エネアはそうプレセペに語った──プレセペが後に述懐したところによると、だ。


 エネアはプレセペと口を聞かなくなった。

 変わったのは、エネアだけではない。

 子爵の子女にしても伯爵の子女にしても、プレセペを見下していた同窓たちが皆して、プレセペを見る目が変わった。侮蔑は何に変わったか。畏怖ではない。疎ましさだ。

 プレセペはますます孤独になった。プレセペにとってはどうでも良いことだったが、実害が出始めていた。


「ペアが、いない」


 社交ダンスの授業。教師のマシアカ・ハーブは漫ろに立つプレセペを見て、思わずひとりごちた。

 社交ダンスは男女一名ずつが組になって踊る。授業では、代わる代わる男子生徒は女子生徒に、女子生徒は男子生徒に声をかけ、踊るのだ。

 プレセペもまた、他の生徒と同じように声をかけていた。その誰もが、プレセペのことを見えていないかのように無視していた。

 気持ちは分かる。

 マシアカは内心で深く頷いた。


「先生。私と踊ってくださいませんか」


 プレセペに頼まれ、マシアカは首を振った。


「カルシノエさん。この授業では、生徒同士で踊るのがルールです」


 そのようなルールは無かった。ばかりか、生徒の男女比など常に一対一ではない。あぶれる生徒のために即興で踊ることもままあった。


 そのことに気付かないプレセペでは無かった。プレセペは目を細めた。

 そんなプレセペの変化を見落として、マシアカは鼻を鳴らした。


「実技試験でも当然、生徒同士で踊っていただきますよ。できなければ不合格です」









 数日、プレセペは図書室に通い詰めていた。それが周囲には、途方に暮れて現実逃避しているように映っていた。


「君がカルシノエ男爵令嬢かい?」


 名前を呼ばれて、プレセペは顔を上げた。

 眉目秀麗な男子生徒がプレセペを覗き込んでいた。

 校章の色で、上級生だと分かった。


「僕はハイドラ。下級生に、全科目で満点を取った男爵令嬢がいると聞いてね。興味があったんだ」


 ハイドラ、というのは第三王子の名前だった。


「ハイドラ殿下が、私に何の御用でしょうか?」

「別に。興味があっただけさ」


 ハイドラはプレセペの前に座り、頬杖をついて、所在なさげに窓の外を見ている。殿下を前にして、本を読んでいるわけにもいかず、プレセペはただじっとハイドラが喋り出すのを待っていた。


「孤独を感じてはいないかい?」


 突然ハイドラが話しかけてきた。プレセペは面食らったようになって、返事が紡げなかった。


「僕は孤独なんだ。王子だからさ。教師までもが気を遣ってくれるけど、全然打ち解けた感じがしないんだ。腫れ物みたいに扱うってああいうのを言うのかな。学校に通えたら、身分を超えた生涯の友人が見つかるかなと思っていたけど、そんなことはなかった。

