3:何より無垢で透明な
不公平さというものは、焦点が自身になくても浮き彫りになる。
誰かが注目を浴びているとき、自分のことを誰も見ていない気持ちになる。
スポットライトは注目されている人物に当たっている。それ以外の人たちは、皆その光の外側だ。暗闇の中に自分はいて、他の人たちと同じ場所にいる。
だけど、ふと周りを見渡せば、暗い中でもその視線の向かっている先がわかる。
視線の向かう先に自分がいない。皆が自分のことを蔑ろにしている。
わかっている。そんなものは自意識過剰なのだと。誰も見ていない人のことを蔑ろになんて出来るはずがないのだと。けれど、その無意識が刺さるのだ。
刺さって、突き刺さって、痛いほどに。
幼い頃は、それを理不尽だと思った。
今は、ちゃんと理解している。
褒め称えられるような才能。
誰もが羨むような感性。
人を惹き付けるような資質。
不公平さはある。けれどそこに理不尽はない。誰もが人とは違うのだから、均一であるはずがないのだから。そういうものを持っている人と、持っていない人がいるというだけのこと。
矛盾はない。道理には合っている。ただ、そこには純然たる差があるだけで。
持っていない人だったから、自分は幼い頃に、見限られた。それだけの話。
駄目だとは思っても、浮き彫りにされた不公平さが、面倒な思考を止めてはくれなかった。
なんてことはない。持っている人が、いつものように注目を浴びて褒めそやされ、優遇を受けているのをただ見ていた。それだけのことだ。
世間から評価されるような、顔が良くて、運動が出来て、勉強だって出来る人間。おまけに他人への気遣いだって完璧。部活では熱い一面を見せながら、ときには冷静に友人たちの喧嘩を仲裁し、誰かの不幸に涙する慈悲の心さえ持っているような素晴らしい男。
「凄いよな、また大会で活躍したんだろ?」
「この前の模試の結果も凄かったのに、いつ勉強してるんだろうな」
「お祝いしようぜ、カラオケとかでさ」
皆が笑顔で彼を囲んでいる。その輪の中で、俺も同じように笑顔を浮かべていた。
そして、いつも通りならこのあたりで……。
「じゃあ、そういうことで、また幹事頼むぜ大治」
「こういうとき、頼りになるんだよなぁ」
そう、こういう流れになる。誰かに注目が集まることへのせめてもの抵抗、凡人なりの足掻き。注目されて然るべき人間からおこぼれを貰おうとする涙ぐましい努力。
ようするに、こういうお祭り騒ぎになったときの雑務を、率先して引き受けていたのだ。参加人数の把握や、店への予約、集金と会計etc……。
それだけのことで、ほんの一時とはいえ、皆に頼られ注目してもらえた。少しの慰めとはいえ、何もしないよりはずっとよくて、いつだって俺は縋るようにこういう集まりに参加していた。
だから、今回も同じように頼まれるのもわかっていた。
俺もいつも通りであれば、快く頷いていただろう。
でも──。
「悪い、ちょっと大事な用事があってさ。今回は参加出来そうにないんだ」
「え、来ねぇの? こういうときいっつも来てたのに、珍しいなぁ」
今回は、行かない。それよりも優先すべきことが、今の俺にはあった。
ただ、俺が断ったことに難色を示す反応がちらほらと出てくる。
「えぇー、大治こねぇの? じゃあ誰が金集めんのよ」
「だよなぁ、下手な奴に任せて面倒なことになるのとか嫌だぜ」
「つーか店の予約とかもしたことねぇや、めんどくせぇー」
がやがやと俄に騒がしくなる教室内の空気。
予想はしていた。そういう面倒ごとはいつも俺が引き受けていたから、俺がいないのであれば、その代わりを誰がするのかという話になってくる。
それを見ながら、面倒になったなという思いと、少しの優越感が湧き出る。思っていた以上に、普段からしていた努力は実を結んでいたらしい。
表面上は申し訳無さそうな顔をしつつ、やはり自分は歪んでいるなと心の内で苦笑する。
いや、実際のところ、申し訳ないとも思っているのだ。けれど、それ以上に幼い頃から肥大化し続けてきた欲が擽られてしまったというだけの話で。
しかし、どうしたものか。
そう悩んでいると、乾いた音が教室中に響いた。
