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ツボの蓋

前回よりは長めです。


 帰って来た女に、男の拳が降りかかって、女は地面に倒れた。

 「ひひ、ははは」

 男は快感に貪り付くかのような下品さを持ち合わせた人間であるから、汚らしい笑い方をする。

 その暴力を受ける女は、痛みのあまりの激しさに、身体を絨緞の上でもどかしく動かし、ああ、そして苦しそうに叫び出す。

 「痛い、痛い、痛い、痛い!」

 マンションの一室であるにも関わらずその声はやかましく響き渡るのだが、この夫婦のどちらもそのことに気を配ってはいない。

 と、そこで男はある一つのことに気が付いた。

 ―――ふすまが開いている。それも、半分程。

 男は舌打ちをした。なにやら気味が悪いものを本能的に感じたのであろう、急いでそのふすまを閉める。

 そしてまた、男は女を殴りつける。愉快そうに、笑いながら、「ひひ、ははは」、と。

 一度拳を振り上げる度に、彼の身体に異変が起きているとも、知らずに。


  「俺は出掛ける」

 そうして男は金を稼ぎに出掛ける。

 「私も出掛ける」

 そうして女も金を稼ぎに出掛ける。

 こうして静かになった部屋には両目の欠けたウサギの人形や、他の様々な人形たち。

 そして部屋のちょうど、その緑青の絨緞の…中央に……ツボ。

 ふすまの奥にしまわれているはずの、あのツボが。物音一つしない寂れた部屋の中で、不気味にこげ茶色で佇む。

 …がり……がり……

 音が鳴っている。また、ボタンを食べている。…ツボが、また人形のボタンの目を弾き飛ばし、そしてボタンはゆっくり世界から姿を消す。……眼球を失くされて行く、人形たち。

 日ごとに、日ごとに。

 男が稼ぎに出て、女が稼ぎに出て、男が女を殴り、女が「イタイイタイイタイ」喚く声が寂れた部屋に響き渡るごとに。

 人形たちは一体一体、次々に哀れな目なしの姿に変わって、何も見えない世界の中で、暗闇を手探りで見回そうとするダレカのように、ただただ動くこともしないが、男の暴力をみんなでながめている。目もないのに。

 日ごとに、日ごとに。

 部屋の中ではふすまがよく開くようになる。いつしか、ふすまの奥に隠されているツボが、ときたま男の視界に入り込んでくるようになる。男は少しだけ、しかしまだ少しだけ、体を震わしてから、しかし勢い良くふすまを閉める。ふすまは抵抗せずに呆気なく閉まる。そして次の日にはまた開いている。その開く幅が日ごとに広がっていることに、野暮ったい男は気が付かない。ただむしゃくしゃした様子で、がむしゃらな顔をしながらふすまを人殺しの指でぴしゃりと閉める。「ひひ、ははは」。白髪が一本また増えた。

 

 ある日、男が帰ってこない日があった。

 女は帰ってきていたから、男がいつも帰ってくる時刻になっても帰ってこないことで、彼女は心底緊張している胸を撫で下ろしてから、アザになっているそこかしこを軽く撫でて、そしてつねってみて、『痛い』と思ったから、「痛い」と叫んで、で緑青の絨緞に身を投げた。涎を垂らしそうなふやけた顔でどこかを見るようにしながら、どこも見ず、ただぼんやりとアザを弄んでいる。

 そんな風にして暇をどう潰そうかと悩む彼女は、部屋の白い照明が『チカチカ』と点滅したことにきがついた。

 眉を潜めてから、ジッと、真ん丸い照明を彼女は眺める。

 しばらくたつと。

 ……ズッ……ズッ………

 無音の中突然、何か聞こえてきた。……何の音だろうと思い、ぼんやりとしながら辺りを見回す…というのは、まずはふすまを見た。彼女もふすまの様子がおかしいことは知っている。殴られながらも、いつも、多少は不自然に思っていた。

