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2:雪のように白く

 優秀さなんてものは呪いだ。


 一度そうだと認識されれば、そこから外れることは許されない。いや、きっと外れることは出来る。でも、そうすれば優秀だと思われていた分、落胆され失望される。

 期待に応えなければならない。応え続けなければならない。そうでなければ、きっと自分は今まで応え続けた分の傷を負うから。

 疲れても、嫌になっても、もう駄目だと思っても。


 皆が笑顔で背中を押す。倒れそうになった体を支えてくる。肩を支えて協力してくれる人だっている。きっと、皆は優しい。私は恵まれている。

 でも、誰も休ませてくれる人はいない。


 甘えていると言う人がいるかもしれない。

 でも、甘えられる相手なんていない。それなのに、どうやって甘えればいいというのか。

 贅沢だと言う人がいるかもしれない。

 でも、私は必要としていない。必要以上なんてものはどこにもない。それなのに、どうやって贅沢をしろというのか。


 隣の芝生は青く見える。そういうものなのだろうか。

 違うと思う。それだけではないと思う。人には人の必要なものがあるんだ。


 スポーツが好きで上達したくて才能がある人は、才能をない人を羨むだろうか。

 スポーツが嫌いでやりたくなくて才能がない人は、才能がある人を羨むだろうか。

 結局人は自分が欲しいのに持っていないものを、他人が持っているから欲しくなる。


 だから、優秀さなんてものは、私にとって呪いだった。


 勉強は好きじゃない。スポーツも好きじゃない。今私が努力していることで、本心からしたいと思っていることなんて全然ない。

 本当はのんびりと日向ぼっこでもしていたい。甘いお菓子を食べたいだけ食べて、時間なんて気にせずに遊んでいたい。体から力を抜いて、誰の目も気にせずに笑っていたい。


 でも、それは私らしくない。

 それは皆の目から見た私じゃない。

 だから出来ない。人の目が、それをさせてはくれなかった。


 喜んでくれるのは嬉しい。だから最初は、それだけでも良かった。

 でも、私が優秀であると示せば示すほどに、周囲の期待も大きくなっていった。気が付いたときには、それは私を押し潰してしまうほどになっていて……。

 縛られてしまった。義務と責任になってしまった。

 優秀であることが、私であることを示すようになってしまった。優秀でなければ、私ではなくなってしまった。


 皆が勘違いしている。

 私は強い人間じゃない。どこまでも他人に依存した弱い人間だ。

 自分の意思で何かを選んだことなんて殆どない。どれもこれも、周りが喜ぶからと選んだものばかりで、私らしさなんてものはどこにもない。


 いつの間にか、私は私以外のもので一杯になっていた。

 けれど、今さらどうしようもない。私に期待してくれている人たちに本音を伝えることなんて、弱い私には出来るはずがないから。

 耐えるしかない。我慢するしかない。出来るようにするしかない。


 私は自分が弱いと知っているのに?


