44. 疑惑
清々しい朝、菜々美のカフェはいつも通りに準備を整えていた。アリスが窓辺に置かれたハーブ鉢を整え、マークがテーブルのクロスを丁寧に広げている。菜々美はカウンターで新しいメニューの構想を練りながら、手に取ったティーポットを磨いていた。
だが、ここ数日、店内の静けさが心に引っかかっていた。ごく一部の常連客たちは変わらず訪れるものの、新規の客足がほとんどない。それに加えて、街で聞かれる微妙な噂――菜々美はそのすべてに、何とも言えない胸騒ぎを感じていた。
そのとき、カフェの扉が重々しい音を立てて開かれた。
菜々美が顔を上げると、そこには先日訪れた役人たちが立っていた。二人組の男たちは無表情のまま店内に足を踏み入れ、周囲を見回してからカウンターに向かって歩み寄ってきた。
「また何か……?」菜々美は少し硬い笑顔を浮かべながら問いかけた。
一人の役人が腰に差していた巻物を取り出し、無造作に広げた。そして、冷ややかな声で告げる。
「命により、あなたのカフェの営業を一時停止します。」
「営業停止……?」菜々美の笑顔が驚きと困惑に変わった。
「複数の住民からの報告がありました。あなたのカフェで提供されるハーブティーを飲んで、体調を崩したという証言が複数寄せられています。」
「そんな! うちのハーブティーは安全です!」菜々美は震えそうになる声を押さえながら強く反論した。
しかし、役人の態度は変わらない。「ですが、現時点で確認すべき事案がある以上、正式な調査を開始せざるを得ません。」
菜々美は返す言葉を失い、しばらく沈黙した。その間にも役人の目は冷たく、覆る気配は微塵もなかった。
「さらに、あなたのカフェで飲食をしたという『被害者』たちが、具体的な症状と共に証言を行っています。」
「被害者……?」
役人は頷き、細かい報告書を菜々美に差し出した。
「ここには、腹痛、頭痛、倦怠感などを訴える者たちの証言が記されています。これらは、あなたのカフェで出されたハーブティーを飲んだ後に発生したとされています。」
菜々美は報告書を手に取り、その内容を目で追った。記載されている「被害者」の名前の中には、見覚えのあるものがいくつもあった。常連客の名も含まれており、彼らの証言は驚くほど具体的だった。
「でも、こんなの……!」菜々美は息を呑み、声を詰まらせる。
症状の記述と店のハーブティーの安全性を照らし合わせても、全く結びつかないことばかりだ。それでも、報告書は事実であるかのように整然と書かれている。
「これは……何かがおかしい。うちのハーブティーでこんなことが起きるはずがない!」菜々美は報告書を握りしめ、必死に訴えた。
だが、役人たちは冷たい態度を崩さない。「疑念が晴れるまでの間、営業停止は続きます。」それだけを告げ、彼らは店を後にした。
菜々美は報告書を手に、頭の中で渦巻く思考を止められないまま立ち尽くしていた。信じがたい内容が目の前に並ぶ一方で、それが自分たちのカフェに向けられた「事実」として語られていることが何よりも恐ろしかった。
「菜々美さん……これってどうなるんですか?」
アリスの小さな声が耳に届き、菜々美は我に返った。振り返ると、アリスの目には不安が浮かんでいた。その隣でマークも掃除の手を止め、眉を寄せて菜々美を見つめている。普段は明るい二人の表情が曇っているのを見て、菜々美は心の中にじわじわと痛みを感じた。
「分からないわ……でも、きっと誤解を解けるはずよ。」
何とか微笑みを作りながら答える菜々美だったが、その笑顔はどこかぎこちなく、声には力がなかった。
「誤解って、本当に解けるんでしょうか?」アリスは不安げに続ける。「こんな噂が立って、お客さんも減って……私たち、大丈夫なんですよね?」
「もちろん、大丈夫よ。」菜々美は強がって言ったが、自分の中ではっきりとした答えがあるわけではなかった。
マークが横から口を挟む。「でも、どうしてこんなことになったんですかね。いつもと同じようにしてただけなのに、こんな風に疑われるなんて……。」
菜々美は答えを出せないまま、視線を報告書に落とした。確かに、自分たちはこれまで通り、誠実にハーブを育て、最高の状態でお茶を提供してきた。それがなぜ突然、このような形で裏切られるのか。
「分からない。でも、私たちが何も悪いことをしていないことだけは確かよ。」
そう言い切った菜々美の声は力強かったが、心の奥では疑念が渦巻いていた。自分たちのカフェがどれだけ安全で、品質に自信を持っていたとしても、この状況では何か「証明できるもの」が必要だった。それがない限り、どれだけ声を上げても、この噂は消えないかもしれない――そんな冷たい現実が心を支配していた。
「でも、このままじゃお客さんはどんどん減っていくよね……。」アリスは心配そうに声を落とす。
「だからこそ、私たちは動かないといけないのよ。」菜々美はしっかりとアリスとマークの顔を見た。「噂に負けないように、このカフェが安全だってことを分かってもらうためにね。」
「でも、どうすれば……?」マークが言葉を詰まらせる。
菜々美は少しの間考え込んでから、深呼吸をして言った。「まずは報告書をしっかり読み込んで、何が原因とされているのかを突き止めるわ。それから、畑やカフェに異常がないかもう一度確認して、具体的な証拠を探すの。」
「証拠……。」アリスは少し戸惑ったように口にした。「そんなの、私たちだけで見つけられるのかな……?」
「見つけられるわ。」菜々美は強く言った。「だって、私たちが何もしていないんだもの。真実を突き止めれば、必ず分かってもらえるはずよ。」
その言葉に、アリスとマークは小さく頷いた。二人とも完全に納得したわけではなさそうだったが、それでも菜々美の言葉には不思議な説得力があった。
「よし、それじゃあ今日の午後は畑をもう一度確認しましょう。アリス、マーク、二人にも手伝ってほしいの。」
「分かりました!」アリスは小さく拳を握り、気持ちを奮い立たせた様子を見せた。
「僕もやります。」マークは真剣な表情で頷きながら言った。「絶対に、このカフェが間違ってないってことを証明しましょう。」
三人で決意を新たにし、カフェの再起に向けた一歩を踏み出そうとしていた。けれども、その道のりがこれまで以上に困難なものになることを、菜々美はまだ知らなかった。
「どんなことがあっても、このカフェを守り抜くわ。」菜々美は静かにそう誓いながら、報告書をもう一度手に取った。
その日、町ではすぐに「菜々美のカフェで体調を崩した人がいるらしい」という噂が広まり始めた。
「ハーブティーで具合が悪くなるなんて、本当なの?」
「しばらくあの店には行かない方がいいかも。」
「危険なハーブを使ってるって話だよ。」
菜々美の耳にも、その噂がちらほらと届いてくる。そのすべてが根拠の薄いものだと分かっていても、止める手段がない以上、不安は膨らむばかりだった。
その後も噂は拡大し、ついに常連客たちの足も遠のき始めた。菜々美たちのカフェは日に日に閑散とし、カウンターの前で手を組んで考え込む菜々美の姿が増えていった。
「私たちが何も悪いことをしていないって、どうやったら分かってもらえるのかしら……。」菜々美は自問するように呟いた。
だが、その答えは見つからないまま、静かな店内に彼女の声だけが消えていった。




