56. 監査官の疑念
ヴァレリーが町に滞在して三日が経った。
監査官として彼は公正を謳いながらも、王族の意向を受けつつ独自の調査を進めている。
彼が本当に公平な判断を下すのか、それともミリアム側の勢力に取り込まれているのか――菜々美たちにはまだ分からなかった。
朝、菜々美のカフェではいつも通りの準備が進められていた。
しかし、店内は以前と比べて客足が遠のいており、寂しさが漂っている。アリスがカウンターを磨きながら、不安げに呟いた。
「ヴァレリーさんって、本当にちゃんと調査してくれるんでしょうか……?」
「それはまだ分からない。」
リュウが腕を組みながら窓の外を睨んだ。
「だが、少なくとも簡単に決着がつくとは思えないな。」
「証拠さえ示せれば、公平に判断する可能性もあるわ。」
ガイデンが冷静に続ける。
「彼の過去の裁判を調べた限りでは、王族の意向に逆らったこともある。完全に買収されているとは言い切れない。」
「でも、その証拠をどうやって集めるのか……。」
菜々美は不安を隠せないまま、小さくため息をついた。
そのとき、店の扉が重く開かれた。
静寂に包まれたカフェに、一人の男が姿を現した。
黒い礼服に身を包み、鋭い灰色の瞳を持つ――ヴァレリーだった。
「王族監査官ヴァレリー・フォン・ルーベン。再び話を聞かせてもらう。」
彼の声が静かに響き、店内の空気が緊張に包まれる。
リュウとガイデンは慎重に彼を見つめ、菜々美はゆっくりと頷いた。
「何をお知りになりたいのですか?」
「いくつか確認したいことがある。」
ヴァレリーはゆっくりと店内を歩きながら言った。
「まず、例の有毒植物が発見された件についてだが……君は本当に、その植物を育てていないと断言できるのか?」
「もちろんです!」
菜々美は即座に答えた。
「そんな植物、一度も育てたことはありません。誰かが意図的に紛れ込ませたとしか思えません。」
ヴァレリーは微かに眉を上げ、懐から一枚の書類を取り出した。
「しかし、役人の報告によれば、君の畑で見つかった植物は他のハーブと一緒に自然に生育していたとされている。これについてはどう説明する?」
「それは……!」
菜々美は言葉に詰まった。
確かに、それらの植物は自然に生えているように見えた。
しかし、それが意図的に紛れ込まされたものなら、計画的に仕組まれた可能性が高い。
「その報告書が本当に正しいとは限りません。」
ガイデンが口を挟んだ。
「畑の管理は徹底しています。突然そんな植物が生えてくるのは不自然すぎる。」
ヴァレリーはガイデンに鋭い視線を向けた。
「それを証明する証拠は?」
「今、それを探しているところです。」
菜々美が息を整えながら答えた。
「でも、もし本当に私がその植物を使っていたのなら、どうしてこんなにも突然問題が起こるんですか?」
ヴァレリーは沈黙し、考え込むように視線を落とした。
確かに、菜々美の言葉には理がある。
何年も安全に営業していたカフェが、突如として有毒植物を使い始める理由があるとは考えにくい。
「……もうひとつ聞こう。」
ヴァレリーは再び口を開いた。
「君のカフェで提供されていたハーブティーを飲んだという『被害者』たちがいるが、君は彼らと個人的な面識は?」
菜々美は一瞬考えた後、ゆっくりと答えた。
「何人かは、常連のお客様だった方もいます。でも、裁判で証言された内容は、私が知っている彼らの姿とは違いました。」
「ほう……?」
ヴァレリーの目がわずかに細められる。
「具体的に?」
「例えば、ある証言者の方は『私のハーブティーを飲んだあとに腹痛を訴えた』と言っていましたが、その方は以前から胃が弱く、時々体調を崩されていました。でも、それが私のせいだと決めつけるのはおかしいと思います。」
ヴァレリーはじっと菜々美を見つめた。
その視線には、疑念と探求心が混じっているようだった。
やがて彼は小さく息を吐き、再び書類を閉じた。
「分かった。」
彼は短く言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「私はこれから更なる調査を行う。この件が本当に君の言う通りなのか、それとも別の要因があるのか――慎重に判断するつもりだ。」
「……ありがとうございます。」
菜々美は真剣な目で彼を見つめながら言った。
「私たちは何もしていません。どうか、公正な判断をお願いします。」
ヴァレリーは何も言わず、そのまま店の出口へと向かった。そして扉の前で一度だけ振り返る。
「私が公正な判断を下すかどうかは、君たちが示す証拠次第だ。」
それだけ言い残し、ヴァレリーは店を後にした。
彼が去った後、店内の空気が一気に緩んだ。アリスが大きく息を吐き、マークも安堵の表情を浮かべた。
「なんだか……少しだけ希望が見えてきた気がします。」
「いや、まだ気を抜くな。」
リュウが低く言う。
「ヴァレリーが本当に公正かどうか、まだ分からない。あいつの調査がミリアム側に有利に動けば、こっちは完全に不利になるぞ。」
「その通りね。」
ガイデンが頷く。
「でも、少なくとも彼は話を聞いてくれたわ。これを利用しない手はない。」
菜々美はゆっくりと深呼吸し、決意を固めた。
「私たちも動かないと。ヴァレリーが調査するなら、それより先に真実を掴まないといけないわ。」
彼女の言葉に、全員が力強く頷いた。
監査官が動き出した今、菜々美たちもさらに一歩前へ進む必要がある。
次の一手が、彼らの運命を左右することになる――。