 どこにいても居心地が悪くて、せめて本を読んでいる時は全部忘れて没頭できて、それで、よくここに来ている」

「お気持ち、分かる気がします」


 プレセペは深く頷いた。自分の胸に手を当てて、


「私も避けられていて、打ち解けて話せる人がいないんです」

「……僕たちは、よく似ているな」


 ハイドラは翳りのある笑顔を浮かべた。プレセペは上目に、前髪の奥からそれを見ていた。


「また、お話しできるかな」

「殿下がお望みでしたら」


 立ち去るハイドラを、プレセペはいつまでも見送った。


 その日から、図書室での逢瀬が始まった。


 ハイドラはどうやら学業全般を不得手としているようだった。さらさらと高次方程式を解いていくプレセペに、「君が僕の代わりに試験を受けれたらいいのにな」と苦笑した。


「家庭教師に教わったのに、出来が悪くて不甲斐ないな」


 困り顔で言うハイドラの様子に、プレセペは「誰にだって得意や不得意はあります」と言って励まそうとした。


「君にもあるのかい?」

「不得意も、上手くいかないこともあります」

「ほう? たとえばどんな?」

「そうですね。社交ダンスのペアに誰もなってくれなくて、試験が受けられないことでしょうか」


 事情を聞いて、ハイドラは憤慨した。


「社交ダンスの指導要綱に、『生徒同士が踊らなければ単位を出さない』などは無い! プレセペ。君を困らせたいだけだ」

「それはとても、腹立たしいですね」

「そうだ! それに相手が決まらなくては、練習もできないではないか」


 こうしてはいけない。


 ハイドラはそう檄してプレセペの手を引いた。とても楽しそうだった。


「踊ろう。プレセペ。練習だ」


 図書室を出てダンスホールへ向かう。受付は「また殿下ですか」と辟易した顔を隠しもしなかった。入り浸るほど来ているらしい。


「社交ダンス、すなわちワルツで鍵を握っているのは男性側だ。両者のステップが揃わなければ美しく見えないが、それを正しくエスコートするのは男性側の負うところが大きい。手練れにかかれば、音楽がなくとも」


 ハイドラが差し出した手を、プレセペは躊躇いがちに掴んだ。

 音楽がない。それでどうやって踊るのかとプレセペは内心で首を捻っていたが、流れのままにハイドラの身体の動きに身を委ねる。

 徐ろにダンスは始まった。

 夢のような時間だった。

 二人は手を取り合い、心のままにステップを踏む。音楽など無くとも、プレセペには次に自分がどう動くべきかが自然と理解できた。ハイドラの視線が、手の動きが、足運びが教えてくれる。


「……すごい」


 プレセペは思わず心の内を漏らしていた。ハイドラが用意していた得意そうな顔をすぐに引っ込めて、目を丸くした。


「プレセペ。君は面白いね」

「……何か変でしたか?」

「君は『すごい』と言ってくれた」

「はい。すごいと思いました」

「だったらどうして、そんなに憎しげな表情をするんだ」


 プレセペはハイドラの顔を見上げた。

 プレセペが読み取る限り、ハイドラは怒っても悲しんでもいないようだった。ハイドラの表情にあったのは好奇心だった。小さな顔に不釣り合いな大きな目がプレセペの心奥を覗き込もうとしていた。


「誤解です。殿下。私は純粋に驚いたのです。殿下のワルツの技術に」

「ふうん」


 ハイドラは幾分か機嫌を直したようだった。


「学業も政治も凡才だったけれど、踊り(これ)だけは得意でね。役に立ちはしないけれど」

「上手に踊れるに越したことはありませんが、極めたところでそれ以上のものはありませんね」


 あけすけな物言いに、ハイドラは「そうなんだ」と苦笑いをする。


 それでも、とプレセペは思う。

 孤独だったから芸術に狂ったのか、ワルツに執心だった為に周りから人が離れたのか、その因果は分からないけれど、結果として一芸を手にしたのであれば、それは賞賛されるべきなのではないか、と。


「殿下。私は殿下を尊敬します。きっかけがどうであれ、取り組みが何であれ、物事を極めるのは大変に難しいことです」

「……プレセペ」

「それに、殿下のお仕事は殿下一人で為さなくてはいけないものでもありません。殿下のお仕事は人を使うことです。ですから、殿下ご自身の能力が秀でている必要は必ずしもないのです」

「……ふうむ。なるほど」


 天啓を聞いたかのようにハイドラの目が輝いた。顎に手を当てて、プレセペをじっと見下ろしている。プレセペも応えるように、ハイドラの目を見つめた。 


 








 社交ダンスの試験の日。

 マシアカは眼前の光景が信じられず、目を剥いた。

 授業中、プレセペが完全に仲間外れにされていたことは確認していた。男爵令嬢の身分で注目を浴びた報いだと、胸がすく思いだった。

 一つ上の学年にいるハイドラ王子が、学年を飛び越え、授業方針への干渉という越権行為をしてきたのには少し焦った。一介の男爵令嬢にハイドラ王子を動かせるとは思いもしなかったからだ。それが踊り狂い(ボンクラ)なハイドラ王子の発言で、しかも生徒と教師の職分を超えた理不尽だったから跳ね除けることができたものの、もう少しハイドラ王子が支持を集めていたら、自分の立場はなかっただろう。

