1:花咲くように
自己顕示欲が強いね。
たった一言で、自己のパーソナリティというものを表された言葉だった。
たった一言で、自分という存在が如何に浅ましい存在であるか思い知らされた言葉だった。
たった一言で、自らが汚いものであると思い知れと、レッテルを貼られた言葉だった。
それでも、生き方を変えようとは思わなかったし、変えられなかった。
だいたい人のためになることをするというのは、良いことであるからして。欲求を満たすついでに、他人も幸せのなるのならそれでいいじゃないか。
幼い反発心というものもあったのだろう。けれど本質はそこにない。
もっぱら、したいことをするというのが、昔からの当たり前だったのだ。
別に、自分のことを聖人のように思っているわけではない。右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ、なんて言う気もさらさらない。むしろそんなことをしている奴がいたら馬鹿だなとさえ思う。
利己的だ。どこまでもいっても自分本位だ。
だからだ。だから人のためになることをする。そうすると気分がいいから。
人から感謝されるのは気分がいい。褒められればやる気が出る。注目を浴びれば高揚する。
ごくごく当たり前のことだ。何故、さも恥ずかしいことであるというような見られ方をするのかがわからない、なんて嘯いて。
ただただ、自分は……そう、自己顕示欲が強かった。
実際のところ、その言葉はひどく正鵠を射ていたのだ。誰かに褒められたい。誰かに感謝されたい。誰かに、見てほしい。
とかく、自分は疎外感というものに昔から敏感で、それが苦手だった。だから、それが自分にとって一番したいことに繋がっていたのだと思う。良いことをすれば、自分という存在を、人に見てもらえるから。
そうしてふと、全てが面倒になるときがくる。どれだけ頑張っても、それが当たり前かのように扱われて――あぁ、もういいか、と。
投げやりになって、全部投げ出してしまいたくなって……そして、我慢する。昔から決まっている行動だった。
習慣、と言ってしまってもいいかもしれない。自分という底の底に根付いてしまった当たり前。健全であるべき証。思慮分別。常識って、便利な言葉だ。
本当にそんなことをすれば、失ってしまうと理解しているのだ。確固とした何かは思いつかなくて、けれど、そのぼんやりとした何かを失うことが怖かった。
家族、友人、立場、イメージetc……。パッと、そんな名称が頭に浮かんでは消える。
そうして、一先ずは安心する。それは、普通なら人生というものにおいて大切なもので、一度取りこぼしてしまったら、後戻りはできない。修復できることもあるだろうが、元のままというのはきっと難しいだろう。
自然なことだ。だから、今自分が我慢しようとしていることは正しいことだ。そう言い聞かせる。
繰り返しだった。頑張って、嫌になって、我慢して、また頑張る。繰り返しだ。きっと、大なり小なり、皆そうなのだろう。
それとも、これは自分の考えすぎなのだろうか。普通ではないのだろうか。また、そんなことを考えて。
ふと、目の前で黒い色が揺れた。
長い、長くて……美しい黒だった。
今自分がどこにいるのかを認識する。
駅の構内。黄色い線の内側。境目の此方側。
目の前の外側に、先ほど視界に映った黒色があった。その黒色の主がいた。
そう、境目の彼方側。ここが此岸だとするならば、彼岸の方に。
咄嗟に、手を伸ばす。
伸ばした俺の手は、柔らかな彼女の手を、掴み取った。
変なことだとは思うが、きっとこのとき掴み取ったのはそれだけじゃない。
もっと他にも、大切なものを掴み取った。そんな気がした。
「大丈夫?」
「……えぇ、少し疲れていてふらついたみたい。ありがとう」