見れば、今日の主役である彼が手を叩いて、皆の視線を集めていた。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着いてさ、大治だっていつでも俺たちの面倒みてくれるわけじゃないんだし、こういうことも今後またあるかもだろ。自分たちでも出来るように慣れていこうぜ」
そんな言葉だけで、喧騒が止んで皆の顔に笑顔が戻る。たしかにそうだなと納得した声がそこかしこであがっていた。もう誰も、俺の方は見ていない。
こういうことなんだろうな、と思った。
恨みなんて勿論ない。むしろ、今後もまたこういうことが起こらないように、彼が気を遣って言葉を選んでくれたことはわかっていて、感謝だってしている。
でも、妬ましいという気持ちはどうしたって心の中に浮かんでくる。
それを表に出すことはしないし、彼にはちゃんとありがとうと小さく礼を言っておく。ただ、気にしないでいいと答えるその人好きのする笑顔が、妙に胸に刺さった。
ざわついてしまった心を、どうにかして鎮めたい。少なくとも放課後までには。
そう思えば思うほどに、意識してしまってどうにもならなくなる。こんな状態では、ほとりのことをちゃんと甘やかしてあげるのも難しいかもしれない。
午後のホームルームが終わる。時間が経ったことで少しは落ち着いた。けれど、万全の状態とは言い難い。普段なら別にこれでもいい。いや、よくはないが、我慢は出来る。
ただ、ほとりに対して、そんな状態で接するのが嫌だった。
そうやって、自然に彼女のことを考えていたら、その姿を見つけた。
生徒会の仕事が終わるまで待つために、図書室へ向かっている最中のこと。他の生徒会役員に頼られて、しっかりとそれに応えている。いや、誰もが……教師ですら彼女を頼っていた。
今日、多くの人に注目され頼られる存在を見るのは二度目だ。どちらも優秀で、才能があって、努力もしていて、人の中心でいるのに相応しい。
けれど、二度目に受けた印象は、俺の心の中に芽生えた感情は、全くの別物だった。
また無理をしている、話を聞いてあげないと。
ただそう思って、彼女のことが心配になって、慈しむ気持ちばかりが湧いてくる。苦しかったはずの胸は、彼女を思うだけで、ただ温かくなっていた。
これなら、もう大丈夫だ。
心の中で彼女を応援してから図書室へと向かい、静かにノートへ向かってペンを走らせる。
穏やかな気持ちで過ごす時間は、あっという間に過ぎていった。窓から差し込む日差しがオレンジ色に変わった頃に時計を確認して、ノートを片付け生徒会室へと向かう。
そこには、彼女が一人で待っていた。
嬉しそうな顔をして、ぱたぱたと足音を立てながら近づいてきて。
俺の顔を見上げると、不安そうな表情になった。
「……何か、あったの?」
「どうして?」
「疲れた顔をしてるわ」
彼女のおかげで回復したつもりだったけれど、疲弊そのものはどうにもならなかったらしい。今まで誰にもバレたことなんてなかったのに、彼女は全部お見通しのようだった。
普通なら驚くところなんだろうけど、何だか今はただ嬉しい。
「そうだね、ちょっと疲れたかもしれない」
「大丈夫……?」
「自分では大丈夫なつもりなんだけど、ほとりは不安なんだよね」
「……うん、不安だよ」
喋り方が、少しずつ幼くなっていく。
彼女の子供らしい部分が出てきている証だ。
つまり、どこまでも純粋に、俺のことを見て心配してくれている。
「じゃあ、そうだなぁ……ちょっと、話を聞いてほしい」
「ん、きかせて?」
普段は彼女が生徒会長として使っている椅子に座り込む。それを確認すると、彼女は俺の膝に躊躇することなく腰掛けて、背中を預けるようにもたれながら、俺の腕を掴んでお腹の前に持っていく。
初めて恋人らしいことをしたあの日から、もう何日も経っている。俺達の距離感は少しずつ近づいていて、これもその一つだった。
彼女の希望通りに、お腹の前に回された手でぎゅっと抱きしめる。
「んぅ……えへへ」
「苦しくない?」
「へーき、もっとぎゅーってしていいよ」
へらりへらりと、嬉しそうに笑う。これだけでも、少しは不安を解消できたらしい。
でも、これだけで納得するつもりもないらしい。すりすりと頭を胸板に押し付けてきて、ちゃんと聞くから話してね、と催促してくる。