 それなのに。

 プレセペは他の女子生徒に交じって男子生徒に身を委ね、踊っている。才媛はダンスの分野にも秀でていたようで、男子生徒の硬い動きに合わせて優雅にステップを踏んでいる。どう意地悪に見ても、落第とすることは不可能だった。

 プレセペの優美さに比べて、他の生徒の動きは全体的に硬い。緊張が視線にも手の動きにも足運びにも表れている。練習では問題なかったし、このようなダンスはそもそも貴族にとっては日常のことだ。今更緊張しているのはなぜだろう。

 首をかしげながら、マシアカは音楽を止めて試験の終了を宣言した。もちろん全員合格だ。生徒たちの表情に喜色が浮かぶ。なぜだろう。

 授業の終わりに、マシアカはエネア・バイオレット男爵令嬢を呼び止めた。プレセペと同じ男爵令嬢で、事情を知っているのではないかと考えたからだ。


「先生?」

「ちょっと、いいかしら」


 マシアカはエネアを手近な部屋へ連れて行く。その様子を、プレセペは目の端で捉えていた。


「先生? 急に、どうしたんですか?」

「まあ座って。お茶でもどうぞ。実家の領地で採れた茶葉なの」


 マシアカは子爵令嬢だった。家に兄弟姉妹が多く、嫁ぐ必要がなかったために母校で教師をしているのだ。

 茶の香りにはリラックスの効果がある。部屋中に香りが行き渡るのを見計らって、マシアカはソファに腰かけ、エネアと向き合った。


「急にプレセペさんと仲良くなったみたいね。心配していたからよかったわ。どうしたの?」

「…………知りません」

「仲間外れにしなくなったのはいいことよね。仲間外れにしたままだと、内申にも響くから」

「…………私たち、元から仲良しでしたよ。いじめもしていないし」


 エネアの表情は沈痛で、態度は頑ななだった。マシアカは切り口を変えることにした。


「今日の試験、なぜかみんな緊張してたわよね。エネアさん、あなたも。あそこまで緊張しなくていいんじゃないの?」

「……男爵令嬢なもので、社交ダンスに接する機会があまりなく」

「そうなの? 練習では平気そうだったのに。今日のはそう、まるで──」


 ──まるで、誰かの合否を祈っているようだった。


 口にしようとした瞬間、マシアカの中ですべてのパーツがつながったようだった。電撃が走る。


「プレセペさんに脅されたの? 自分が合格しなかったら、あなたたちのせいだって」

「…………それは」

「違いますよ?」


 声がした。ヒイッ、とエネアが息を呑む。マシアカは何が起きているのかわからなかった。ローテーブルに置かれた茶器とカップが床に落ちて割れた。


「そうですよね? エネアさん?」














 ハイドラはこのところ気分が良かった。

 学業にも政務にも才能を出さない凡夫。社交ダンスにのめり込み、いつしか従者すら最低限の用向きしか話さなくなった。埋められない孤独と向き合うため、新たなワルツを創り、そしてそれがますます孤独を助長させた。

 そんなハイドラに向き合ってくれる女性がひとり。プレセペ・カルシノエ男爵令嬢だ。

 彼女もまた、出自のせいで孤独を感じている一人だった。

 しかし、自分とは異なり、プレセペは才媛だった。学業に優れ、噂に聞くところによるとダンスもそつなくこなしたという。運動神経の良さは、共に踊ったハイドラも気が付いていた。