「そっか、ならもう少し下がって休んだ方がいいよ。危ないから」
「そうね、そうするわ」
少し疲れてふらついた。当たり障りのない言葉だった。普通だったらそれで納得して、多少心配でもして、そのまま忘れるようなことだっただろう。
だけど、今回の件はそのまま忘れられるようなものじゃなかった。
一つは、彼女は明確に自分から一歩踏み出そうとしていたからだ。目の前で揺れる綺麗な黒色を認める直前、視界の端に映っていた彼女の瞳は真っすぐに前を見据えていたように思えた。何より、咄嗟に手を掴んだときに、少しだけその瞳の中に非難の色を感じ取った。
きっと彼女はあちら側に行こうとしていた。恐らく、それに気が付いたのは自分だけなのだろう。雑踏の中、僅かに前に出ただけですぐに俺が止めたからか、注目を浴びるなんてことはなかった。
そんな状況で、忘れるなんてことが出来るはずもない。
そしてもう一つは、彼女の顔に見覚えがあったからだ。
俺と同じ学校に所属していることを示す制服。冷たさすら感じるような整った相貌と鋭い目つき。女性にしては高いと言えるそのすらりとした長身。見間違えるはずもない。
彼女の名前は長辺ほとり。俺が通う学校の、生徒会長だ。
ちらりと、大人しく後ろへ下がった彼女に視線を向ける。
電車の前に並ぶ列から外れて、ベンチに座った彼女は何をするでもなくただ前を見つめていた。一見すれば、ただ電車を待っているようにも見えるが、彼女の瞳が何処を見つめているわけでもないのが、何となくわかった。
危うい人だな。
真面目で冷たい雰囲気の生徒会長だと、噂ではそう聞いていた。学校でちらりと見かけていたときの印象も、その噂通りだなと感じた程度。けれど、しっかりと注意して見れば、まるで幼い子供のようだと思った。
諸事情があったせいで訳ありの子供を多く目にする機会が多かったからなのか、それとも自分の気質によるものなのか、何故かそう感じ取った。
やはり、忘れられるようなことじゃない。
死のうとしているかもしれない人を放っておけない。当たり前過ぎることではある。ただ、それだけではなくて、何となく彼女のことを放っておけなかった。
遠くから見て、いわゆる彼女の本質らしきものに触れることなどなく、皆が見ているだろう外側だけを自分も同じようになぞっていただけならば、それこそ気にも留めていなかっただろう。自分とは関り合いのない人だ、と。
けれど、間近で見て感じ取った彼女の内面は、酷く……そう、引っかかった。
自分という存在に、ささくれのようなものがついているとして、彼女にも似たような何かがあるような、それらが触れ合い絡まったような、そんな奇妙な感覚。
もしかしたら、彼女も同じようなことを感じているのかもしれない。
なんて、半ば妄想染みたものだ。もしくは、ヒロイックな感傷。
普通なら見ないものを見てしまったからか、それがちょっとした自分の中では有名人扱いされるような相手だったからか。もしかして俺はミーハーなんだろうか。
自戒するようにそんなことを考えていたからか、次の瞬間、心臓が大きく跳ねた。
彼女が、俺のことをジッと見ていた。
たまたま視線が合ったとか、そういうことじゃない。
先ほどまでの胡乱な視線ではなく、力強い眼光でもって、こちらを見ていた。そして俺がそれに気づいたことを察すると、ただ視線を合わせてきたのだ。
まさか本当に俺と同じような感覚を味わったわけでもあるまいに。
順当に考えれば、自殺しようとしたのを目撃され止められたことで反感を抱いている、とかだろうか。もしくは気の迷いを見られてしまったことに対する警戒とか。
あぁ、俺がこのことを吹聴するかもしれないと考えているのかもしれない。ただそんなことをしても、彼女に対する世間の信頼を、俺の語る真実が上回る気はしないけれど。
そもそも、そんなことをする気はないし。