 そう、結局は目をそらしていただけ。

 無理がくることはわかっていた。弱い私が、気づいてしまって耐え続けていられるわけがない。そう生きることしか出来ないのに、そう生き続ければ必ず傷つくのだから。

 痛い。痛くて痛くて、でも泣くことも叫ぶことも出来なかった。


 ――あぁ、もういいや。


 何度もそう思った。そうして踏み出そうとして、踏みとどまって。

 弱いからこんなことになっているのに、そんなときばかりは弱くてよかったと安心する。もう少しでも強かったら、私はあっさりと踏み出してしまっていた気がするから。


 繰り返し繰り返し、自棄になる。

 そう、自棄だ。自分を棄てるのだ。この言葉は正しいと思う。

 いらないものを捨て去っていく。少しずつ、少しずつ自分の中で義務とか責任とかいうものの重さが減っていく。楽になるたびに、踏み出そうとする足も軽くなる。


 だから、その日。

 今まで以上に軽くなってしまった足に気が付いて、怖くなった。

 もう残っていない。義務も責任も残っていない。此処に私を縛るものは何もない。

 馬鹿だなと思う。ここまできても、死ぬことの怖さより、想像しているだけの非難と落胆の未来の方が、私には怖かった。


 人が生きる理由は間。だからこその人間。

 人と人の間。そこにしか生きられないから、そこにしか理由はない。

 理由を喪うことはきっと何よりも恐ろしいんだろうな。私はそれを証明している。だって本当に、死ぬことよりも怖いのだから。


 本当に、もういい。

 考えることすら億劫になって、考えてしまっている自分さえ面倒になって。

 軽くなった足を、踏み出す。


 そうして、私は捕まえられた。

 そうして、私は出会ってしまった。

 そうして、私は手に入れることが出来た。


 初めて、私が私になれる人。


 あれからすっかり日は落ちて、窓の外にはいくつもの家の灯が流れている。いつもなら無感動に眺めていたものが、今はやけに眩しく感じられた。

 窓に灯ったそれら一つ一つに、それぞれの家庭と生活がある。だから妙に温かく感じてしまうのかもしれないなんて、感傷的な思考が過ぎる。


 変わってしまった。

 変えられてしまった。

 変えてもらえた。


 普段なら浮かんでこない思考が、自然に浮かんでしまうほどに。

 今の私が、浮かれているからだろうか。

 少しだけ居眠りをするような体勢になって、顔を俯けた。先ほどまで外を眺めていた瞳に、膝に乗せた学生鞄だけが映るようになる。少しだけ、安堵が胸に広がる。


 聞き馴染んだアナウンスに焦って顔をあげ、慌ただしく電車を降りた。

 ぐるぐると思考を回している間に、いつの間にか自宅の最寄り駅に着いていたらしい。

 気恥ずかしさを隠しながら小走りで構内を横切り改札を通り抜ける。その瞬間、定期入れを落としそうになって、慌てて持ち直して、歩幅が大きくなった。


 今日は雨が降っていなくて良かった。今の私なら雨が降っていたとしても、傘を鞄から取り出してさすという行為すら忘れてしまっていたかもしれない。

 安定しない胸中をどうにか抑える。そろそろ家だ。こんな自分は家族にだって悟られたくはない。いや、こんな自分だからこそ、そして家族だからこそ、だろうか。


 平静を装って玄関を潜り、迎え入れてくれる家族と数度言葉を交わす。夕食の支度をしている母はまだしも、テレビを流し見していただけの妹がいつこちらを注視してこないだろうかとドキドキしてしまった。

 特に何かを察された様子もなく、階段をあがって自室へ入る。


「はぁ~……」


 ぼすんとベッドに寝転がって、そのまま枕に顔を押し付け、もう殆ど呻き声のような大きいため息を吐き出す。そのままピタリと動きを止めて、今日のことを思い返した。

 思い返す。思い返して……。


「ひやぁああああああああ……ッ!」


 情けない声を漏らしながら今度はごろごろと転がってしまう。

 ぎゅうぎゅうと締め付けるような感覚をこれでもかと主張してくる胸元を押さえつけるように両手を当てながら。

 それからすぐにその手を今度は口元へ当てた。


 思わず漏れ出た声が、階下の二人に聞かれていやしないかと戦々恐々だ。

 ……数秒、数十秒は経っただろうか。反応はない。

 ほっとして体から自然と力が抜けていく。

 そのままぐったりと両手を投げ出して、ぼぅっと天井を見上げた。


 このままだと制服が皴になっちゃうから脱がないと、なんて思考が頭の片隅あたりで囁いてくるけれど無視する。今の私にそんなこと構っていられる余裕はなかった。

 当たり前である。今の私に何かを気に掛けるなんて高等なことが出来るわけもない。やれと言われても不可能。そんなこと強要されたら条例違反で訴えてやるレベルだ。


 私は何をしていたんだろうか。何をしちゃったんだろうか。

 同級生にみっともなく縋り付いて、子供みたいに泣き喚いて、甘え倒したのである。それも異性に、男の子に、同い年の男の子に。


「ひぅっ」


 喉が干上がったような、短い悲鳴のような何かが唇から零れ落ちる。自分がしでかしたことに今更ながら怯えるかのような情けない声だった。

 じわじわと顔が、体全体が熱を帯びる。今までに感じたことのない勢いで汗が滲んでいるのがわかる。気持ちが悪いけれど、それを抑える術は今の私には一つとて存在しなかった。


 泣きそう。泣いた。泣いちゃった。

 自分が情けなくてボロボロ涙が出てくる。


 ……嘘だ。

 情けないって気持ちは確かにあるけど、大半の理由はそうじゃない。

 安堵と幸福感。そればっかりが沸き上がってくる。


 欲しかったものが手に入った。絶対に手に入らないと思っていたものが。

 嬉しくて嬉しくて、嬉しすぎて怖いくらいで。やっぱり、涙は止まらない。幸せな気持ちが涙に溶けて流れてしまうんじゃないかと思うくらいに。

 でも、そんな不安は、あの温かくて力強い抱擁を思い出すだけで消えてしまう。


 抱擁……。

 それはそれとして、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。慎みがないとか思われてないかしら。軽い女とか思われたとしたらすっごく嫌だ。