 自分のコンプレックスを嫌でも刺激される。

 そんなハイドラに、プレセペは何でもない風に言ってくれたのだった。「王は人を使うのが役目。ですから殿下は人を使うことだけを考えれば良い」と。

 闇が晴れるようだった。

 プレセペは男爵令嬢に収まらない器だと思えた。彼女のような優秀な女性をこそ、傍に置き、使うべきなのだろう。

 社交ダンスの授業には従者を通じて見直しを求めた。教師マシアカ・ハーブは退職し、プレセペはつつがなく単位を修めたという。ハイドラは非常に満足していた。

 プレセペは、あとは何に困り得るだろう。

 考えを巡らせながら、ハイドラは無意識に踊っている。ハイドラがこよなく愛するワルツ──『傘の円舞(アンブレラ・ワルツ)』を。

 貴族社会で生きていくうちに、どれだけ困難に晒されるか分からない。雨のように降り注ぐ困難から、身を守るための傘を、お互いに差し掛ける。そして、貴族社会の中を生き抜い(踊っ)ていくのだ。

 そんな妄想をしているところに、水を差す冷たい声。ハイドラ付きの従者だった。


「ハイドラ様。陛下からお手紙です」

「そうか。半年ぶりだな」


 国王たる父はハイドラにはあまり注目していないようだった。兄が優秀なのに対して自分は凡庸だから、関心も薄くなって当然だろう。さりとて、完全に無視している訳でもない。従者を通じて、ハイドラの学園での様子を観察しているのだ。

 大方、プレセペとのことが書いてあるのだろう。男爵令嬢とは身分が釣り合わないなどというところだ。


 ハイドラは封を切って、中身を確認する。そして、すくりと立ち上がった。


「殿下。どちらへ」

「学園。図書室だ。それから──」


 走りながらハイドラは指示を飛ばす。それを、いつもどおり無感情な目で従者は承った。

 果たして、プレセペは図書室にいた。すっかり定位置となった窓際の席で、本を読んでいる。題名がちらりと見えた。心理描写に定評のある大衆小説だった。


「……っ、プレセペ!」

「ハイドラ殿下。ごきげんよう」


 肩で息をしるハイドラに比べて。プレセペは平静の落ち着きを保っていた。

 少し距離を開けて、ハイドラは椅子に座るプレセペを見下ろす。


「プレセペ。僕は君を、妃に迎え入れたい」

「……まあ」


 プレセペは目を丸くして、あからさまに驚いている様子を示して見せた。


「光栄ですわ。ハイドラ殿下」

「そうか」


 ハイドラは深く息を吸い込んだ。ここからが正念場だ。


「それで、少し確かめたいことがある」

「はい」

「人を殺したことが、あるのか?」


 空気が変わった。

 ハイドラは思わず身震いをした。

 感情の起伏に乏しくも、受け入れる姿勢を見せていたプレセペの、急な変容。見た目には、変わらない。しかし、漂う殺気が、拒絶の気配が、ハイドラを酷く怖がらせた。


「どうしてそのようなことを?」

「マシアカ・ハーブ子爵令嬢が消えたからだ」

「…………」

「社交ダンスの教師、マシアカ・ハーブ子爵令嬢は先日、一身上の都合で学園を去った。退職届が置いてあったそうだ。しかし、王都にある自宅にも、実家の子爵領にも帰った形跡がない。行方不明だったのを、父の手の者が見つけたよ。バラバラにして埋めるなんて……うっ……」


 追求する自らの言葉に、ハイドラは吐き気を催しそうになる。平然と佇むプレセペは、最早魅力的な才媛ではなく、得体の知れない邪悪のように見えていた。


「それから、カルシノエ男爵家の前当主、グスタフ・カルシノエと現当主のオーギュスト・カルシノエ。グスタフは8年前に、オーギュストは3か月前に亡くなっているね。いま、君はカルシノエ男爵家の唯一の生き残りだ」