ただ、そんな俺の中で決まり切っている事実は関係のないことだろう。
俺がいらないことを言いふらす可能性。それを受けた世間の反応。
彼女自身からすれば、それらがどう転ぶかわからないのだから。
まぁ、本当にそんなことを彼女が考えているかもわからないけれど。
どうにしろ、彼女が俺に対して何か思うところがあるのなら、向こうから接触してくるだろう。こちらとしても放っておけないと思った相手だし、そうなれば都合がいい。
しかしというか、当然というべきか。その場での接触はなかった。
人が大勢いるし、隠れて話が出来るようなスペースも見当たらない。デリケートな問題になるだろうし、往来でするような話には決してならないだろう。
何より、込み入った話などしていれば完全に遅刻だった。
結局、そのままやってきた電車に乗り込んで学校へ行き、何か特別なことなどあるはずもなく、いつも通りの日常が過ぎていく。
退屈な授業。けれど将来を生きていくには必要で、何よりも勉強を頑張れば教師は褒めてくれるし、友人たちからも頼られることが増える。そんな打算と自己顕示欲に塗れた動機ではあれど、テストでそれなりに高い順位を維持できる程度のモチベーションにはなっていた。
休み時間になれば、大して興味もないドラマの話に相槌を打ち、それらしい感想を口にして笑い合う。その時々は何となく、同じものを共有しているという連帯感からか、ドラマそのものは面白くなくても自然に笑えるのだから、人間というのはおかしなものだと思う。
そんな今まで当たり前にこなしてきた日常。
けれど、今日はその中にいつもと違う部分があった。
長辺さんのことを気にかけて、彼女のことを目で追う。ただそれだけのことだけれど、また彼女が何か危ういことをしないかと、少しだけひやひやしていた。
俺のそんな心配をよそに、彼女は今日も完璧な生徒会長をこなしている。
生徒どころか教師にまで頼られ、粛々とすべきことをこなす頼もしい姿。
普段なら、その姿を見たところで思うところはなかっただろう。
今は何だか、はらはらした。まぁ、何もなかったのだけれど。
そうして、放課後。
案の定、俺は長辺さんに呼び出された。
生徒会の仕事が終わる時間を告げられ、その後に生徒会室へきてほしい、と。
こんなときでも生徒会の仕事はきちんとこなすんだな。おかしなくらい真面目というか、それすらも今の俺からすれば奇妙に感じてしまった。
図書室で宿題と今日受けた授業の復習をすませていれば、時間は簡単に潰すことができた。時計を見れば、そろそろ言われた時刻になろうとしている。
彼女も人がいない状況を想定しての時間指定はしているだろうとは思うが、一応ゆっくりと片付けをすませて図書室を出る。他の生徒会役員と鉢合わせでもすれば、面倒になるのは彼女だろうし、そうしてしまうことは本意ではない。
時間をかけて生徒会室へと辿り着く。
少しだけ緊張して、それをほぐすように数度深呼吸。
意を決して、扉を開けた。
「来てくれたのね、良かった」
「そりゃあ、呼ばれたからね」
夕日の射しこむ教室の中で、彼女は俺のことを待っていた。
窓辺にゆったりと佇んで、こちらをジッと見つめてくる。
朝と同じように、あのときよりも真剣な表情で。
何故か、またその姿が彼女には似付かわしくない子供のようなそれに見えた。
言いたいことがあるのに、それを言うべきか迷っている。
いや、言っていいのかと悩んでいる。そんな風に。
だから――。
「何でも言ってくれていいよ」
「え……?」
「悩んでるように見えたから」
「……」
「何を言っても軽蔑したり、馬鹿にしたりしない」
ただの口約束だ。
でも、そういうことを言葉にしてもらえると、多少なり安心することを俺は知っていた。