 いや、でもあんなことを言ったわけだし、むしろ重い女だと思われてる可能性の方が高い気もしてきた。うぅん、絶対に思われてる。軽いと思われてないのは嬉しいけど、重いって思われるのもそれはそれでとても嫌。それで捨てられたらとてもとても嫌だ。


「……また、抱きしめてほしいもん」


 無意識に自分を抱きしめるようにしながら、甘ったるい声が漏れた。

 凄く馬鹿っぽい。客観的に見たら馬鹿にしてしまうくらいには今の私は馬鹿っぽい。

 でもそれでもいいかなと思うくらいには脳味噌が馬鹿になっていた。


 だって、幸せなんだもの。

 今までこんな感情を抱くことなんてなかったんだもの。

 初めて私は、心の底から安らぎと安心を抱いて、恋をしているんだもの。


 恋は麻薬だ。とてつもなく、危険だ。

 自分がおかしくなっているのはわかるのに、それでもやめられない。もっともっと欲しくなる。何かの中毒になっちゃったみたいだ。いや、何かじゃない。あの人の。


「小番、大治くん……」


 喉を震わせて、唇を滑っていく声が、彼の名前を紡ぐ。

 それだけで脳の奥底がジンジンとするような、体全体が自然と震えてしまうような感覚がした。あの人の名前を小さな声で呼ぶだけで、強く抱かれた感覚が甦る。


 ぎゅうっと、自分の手で自分の体を抱きしめる。それは、彼のそれとは比べ物にならない頼りなさで、彼がそばにいないことを如実に示してくるようで、寂しさが増した気がした。

 ……寂しさが増した。


「……そっか、寂しいんだ」


 ぽつりと零れ落ちた言葉は、私の今の感情を、私に教えてくれた。

 自分でわかっていたはずだった。落ちてしまったことは理解していた。

 けれど、私が落ちてしまった恋という名の大穴は、思ったよりも大きく深くて。


 天井に向かって、手を伸ばす。そこに幻視している、かつての自分へ向けるように。

 決して届きはしない。空想の中の自分に届くはずもないのだから。でも、それだけじゃなくて、本質はそういうことではなくて。


 私は、決してあの頃の私には届かないし、戻ることは出来ない。

 あの温もりを知ってしまったから。許される心地好さを知ってしまったから。みっともない子供でいられる時間の甘さを知ってしまったから。

 わがままに、なっちゃった。


「会いたい」


 会いたい。会いたくて、会いたい。

 細かい理由なんて考える必要はなくて。考える余裕なんてなくて。

 もう、ただ会いたくなってしまっていた。


 こんなのずるい。

 落ちてしまった側は、こんなにもどうしようもなくなってしまうのに。

 あの人はきっと、あの優しい笑顔で待っていてくれるだけなんだ。


 今日は、早く寝てしまおう。

 いつもなら今日の授業の復習と、明日の授業の予習をしてから寝る。私は皆が思っているほど優秀ではないから。得意だから自動的にやる気になれるなんてことは、絶対にない。そうやって毎日意識して頑張らないと、私はすぐに駄目になってしまう。