「そうです」

「8年前、グスタフが無くなったのと同時期に、カルシノエ男爵家は養子を迎えている。プレペ、君だ」

「ええ。私はお父様の婚外子なのです」

「……そうだったのか。では、母親は?」

「亡くなりました」

「いつ?」


 プレセペは目線を落とした。ハイドラの手に握られた便箋に向けられている。


「調べてあるのでは? まだだとしても、すぐ調べられるでしょう?」

「……8年前に、アノマという娼婦が無くなっている。スラムの水路に浮かんでいるのが発見されたんだ。全身骨折で亡くなっていたそうだよ」

「母ですね。母がいると、遺産の取り分が減りますから」


 ハイドラはプレセペに指をつきつける。その指先は、ブルブルと震えていた。


「君を、一連の殺人の容疑で告発する!」

「……どうやら潮時のようですね」


 プレセペは立ち上がった。ちらりと窓の外を覗く。兵士がレイピアを構えているのが見えた。


「この頃、カルシノエ男爵家に医者が居候しているんですよ。大変優秀な方で、学園の関係者では無いですけれど、怪我をした級友たちも治療してもらいました」

「何の話だ?」

「何って、暴力の話ですよ。殿下。私は貧民街で生まれ育ちました。貧しいものたちが、たった一切れのパンのために殴り合う場所です。力のあるものが全てでした。

 力がなく、隙をついてパンを盗むしかなかった孤児は、見つかるとあらん限りの暴力を受けました。報復です。死骸が水路に浮かんでいました。私と同じくらいの子どもが死体となっているのを見て、私は学んだのです。なるほど、世の中というのは暴力が全てなのだと。力のないものは死んでも仕方がないのだと」


 暴力とは、他の手段をもってする生活の継続である。

 居候の医者──蛇を連れている医者だ──にこの話をした時、医者は「住む世界が違う」と頭を抱えていた。「そういう人種の集まるところがある。紹介する」とも。


「本当は、このまま殿下に取り入って暴力で支配してしまおう、殺しても問題なさそうなら殺そうと考えていたのですが、やはり王族は甘くありませんね」


 級友たちを脅した時のことを思い出す。教室に皆が集まっている最中を見計らって、全員を何度も半殺しにしたのだ。マフィアの頭領と医者(協力者たち)の手で、教室の扉や窓は全て開けられなくしてもらったし、骨を砕いた後はすぐに治療を施してもらった。おかげで、気の向くままに何度も重ねて暴力を振るい、支配することができたのだ。口外したら殺すとよく言い聞かせて、支配はうまくいっているように思っていた。ハイドラの話を聞く限り、彼らはよく脅しを守ってくれたのだろう。


 ハイドラはハイドラで、プレセペが自分のことを駒としてしか見ていなかったことを思い知らされ、衝撃を受けていた。

 百歩譲って、自分を支えるために手を汚したのであれば理解できた。しかし、どうやらプレセペは純粋に私欲のために手を汚したようだった。


 垂れ下がっているプレセペの手が赤く、肥大化している。それは、カニのハサミに酷似していた。物を砕くのに適した形状だ。ハイドラは例にない速度で頭を回転させ、不明だった凶器の問題の答えがいま目の前にあると理解した。


 化け物。


 ハイドラは身を翻して逃げ出した。

 入れ替わりに飛び込んできた兵士がプレセペにレイピアを突き出す。制服の下に広がっていた甲殻に阻まれて、細剣は刃毀れし反り返った。


「無駄です。私に刃物は効きません」 


 おもむろにプレセペが伸ばした腕は、兵士の身体を強く掴む。赤く、肥大した鋏脚が兵士を握りつぶす。骨の砕ける音は、絶叫にかき消された。

 それだけで、兵士の大半は怖気づいたようだった。武器を捨て、我先にと逃げ出す。


 窓の外を見ると、囲っていたはずの兵士は皆、立って気絶していた。

 遠くに人影が4つ見える。協力者──自分と同じく「魔術を使えるもの」(など)だ。

 プレセペは窓から地面に飛び降り、悠々と学園の外に姿を消した。



 

 



お読みいただきありがとうございました。


某後日談ファンタジーの魔族や、某Lesson of the evilに着想を得ています。

恋愛ジャンルと見せかけて実は…。というのを仕掛けてみたかったのです。

恋愛物を期待されていた方には申し訳ありません。


感想の他、ブックマークや☆等もお待ちしております。

☆はひとつだけでも構いません。数字に表れることが嬉しく、モチベーションになります。よろしくおねがいいたします。

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