彼女が内に溜め込んだものを吐き出しやすくなればいい。ただそう思うと、自然と言葉が口をついて出ていた。いつもならこんなことはしないのに。
まるで……。そう、まるで施設の子供たちを相手にしているときみたいだった。
「……信じるわ」
「自分で言っておいてなんだけど、いいの?」
「だって、気づいてくれたのは貴方だけだもの」
「気づくって、今朝の?」
「そうね、そう」
彼女が瞳を揺らす。
死のうとした人間にしては、それはとても純粋で綺麗なものに見えた。
いや、死のうなんて考えた人間のものだからなのだろうか。
生きていくことは、多くのものを抱えていくことだ。そこには綺麗なものだけじゃなく、汚いものをどうしても抱えなければいけないことだってある。
死ぬときに、人はそれを全て手放していく。死ぬことに抱える必要はないから。自分が望んで持っていたいものだけを残して、逝くことが出来る。
彼女は一度死のうとした。いらないものを手放して自ら消えようとした。
だからこそ、純粋なものしかその瞳の内には残っていないのかもしれない。
現実感の薄い状況に、思考も少しずつ浮いていく。
「私が、もう無理だって」
揺れていた瞳をこちらへまた合わせて吐き出した言葉はか細く小さかった。
多分、俺が感じていたものは間違いではなかったのだと思う。
彼女は子供には見えない。見えないけれど。
「だから、ねぇ……」
それは、彼女が望んだものではなくて。
普段から見せているものは、周囲から望まれたものでしかなくて。
「私のこと、助けてくれない?」
彼女はただ、子供であることを望んでいた。
でも、それは酷く不器用で、躊躇いが見えた。
見ていられなかった。
そう、見ていられなかったんだ。
自分のことを見ているようで。
自分のことを見て欲しいと叫ぶ子供のようで。
自分のことを知らず蔑ろにしようとしているようで。
「助けて、でいいんだよ」
「え?」
「本当に辛いときは……助けて、でいいんだよ」
「……」
俺が言っていることは変だ。きっと、変だ。
これから言おうとしてること、やろうとしてることも変だ。
でも、どこかしら俺も彼女も、もとから変なんだろう。
そう生まれてしまったのか。そう育ってしまったのか。
わからないけれど、きっとそうだった。
「たす、けて」
「うん」
「たすけて」
「わかった」
彼女は繰り返す。拙い口調で、本当の子供のように。
普段ちらりと見かけていた、冷たく大人びた表情はそこにはない。
くしゃくしゃに顔を歪めた、泣きじゃくった女の子が、いた。
「たすけて、よぉ……!」
「任せて」
よろよろと、彼女が頼りなく歩を進める。
俺は迎え入れるようにゆるく両手を開いて、こちらからも歩み寄った。
ぽすりと、胸元に体を預けた彼女の体は震えていて、俺まで悲しくなりそうで。
だから、だから強く、抱きしめた。
彼女を強く抱きしめて、どれくらい時間が経っただろうか。
数分か、数十分か……完全に日が落ちたわけじゃない。それでも、混乱していた彼女が正気に戻るには問題ないほどの時間だったはずだ。
「あ、の……あの、取り敢えず、もう大丈夫だから……」
「うん、じゃあ……」
「ごめんなさい、いきなり……意味がわからなかったわよね」
「いや、こっちこそ勝手な想像で色々決めつけて話してたと思うから」
互いにギクシャクとそんなことを言い合って、ゆっくりと離れる。結構きつく抱きしめあっていたようで、俺も彼女も制服が少し皺になっていた。
慌ててお互い服装の乱れを直す。ここだけ見ると如何わしいことでもあったかのように見えるかもしれないが、俺たちは至って真面目だった。
「それで、改めて聞きたいんだけど」
「あぁ、うん……そうね。ちゃんと説明するわ」
「わかった。もう一度言うけど、何を言っても軽蔑したり、馬鹿にしたりしないから」
「……うん、ありがとう」