 彼女の心臓が高鳴る。

 ――ふすまは、閉まっていた。

 彼女は少し安心して、ため息をついてまた絨緞に身を投げ出した。そして部屋を見回してみた。

 白い照明。薄肌色の壁。黒色のカーテン。ベット。大きめのテレビ。絨緞。タンス。人形。

 …人形…人形?人形…人形……………

 「あ、あ、あ、あ」

 突然彼女は呻き始めた。呻いたその声が、静寂の部屋に響き渡って、わざわざ静寂を彼女に教える。

 呻き続ける。

 「あ、あ、あ、あ、」

 目を真ん丸く開いて、顔を半分引きつらせて部屋中の、人形たちを眺める彼女、は、急いでタンスに置かれている赤ちゃんの人形(青い服を着た)を持ち上げて、気が狂ったようにそれを振り回した……空気中に…それをかつてのわが子であるかのように、死なせた彼であるかのように、それを振り回して振り回して、何かを確認するように。だけれど、だけれど、…そう、それには目玉が無い。黒いボタンが付いていたそこには空白の肌色。眼球が無いから、無いのだから、彼が何を伝えようとしているのか、彼女にはわからない。わからないから彼女は混乱して、振り回すけれど、「あ、あ、あ、あ、あ」としか言えない彼女は、もたれるように身をふにゃふにゃさせてから、緑青の絨緞に尻餅をついて、へなっとなって、そしてふと首を横に向けてみたら、ふすまが開いていることに気が付いた。きがついてしまった。

 「あ、あ、あ、あ、あ、あ、」

 また呻いたけれど呻いたところでふすまが開いていることはかわらない。ふすまは開いていてその薄暗い奥には、ほら、男と女が封じ込めたこげ茶色の、あのツボが、あのツボが、女を手招きして呼んでいる。女一人だけの部屋で、女意外には無音と、『眼球の無い人形』たちと、こげ茶色のツボ。ふすまの暗がりの奥で、それは黒い影を持って、何も言わずに佇んでいる。動かない。

 ……うごかない。ツボは、ただそこで佇んで、彼女を、……ミテイル……?

 「いやよ、いやよ。私はこんな思いしたくない。私は悪くないじゃない、私は殴っていないじゃない。何もしていないわよ、私はそんなに悪くないの。ちょっと悪いだけなの、一番悪いのはあの男なのよ、ぼうや。一番悪いのは、あの男なのよ、ぼうや」

 必死に叫んだ声が、どこに響くでもなく、どこかに吸い取られていって部屋が沈黙に包まれて。

 ―――パチ。

 何か軋むような音が、鳴った。

 パチ。

 ……パチ……

 …………パチ…………

 …パチ……………

 パチ。パチ。パチパチパチ。

 一度だけだったその音が、時間とともに、部屋のそこら中から鳴り響いてきた。

 目の無い人形たちが唄っている。

 彼女が周囲を見回しても、人形たちは目が無いだけで、何も変わらない。

 だけれど彼らが唄っている。

 パチ。

 ……パチ……

 …………パチ…………

 …パチ……………

 パチ。パチ。パチパチパチ。

 「いや、いやいや、イヤよ、いやです、やめてください、ぼうや、ぼうや、やめてください!何でこんなことするんですか、私はそんなにひどいことしましたか、ぼうや、私はそんなにひどいことしていません、ぼうやぼうや、私はこんな目にあいたくありません、私は仕方が無かったんです、ぼうや、私はちょっとだけ悪いんです、全部私が悪いんじゃないんです、ぼうやぼうや、ぼうや、ぼうや」

 女は黒い瞳をしどろもどろに遊ばせて、頭を抱えながら絨緞の上で跳ねました。一度ではなく、何度も跳ね上がってはくるくると体を回転させて何かに助けを訴えています。部屋の中ではみんなが見守っています。眼球の無い彼らが見守っております。彼らは何を望んでいるのでしょうか、何を待っているのでしょうか?………女には、わかっていました。彼らは、私が仲間になるのを待っているのだ、と。

 ……ズッ……ズッ………

 聞こえてきた音が何の音だか、女にはわかりませんでしたが、今彼女が目を覆っている手を、彼女は放したくありません。

 彼女の視界は真っ暗。

 ……ズッ……ズツ……

 しかし音の正体を確かめなくてはなりません。

 ―――ゆっくりと、手の平をどかし、目を開きます。

 開いた瞬間の、その目の前の光景。

 彼女は大きく口を開き、そしてそのまま息を呑みました。

 ………ツボが、彼女の目の前で、ずーっと閉じられたままだった蓋を、ゆっくりゆっくり音をたてながらどかします。

 ……ズッ…ズッ……と。

ホラーってのは難しいもんだなと嫌になりました。

怖いんだか怖くないんだか作ってる本人にはまるで掴めてこないからです。嫌になりました。

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