 でも、今日はいい。今日だけはやらない。絶対やらない。


 夢なんて見ることなく、明日がすぐきてほしい。

 明日がくるまでの何もかもが煩わしく感じてしまう。

 あぁ、駄目になっている。もどかしい気持ちばかりが先行してどんどん駄目に。


 でも、嫌な気分にはならなかった。いつもなら、駄目な方に考えてしまう自分にすら落ち込んでいただろうけど、今は全然平気だった。

 だって、明日がくるから。彼と会える、明日が。

 もう私は、頭がとっても幸せに、ダメダメだった。


 どれくらい駄目かと言えば、本当にそのままベッドの上で寝てしまったくらいには。

 夕食が出来たと呼びにきてくれた妹が、着替えもせずに寝ちゃうなんて今日は疲れてたんだね、と心配してきたくらいには。

 そうして少し寝てしまったせいで、改めて寝ようとしたときには中々寝付けなくなってしまったくらいには。


 明日は彼に会えるということにドキドキした気持ちにばかり意識が向いてしまって、まるで遠足を前日にした子供のようだった。

 ……本当に、子供のよう。

 あの人に、子供にされてしまったんだ。


「ふふ、ふふふふふ……」


 布団を頭から被って、思わず漏れてしまった笑い声に蓋をする。

 自分でもわかってしまうくらいには、気持ち悪かった気がしたから。

 そんな気持ちの悪い自分の笑い声をどうにか止めようとしている間に、気が付けば意識は落ちて眠りについていた。




 気が付いたら翌日の放課後になっていた。何ていうことはなく、放課後を待ち望んでひたすらに時間が過ぎ去るのを待ち続けた。

 けれど、いざ彼に会うことが出来る明日がやってきたのだと思うと、もどかしさを超えるほどの期待が溢れていることに気が付いた。


 これまでの自分の一日を思い返してみれば、時間が過ぎるのを耐えるというのはあまり変わらなかった。けれど、以前のそれはただ辛さを誤魔化しているだけだった。

 今は違う。時間が過ぎるごとに、その先が楽しみになっているのだから。これからやってくるのだろう、自分にとって最高の時間があることを知っているから。


 そして、今。

 私はまた、生徒会室で一人、彼を待っている。


 もうすぐ、会える。浮足立っていた気持ちが、もっと落ち着かなくなっていく。もう確認してあるはずなのにまだ気になって、取り出した手鏡を見ながら髪の毛を指先で弄りながら何度も整えた。

 なんとなしに制服の裾をつまんで僅かなシワを引っ張ってみたりして、不意に昨日のことを思い出す。強く抱き合って、強く抱き合いすぎて、服にできてしまったシワを二人揃って直していた。


 カーッと顔が熱くなって、ほんのりと浮かんできた汗をハンカチで拭う。さっきまでは早く時間が過ぎればいいのにと思っていたのに、今度は時間が足りない。

 こんな汗をかいた状態で彼を迎え入れるのはなんだかとても嫌だった。

 慌てて額や首筋を拭って、ようやく濡れた感触がしなくなったとき、ノックの音が響いた。


「はい、どうぞ」


 自分でも驚くほど、口から出た声は冷静だった。冷徹と言ってもいいかもしれない。全く温度を感じさせない、私らしい声色。その私らしさは、周りの人達が認識しているものだけれど。

 無意識に、彼以外の人が来ていた場合に備えた反応をしていたらしい。

 過剰と言えるほどの自己防衛。けれど、我ながら仕方がないなとも思ってしまう。


 想像上の失望に怯えていた。何なら、死ぬことよりも怖いと思っていた。

 いや、今でも怖い。震えるほどに怖くて、絶対に人には本当の自分なんてものを見せたくない。

 だから取り繕う。皆が望む自分になる。そういう自分の仮面を被り続ける。


 自然にしてきたこと。当たり前のようにしてきたこと。ずっとしてきたこと。

 習慣と言ってもいいそれ。私の半生をすら構築している、皆の中の私。

 ちょっとやそっとのことでは、決して崩れることのない、自分を守るための厚く硬い壁。それを育てすぎたせいで、苦しくなってしまっていると言ってもいいあたりが、救えないなと思う。

 でも――。


「ごめん、友達に捕まってちょっと遅れた」

「……おそい、さみしかった」


 そんな、当たり前に被ってきた、皆が望む私という仮面を、あっさりと脱ぎ捨てた。

 誰も望んでいない、私がそうしたいっていうだけのわがままを、聞いてもらえる時間がきたから。そうしてくれる人がきたから。それを喜んでくれる人が、きたから。


 子供みたいに膨れ面をして、背中で手を組んで恨めしそうに見上げる。

 そう、うん……見上げるんだ。


 小学校の高学年あたりからどんどん伸びてきてしまった身長。スタイルがいいねと羨ましがられたりもするけど、私はこんなもの好きじゃなかった。本当は子供でいたいのに、自分の体にすら、大人になれと言われているみたいで。

 同年代の女の子たちどころか、ある程度の男の子たちすら見下ろすほどの身長の高さ。誰かが隣に立つたびに、自分の体がもう子供のそれじゃないことを実感してしまう。


 けど、彼が隣にいるときは違う。私でも見上げるような大きな体。目線を上にあげると、私を見下ろしながら微笑んでくれる、優しい眼差しがそこにある。あぁ、もうちょっとわがままを言う子供をしていたかったのに、頬が緩んでしまう。