俺の言葉に、今度はただ嬉しそうに微笑んで頷いた。
そうして居住まいを正し、彼女はゆっくりと語り始める。
「今朝のこと、見てたからわかると思うけど……死のうと、思っていたわ」
「だろうね。じゃなかったらあんなこと冗談でもしないよ」
「だって、もう無理だって思っちゃったんだもの」
「無理って、何が?」
「それ、は……」
俺が訊ねると、彼女は口ごもった。それは当然のことだろう。死にたいと真剣に思うほどに悩んでいたことだ。簡単に誰かに話せるのなら、そもそも死のうとなんてしない。
だから俺は待った。もしここで話してくれなくても構わない。そんな心境でただ彼女が話そうとしてくれているのを待ち続けた。
無言の時間が続く。けれど居心地は悪くなかった。彼女はただ必死に俺のことを見てくれていて、大事なことを話そうとしてくれていたから。
カチコチと、教室に置かれた時計の針が規則正しく音を刻む。
ゆっくりと、ゆっくりと日が傾いていく。窓の外が少しずつ暗くなっていく。
それでも、彼女は何も言い出せなかった。
「……さすがに、十分も過ぎれば呆れて帰ると思った」
「待つよ。だってまだ頑張ってるってことは、話したくはあるんでしょ?」
「……んっ」
また、子供みたいに頷いて、彼女は少しだけ目尻に涙を浮かべて、自分の唇を噛んだ。自分のことなのに、自分ではどうしようも出来ないことが腹立たしくて悲しいのだろう。
癇癪を起こした子供みたいで、思わず笑ってしまう。
「ふっ、ふふ……」
「わ、笑わないで」
「いや、だって……ごめん、長辺さんは凄く真剣なんだろうけど、可愛いなって」
「か、可愛くなんてない。こんなの、ただみっともないだけで……」
「子供みたいで可愛いよ、嘘じゃない」
「……」
さすがに、今のは失礼だっただろうか。
いや、もしかしたらよく知りもしない男にそんなことを言われて気持ち悪かったかもしれない。よくよく考えれば、、死のうとするほどに悩んでいる彼女に対してしていい態度ではなかっただろう。
けれど、今の彼女にはそういう気持ちを誤魔化したくはなかったのだ。何となく。
「どうして……」
「え?」
「どうして、貴方は私がしてほしいこと、言ってほしいことがわかるの?」
「……?」
してほしいこと。そんなことしただろうか。
言って欲しいこと。そんなこと言っただろうか。
中々に不躾で、失礼なことばかりやったり言ったりしている気がする。
今思い返すと、中々に今日の俺はおかしなことばかりしていた。
「私の手を引いてくれた」
「……」
「私の話を聞いてくれた」
「……」
「私のこと、可愛いって……」
言われてもよくわからなかった。
俺にとってそれは、当たり前のことだから。
危ないことをしようとする子供の手を引く。話したがっている子供に耳を傾ける。子供らしい様子に微笑ましくなって可愛いと……。
そこまで考えて、はたと思い至った。
それらを、俺は当たり前にすべきことだと思ったのだ。
つまり、彼女のことを、本気で幼い子供のように感じていたということで。
彼女はそれを、してほしいことだと言っている。
「私は……こんな風に、なりたいわけじゃなかった」
「そっか」
「大きい体が嫌い」
「うん」
「自分にも他人にも厳しくするのは、辛いの」
「頑張ったね」
「そう、頑張った……私、頑張ったんだよ……」
今にも壊れてしまいそうだった。
壊れてしまわないように、もう一度抱きしめる。
もう泣きはしていないけれど、やっぱり彼女も黙って抱きしめられにきた。
彼女の立場や在り方は、彼女自身が望んだものではない。何となく感じ取っていたことが、確信に変わる。
望んでいないそれは、彼女自身を追い詰めたのだろう。こんな風になってしまうほど。今朝のようなことをしてしまいそうになるほど。
とても悲しいことで、きっとどうにも出来ないことだったに違いない。