俺は、すっかり彼女のおねだりに弱くなっていた。だから包み隠さず話す。普通なら恥ずかしいと思うような心の内を全部。彼女が教えてくれたことに、お返しをするように。
俺の歪んだ部分。肥え太った自己顕示欲。あるいは、育ちすぎた承認欲求。
この数日の間に、彼女にはある程度そういうことも話していた。彼女だけが心の内を晒しているというのは据わりが悪かったし、何より彼女には知って欲しいと思ったから。
だから、今日のことも全部、彼女には伝える。
「――むぅー」
「……ほとり?」
「むぅ」
そうしたら、何だか機嫌が悪くなった。
どうしたのかと顔を覗き込もうとしたら、ふいっとそっぽを向かれてしまう。
拗ねてしまった子供そのもので、つい可愛いなと思ってしまい、頭を撫でてしまった。
「あぅ……おこってるのにぃ……」
「ごめん、拗ねてるほとりが可愛かったから」
「へぁ……ぅ……ほんとぉ?」
「うん、本当。撫でたくなるくらいに可愛かった」
「ふぇへ……へへへへへ……」
素直に言葉を受け取って、ころころと表情を変える。俺の前で遠慮することは次第になくなっていき、どんどん子供らしい部分を見せてくれるようになってきた。
パタパタと足を揺らしながら、上機嫌に体を左右に振っている姿も愛らしい。
「機嫌を直してくれて良かったけど、なんで怒ってたの?」
「ん……だって……」
「だって?」
「……わたしがいるのに」
くるりと振り返って、膝の上で彼女がじっとこちらを見上げてくる。
俺の胸元でぎゅっと握られた両手は、彼女の不満げな心情を如実に表しているように見えた。
「わたしは、ずっとあなたを、みてるのに」
「……」
「あれから、ずっと……ずっとあなただけ、みてるんだからね」
「そっか」
「そうだよ。なのに、あなたは……ずるい。ほかのひとのことも、みてるんだもん」
ようするに、嫉妬だった。あんなにも凄くて、頑張っているほとりが、俺に嫉妬してくれている。ぎゅっと、心臓を掴まれたような、たまらなくなるような感覚がした。
胸に押し付けるように、彼女の頭を掻き抱く。
「わぷっ……んぇ……?」
「俺も……」
「うん……?」
「俺も、君のことだけ見るようにするよ」
ビクンッ、と彼女が腕の中で跳ねた。
それから数度、もぞもぞと動いて、おずおずと両手が俺の背中へ回される。
密着する。していたいけど、もっとする。湿ったような空気が間に溜まる。彼女と俺の間に。熱い吐息だ。少しだけ、興奮したような、熱くなったそれ。
「うん、みて。わたしのことだけ、みて」
「見るよ。これからはちゃんと、君だけ」
お互いのことしか目に入らない。
なんて、大真面目に言う二人のことを、世間はバカップルなんて揶揄するんだろう。でも、俺たちのこれは、もっと不純で、歪んでいて、汚れている。
でも、お互いのそれをどこまでも喜んで受け入れて、嬉しそうに欲しがるから。
多分、何よりも純粋で、綺麗だった。
お互いの間でだけは、何よりも尊くて、何よりも愛しい。
与えることが愛だというのなら、これは紛れもなく愛で、正しく愛し合っている。
「うれしそうなかお」
「ほとりも、そんな顔してる」
「うれしいもん」
「そうだね、俺も嬉しいから」
嬉しいな、嬉しいね。同じことを言い合って、同じ気持ちを共有して、俺たちは笑い合う。
笑い合って、嬉しくなって、お互いのことを嬉しくさせる。
ずっと瑕だと思っていたものを、二人で愛に変えていく。
欠点すらも愛す。そんなこと、俺たちには必要なかった。
その欠点が、俺たちにとっては愛そのものになるのだから。
これほどまでにピタリと合う存在は、お互い以外に存在しない。そんな確信を、俺も彼女も抱いている。ここまで相性のいい歪んだ人なんて、他にいるほうがおかしな話だ。
「じゃあ、もうだいじょうぶ?」
「あぁ、ほとりがずっと、俺のことだけ見ていてくれるからね」
「うん、みてる。ずぅっと、みてるよ……これから、ずっと」
下手をすれば、狂気的とさえ言われるような熱量。人によれば辟易としてしまう、もっといえば引いてしまうようなものなのかもしれない。
でも、俺にはそれが心地好かった。他の誰も俺のことを見てくれていないとしても、ずっと俺のことをこんなにも強く思って見てくれている人がいる。
それだけで、こんなにも満たされてしまうから。