 どうにかして表情を引き締めようとして、普段ならそんなこと簡単に出来るはずなのに、彼の前ではもう全然ダメだった。拗ねた子供は、出来そうにない。

 うん、だから別の方法で甘えよう。


 困ったように頬をかきながら、ごめんごめんと謝る大治君。普通ならこれ以上困らせるようなことはしちゃダメだなんて思うんだろうけど、彼と私の間では、そんな普通は必要なかった。

 だって、私のわがままに、彼はどう見ても嬉しそうに、だらしなく笑ってる。

 それなら……。


「さみしかったから、ぎゅってして」

「あはは……かしこまりました、お姫様」


 ほら、甘えたら、もっと嬉しそうに笑ってくれた。

 ……というか、お姫様とか言われちゃった。こんな図体のでかい女に言うセリフじゃないでしょ。そんなの全然似合わないのに。今までの自分を振り返って、そんな考えが頭を過る。

 だから、また彼にねだる。


「……わたし、おひめさま?」

「そうだよ、とっても可愛いお姫様」

「ほんとに? おひめさまみたいに、かわいい?」

「うん、本当に」


 不安が口をついて出て、それすらも甘えになって、理解してくれた彼は私の欲しい言葉をくれる。頭の中がとろとろと溶けてしまいそうな感覚だった。

 本気でそう思ってるのが、嫌でも伝わってくる。だらしない笑顔が、本当に私のことを可愛いと思ってくれてることを伝えてきていた。

 あぁ、ダメになってく。ダメになるのが、とても心地好かった。


「えへ、ふぇへへ……」


 彼のだらしのない笑みがうつったように、笑ってしまう。そんな私を見下ろしながら、彼は微笑んだまま手を私の額へ滑らせる。髪の毛を横へ流すようにしながら、そのまま頬を撫でてくれた。

 すりすりと、その手に自分から頬ずりをする。今まで、男の子とこんな風に密着して触れ合ったことなんてなかったはずなのに、そうするのが当たり前みたいに、全身で甘えてしまっていた。


