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人形

 男はマンションの鉄製のドアの前で、ひとり、先程から、鍵穴を見つめたまま動かない。

 中から、『赤ん坊の声が聞こえる』。

 彼は体を震わせていた。ビクビクビクビク指先から震えていて、震えるあまりに鍵を差し込む黒穴を開くことが出来ない。

 いや、というよりは彼自身が扉を開けることを拒否している。感覚が、予期が、扉に鍵穴を差し込んで自分が部屋の中に入って見ることになるであろう光景を垣間見ることを嫌がっている。……何故、何故、この泣き声はやまない。やまない。やまない!

 (やまないやまないやまないやまないやまない。)

 男はどこか昔より気弱な性質で、その軟弱さゆえに暴力を振りかざす癖が身に付いている人物である。

 そんな男は、近頃の襖のこと、その奥に潜むであろう茶色いツボのこと、その中で腐敗しているはずの殺した赤子のこと。

 人に怒りを発散することは得意であるのに己の盆で濁水を溜め込むことは苦手、というかそれを受け入れようとしない。そして男は、その行為によって、別の形で濁水が因果応報となって自らの身に降りかかるのではないかと、近頃、赤子を殺した契機よりそういう妄想をするようになった。濁水の洪水が自分の身を覆い尽くして滅亡させるのではないか。夜、そのことを想像してはふすまを確認する。それを確認しても彼が安心することは無く、不安感が彼の盆で波打ち、悪魔となって頭を締め付ける。そしてその苦しみ、毒、が男の右腕に宿り熱を発して女への暴力へと発達する。女は毒を肉体的な面で受けとる、つまり痛みとして毒を実感する。…苦しい、嫌だ、痛い、この夫婦はそういう感情をある意味で共感しているのだ。その感じ方は男が内的、女が外的、と、はっきりと分かれてはいるのだが。まあ、二人とも、軟弱物という点では、完全に一致しているのだろう。

 ―――『赤ん坊の鳴き声』は、いまだ男の耳奥にまで届いて、鳴り響いている。

 そこで、男は一つのことを思い出した。

 「そうだ、こりゃ俺ん家から聞こえてきているんじゃないんだな」

 男は隣室にも一人の赤ん坊がいることを、思い出したのである。男は何度か隣のいけ好かない純朴そうな男が赤ん坊を抱きかかえているのを、見たことがあったのだ。

 そのことを思い出すと男の心持はだいぶ気楽になった。彼の器を揺らしていた荒波が突風で吹き飛んでいき、男は普段の顔つきに戻った。高慢そうな、暴力男の顔に。勢いづいた右手で、彼は鍵穴の真っ黒を開けて体を部屋の中に送り込んだ。

 入った瞬間の彼を、迎え入れる。

 玄関に入ったその体を痙攣させるために。

 「おかえりなさい」

 女の声。男の妻の声。男は額に皺を作って高慢さを作り出しながら、靴を脱いでドタドタと妻の待つ一室へ。

 その一室を開ける扉の前で、男は一つ、不思議だと思った。

 (部屋の中にいるわりには、声がよく響いたな)

 『おかえりなさい』の声は一室に繋がる扉を跨いでいる割には、男の耳に透き通った高音として届いていた。足を止めるほどの違和感ではなかったからそのまま男はドアノブを握ったが、きっと、立ち止まったほうがよかった。

 男には奇妙が叩きつけられた。

 「おかえりなさい」

 繰り返される帰宅した者への挨拶。

 それを述べている女の容貌は、『まるで人形だった』。

 「ひぃっ」

 なさけない呻き声を上げて腰を抜かした彼は、緑青の絨毯に尻餅をついた。そんな彼に妻は再び、

 「おかえりなさい」

 と言った。まるで生気の無い彼女が、生気の無い言葉を繰り返す。

 「おかえりなさい」

 

 「や、やめろ」

 「おかえりなさい」

 「やめろって」

 「おかえりなさい」

 「やめろ!」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 男を押し潰すように、生気の無い言葉が止むことなく、繰り返し、部屋で鳴り響く。

 操り人形であるかのように、誰かが天井裏で妻を弄くっているかのように。

 唇が引きつりながら言葉を紡いでいる。両手両足がぶらんぶらん軟体動物のようになっている。

 右手が変な方向に向いている。左手は下の方に突き出されていて、右手は斜め上に突き出されている。変な踊りでもしているかのような彼女の髪の毛は、全て『真っ白』。白髪。ぼさぼさに、まるで女は長年倉庫で埃を被った骨董品。全てが乾燥して、ミイラになっている。

 そして、両目が、無い。落ち窪んでいる。

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 「おかえりなさい」

 言葉が繰り返される度に、唇も繰り返し引きつる。その度に人形はやつれ壊れて行くかのように、男には見えた。実際、妻の人形はとてもあやふやな形で成り立っているように見えた。どこから吊るされているのかもわからないが、彼女は透明な糸で無理やり吊り上げられているようで……とても、とても、暴力的な男の眼からでも、痛々しい。

 夕陽が部屋の中に、差し込み始めた。女の人形は夕陽を後光にして、血を垂れ流し始めた。体の至る所から、淀みなく流れる。

 男は恐怖した。特に涙のように両目から流れる血液に恐怖した。体が動かない。指一本動かせない。恐怖のせいなのか、金縛りのせいなのか。男にはそれがわからない。

 部屋が暁に染まる。男も暁に染まる。

 その夕陽が部屋の緑青全てを、暁に変えた、瞬間。

 …ふすまの開く音が。

 男の耳に、はっきりと。

 ずしゃぁ、と。

 男の器の荒波を。全て真っ赤に、染め上げる。

 

 

 

 


一万字いくかいかないかで終わらせようと思っているので、もうすぐ終ります。

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