41. 人影
温泉旅行から数週間が経ち、菜々美たちのカフェは再び日常の忙しさを取り戻していた。爽やかな風が窓辺のハーブを揺らし、店内にはほのかな香りが漂っている。菜々美はカウンターで新しいブレンドティーの試作に取り組んでいた。
「菜々美さん、このハーブティー、どうですか?」アリスが笑顔で差し出したカップには、琥珀色の液体が湯気と共に立ち上っている。ほんのりと甘く、どこか清涼感のある香りが菜々美の鼻をくすぐった。
「これは……なかなかいいわね。」菜々美が一口飲むと、思わず目を細めた。「ペパーミントの爽やかさとレモンバームの甘さがバランスよく出てる。リラックス効果も期待できそうね。」
「やっぱり!温泉旅行のときに癒し系のハーブティーが人気だったのを思い出して作ってみたんです。」アリスは胸を張って笑顔を浮かべた。
「よく考えたわね。これ、新メニューに加える価値があるわ。」菜々美の言葉に、アリスは歓声を上げて喜んだ。
マークはそんなやり取りを聞きながら、テーブルにクロスを広げて準備を進めていた。「新しいメニューはいいけど、最近ちょっと気になることがあるんですよね。」
「気になること?」菜々美が振り向くと、マークは少し困ったような顔をして言葉を続けた。「客足が減った気がするんです。常連さんは来てくれてますけど、新しいお客さんが少ないんじゃないかって。」
菜々美もそのことには薄々気付いていた。忙しい日々の中で目立つほどの変化ではなかったが、ここ数日、確かに新規の客が少ないように感じられていた。
その日の午後、常連客のエドワードが店にやってきた。彼はいつもの席に座り、メニューを見るでもなくゆったりとした動作で菜々美を呼び止めた。
「菜々美さん、ちょっと気になる話を耳にしたんだが。」
「気になる話……ですか?」菜々美はカウンター越しに近づき、耳を傾ける。
「町外れに新しいカフェができたそうだ。どうやらハーブティーを売りにしているらしい。」
「新しいカフェ……?」
「まだ詳しい話はわからないが、一部の町民が通っているらしい。派手な宣伝はしていないが、何か特別なものがあるらしいよ。」
その話を聞いて、菜々美の胸に微かな不安が広がった。ここ最近の客足の変化と合わせて考えると気になる話だった。
「どんなお店か、調べてみる価値はありそうですね。」菜々美はそう答えたものの、すぐに行動に移すつもりはなかった。ただ、頭の片隅に置いておこうと心に決めた。
翌日、菜々美は市場へ出かけた。朝の光が屋根越しに差し込み、活気あふれる通りでは果物や野菜、ハーブが所狭しと並んでいる。行き交う人々の声や、店主たちの呼び込みが賑やかだ。
「お嬢さん、今日はリンゴがいいよ! 新鮮だ!」
八百屋の店主が菜々美に声をかける。彼女は足を止め、積み上げられた赤くつややかなリンゴを手に取り、軽く匂いを嗅いだ。
「いい香りですね。じゃあ、これを五ついただけますか?」
店主は笑顔を浮かべながら素早く袋に詰める。「おまけで一つ入れておくよ。お嬢さんのカフェ、評判いいからね。」
「ありがとうございます。」菜々美は小さく会釈をして、その場を離れた。
次は野菜のコーナーだ。みずみずしいトマトや深緑色のホウレンソウが並び、どれも新鮮そうだ。彼女が手に取ったトマトを軽く押して熟れ具合を確認していると、隣で同じようにトマトを見ていた女性が声をかけてきた。
「あなた、あのカフェの人よね? いつも美味しいお茶をありがとう。」
菜々美は少し驚いたが、すぐに微笑んだ。「ありがとうございます。いつもご利用いただいてるんですか?」
「ええ。あそこのペパーミントティーが大好きなの。最近、町外れにも新しいカフェができたけど、やっぱりあなたのお店の方が落ち着くわ。」
「新しいカフェですか……?」
「ええ、どうやらハーブティーを売りにしてるらしいけど、まだ行ったことはないの。あなたのカフェがあるから十分だもの。」
菜々美はその話に軽く頷きながらも、頭の片隅に不安がよぎった。
会話を終え、次の露店に向かおうとしたとき、ふと視界の端に何かが引っかかった。少し離れた場所を歩いている人影。その動きや佇まいがどこか記憶の奥にあるものと重なり、菜々美は思わず目を凝らした。
「……誰かに似てる。」
その女性は小柄ながら姿勢が良く、堂々とした歩き方をしている。どこかで見覚えのある仕草だ。市場の喧騒の中で、周囲の人々に溶け込むようにして歩いていく彼女の後姿を、菜々美は無意識に目で追った。
しかし、女性は振り向くことなく、そのまま雑踏の中に姿を消した。
「気のせい……なのかな?」
菜々美は自分にそう言い聞かせ、小さく息をついて露店の方へと歩き出した。だが、その足取りはどこか重く、胸の中には言いようのない違和感が残っていた。
その夜、カフェの閉店作業を終えた後、菜々美は片付けをしながらリュウとガイデンに市場での出来事を話してみることにした。
「市場で少し不思議なことがあってね。」菜々美がそう切り出すと、リュウは目を上げて手を止めた。
「不思議なことって、何かあったのか?」
菜々美は布巾を畳みながら、昼間の光景を思い返した。「市場で、どこかで見たことがあるような人を見かけたの。でも、気づいたら人混みに消えちゃって……誰だったか思い出せなくて。」
リュウは興味を示しつつも眉をひそめた。「記憶に引っかかるくらいなら、それなりに知ってる相手なんじゃないか? どんな感じだったんだ?」
「はっきりとは思い出せないんだけど、小柄で、堂々としてて……どこかで見た気がするの。でも、ただの気のせいかもしれない。」
その言葉にガイデンが静かに口を開いた。「何かを感じたなら、それはあなたの直感かもしれないわね。直感は案外、的中することがあるわ。」
「でも、本当にただの偶然かもしれないし、深く考えるのはやめておくわ。」菜々美は自分を納得させるように言ったが、リュウは腕を組み、険しい表情を見せた。
「まあ、誰だったのか分からない以上、今すぐどうこうって話じゃないな。ただ、これから何か変なことが起きるようなら、そいつを思い出すかもしれない。」
ガイデンも頷きながら慎重に言葉を続けた。「少なくとも、何か不審なことがあればすぐに教えてちょうだい。今のところは、頭の片隅に置いておくだけでいいと思うわ。」
「うん、ありがとう。」菜々美は二人に軽く笑みを向けたが、胸の奥にわだかまる不安が完全に消えたわけではなかった。
翌朝、カフェは普段と変わらぬ賑わいを見せていた。常連客たちが思い思いにハーブティーを楽しむ中、菜々美もアリスやマークと共に忙しく動いていたが、時折ふとした瞬間に昨日の人影が頭をよぎる。
「大丈夫、考えすぎよ。」菜々美は自分にそう言い聞かせながら、目の前のティーポットに集中した。新しいメニューを完成させて、お客さんに喜んでもらうことが今の最優先だと分かっていた。それでも、心の隅に小さなざわめきが残り続けているのを完全に振り払うことはできなかった。