 それから数分、数十分かな。じゃれ合うようにして、私たちは甘えて、甘やかされていた。

 凄い充足感だった。これまでの人生で満たされなかった部分に、これでもかというほど甘いものを注がれ続けられるような時間。体からどんどん力が抜けていくほど。

 本当なら倒れてしまうのだろうけど、大丈夫。彼が絶対に支えてくれるから。


「……あっ」

「……」


 ……うん、支えてくれた。

 思った通り。彼は優しい。だから強く、ぎゅって。倒れないように。

 でも、咄嗟のことだったから。


「……」

「……」


 吐息が当たる。生暖かい、彼の体温を感じる吐息。

 熱くて、こもる。二人の匂いが立ち上ってるみたいで。

 抱き寄せて、抱き寄せられた私たちは、とても……とても、近かった。


 目が離せない。昨日の今日、知り合ったばかりの男女が、何年も互いのことを恋い焦がれていたかのように、見つめ合っていた。

 あぁ、でも……多分、それは間違いで、そして正しい。


 私たちは知り合ったばかりで。でも、ずっと求め合っていた。

 お互いに欲しがっていて、欲しかったものを持っていて、昨日それがピタリと合わさってしまって。

 あぁ、だから……だから私たちはこんなにも。


「……ほしい、ね」

「うん、そうだね」


 目を閉じる。ほしいって私が言ったら、彼はくれることを知っているから。

 そうして、触れ合う。

 今までも触れ合っていたけれど、そうではなくて。


 もっと深いところで、触れ合う。

 もっと熱いところで、触れ合う。

 もっとも、大事なところで、触れ合う。


「ちゅ、んむ……は、ぁ……すごい……」

「たしかに、凄いね」

「でも、いいのかな。こんな、すごいこと」

「いいんじゃないかな、俺たちの関係性を考えれば」


 そう言われて、思い出す。

 出会ったばかりの二人だけど、もう関係性はただの他人のそれではなくて。


「そういえば、私たちって、付き合ってたんだったね」

「うん、昨日から、俺たちは付き合うことになってた」

「じゃあ、いいんだ」

「うん、いいんだよ」


 いいんだ、いいんだよ。何度か繰り返すように、同じようなことを言い合う。なんだかおかしくなってどちらともなく、クスクスと静かに笑い合ってしまった。

 額をこつりと合わせながら、お互いの笑い声で吐息を感じる。

 昨日、随分と急に距離が縮まったように思っていたのに、まだ先があったらしい。


 それから何度も、子供が覚えたての遊びを何度も繰り返すように、私たちは唇を重ねた。

 ただ触れ合わせるような、それこそ遊びみたいなキス。

 けれど、今はそれで十分だった。


 お互いに欲しいものがある。

 お互いを満たし合うことができる。

 お互いが必要だと思える。


 きっと、私たちは人よりも早く、近づいて、好意を抱いて、互いを求め合っている。だからこそ、急ぐ必要なんてなくて、むしろここからはゆっくり進んでいきたくて。

 今二人で交わすこの行為は、それらを確認し合うものでしかなかった。


 重ねて、重ねるたびに、やっぱりこの人が必要なんだと再確認する。

 多分それは彼も同じで、唇が触れるたび、抱きしめる力がほんの少し強くなっていた。

 私のことを、欲しがっているのがわかった。


 私たち以外に誰もいない生徒会室は、少しずつ暗くなっていった。

 夕日はどんどん傾いていって、床に映った影が伸びていく。二つの影が重なって、離れて、また重なって……夕日が完全に落ちてその影が見えなくなるまで、私たちは唇で遊んでいた。


「……よくよく考えると、何か凄く悪いことしてる気分だ」

「どうして? 私たちは付き合ってるんだし、これくらいはいいと思うけれど。さっきも二人で確認したでしょう?」

「うーん、そういうことじゃなくて……」


 帰り支度をしながら、彼が言葉を濁す。

 少しだけ悩んでから、すっと指を床へ向けた。


「此処って、生徒会室でしょ」

「うん」

「皆帰った後とはいえ、そんな場所でしてよかったのかなぁって」

「あぁ、そういう」


 確かに言われてみれば、普段は皆で真面目に会議や書類仕事をしている場所で、隠れて恋人とキスなんてしていたことになる。悪いことをしてるような気分になるのもわかる話だった。

 改めて認識して考えて……少しだけ、楽しく感じてしまった。


「……子供は、隠れてわるいことをするものだし、むしろそれらしいんじゃないかしら」

「それだと、甘やかす側は保護者として注意するべきな気もするなぁ」

「あら、どうして?」

「どうして、って……むしろその例えで注意しない理由ってなに?」

「甘やかす側なんだから、わるいことしても甘やかして許しちゃうのが貴方じゃないの?」

「……ぐぅ」

「ふふふっ、ぐうの音が出たわね」


 ばつの悪い顔。多分、彼は本当に私以外の生徒会役員に悪いなと思ってる。

 けれど、仕方のないことでもあるのだ。


「真面目に言うとね、此処が一番都合が良かったのよ」

「都合が良かった?」

「そう、生徒会室にはいつも私が最後まで残ってたし、鍵の管理もしてたから。少しくらい返すのが遅くなっても、怪しまれたりしないで済むってわけ」

「あぁ、昨日も結構遅かったけど、それで平気だったのか」

「それに、貴方と二人で居るところを見られても、生徒会長として生徒の相談に乗っていただけって言い訳もしやすい場所だしね」

「色々考えてくれてたんだ……」


 当然、考える。絶対に人には知られたくないし、そもそも大事なことは昔から癖になるほど徹底して考えるようにしている。そうしないと失敗すると、自分だけは知っているから。

 でも、皆はそれを知らなくて、やっぱり優秀だねという言葉一つで片付ける。

 あぁ、さっき甘えたばかりなのに、どうしよう。また甘えたくなってくる。


 やっぱり、私にとって優秀さなんてものは呪いだ。

 今までは、この呪いは一生解けないのだと思っていた。

 でも、今は違う。ぎゅっと、私は無意識に胸元で手を握りしめていた。

 何かを、期待するように。


「ありがとう、頑張って考えてくれたんだ。ほとりはえらいね」

「……むふぅー」


 信じていた通りに、彼は期待に応えてくれた。

 子供を褒めるように、自然に頭を撫でてくれた。私が頑張ってることを理解してくれた。そっと抱き寄せて、甘やかしてくれた。期待以上だった。


 期待以上過ぎて嬉しくなって、きついくらいに私からも抱きついてしまう。

 抱きしめ合って、確認し合って、嬉しくなって、ただ笑い合う。

 それだけで、きっともう、私の呪いは解けていた。

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