周囲が彼女にそう望んだのは、悪意からではないだろう。
そう出来る能力があるから、そうさせることが彼女のためにもなるだろうから。
彼女も、それに応えてしまうことが出来たから。
明確に誰が悪いわけでもない。
けれど、だけど。
気づいてあげて欲しかったと、思う。彼女がこんなにも必死に頑張っていたことを、誰か気づいて、こうして抱きしめてあげて欲しかったと、そう思った。
「本当は、頑張りたくなんてなかった」
「でも、頑張ったんだね」
「お父さんとお母さんがそう言ったから。頑張ったら、喜んでくれるから」
「期待に応えようとしたんだ、偉いね」
「皆、皆が言うの。私は凄いって。だからもっと頑張れって」
「頑張りたくなんてないのに?」
俺の言葉に、彼女が顔をあげる。
眉を寄せた、困ったような顔。ぎゅっと口を引き結ぶように閉じた、不安そうな顔。
迷子になった、子供みたいな顔。
「どうしたら、いいのかなぁ……?」
「どうしたい?」
「……皆を、裏切りたく、ない」
「優しいね」
「でも、これ以上はもう、無理」
「辛いもんね」
ぎゅうっと、抱き着いてくる力が強くなった。俺の胸元に顔を押し付けるようにして、ただ何も言わずに、強く抱き着いてくる。
それは無言の肯定で、無言の甘え。意地を張った子供の精一杯のそれ。
どうしても、それが痛いほどにわかってしまって……だから、頭を撫でる。
「じゃあ、どうすればもっと頑張れるかな?」
「……褒めて、ほしい」
「褒めるだけでいい?」
「………………甘やかして、ほしい」
絞り出すような言葉だった。
上からちらりと見える耳は真っ赤になっている。
どうしたって、恥ずかしい要求だ。それも仕方ないだろう。
何なら、こんなことを言うのも本当ならおかしい。でも、そんなおかしいことをしてしまうほどに、彼女自身がもうおかしくなっているのかもしれない。
「今日知り合ったばかりの人に、こんなこと頼むなんておかしいってわかってる」
「うん」
「でも、貴方には言ってもいいって、何故だかそう思えたの」
「俺が言ってほしいと思ってるからじゃないかな」
「……私もほんとに変だけど、貴方もそれと同じくらい、変」
クスリと、彼女が笑う。
あぁ、可愛いな、この人。当然のようにそんな感想が浮かんできて、胸元に抱きしめている頭をまた撫でる。
ぐりぐりと胸元に額を押し付けられた。まるでねだるように。
「じゃあ、もっと言ってもいいのね」
「うん、言ってほしいからね」
「もっと、迷惑かけることになるかもしれないわよ」
「放っておけないから、仕方ないよ」
「ほんとに、変な人」
また笑って、今度は離れる。
背中で手を組むようにしながら、まだギリギリ見える窓の外の夕日を背負って、少しだけすっきりしたような、憑き物が落ちたみたいな顔でこちらを見つめた。
「じゃあ、取り敢えずもう一つお願いを聞いて」
「何でもどうぞ」
「言ったわね、やっぱりなしは駄目よ」
「約束は守るよ」
それじゃあ、と彼女は前置きしてから目を閉じ深く息をする。
胸元に手を置いて、意を決したように顔をあげて、目を開いて。
「私と、付き合って」
「わかった……え?」
何を言われても、実際に聞くつもりだった。
そもそもここまできて、彼女を放り捨てる選択肢なんて最早ない。
だから反射的に頷いていた。
頷いてから、疑問がそのまま声になって漏れ出た。
「頷いたわね。それじゃあ、これからよろしく」
「……よろしく?」
俺が頷くと彼女は嬉しそうに表情を緩めた。
そんな様子を見ていると、まぁいいかと流しそうになる。
この一日で俺の心の中を彼女が占める割合がどんどん増えている実感があった。
だがしかし。
「いや、ちょっと待ってほしい」
「なに、何でもどうぞって言ったでしょ」
「言ったけど、長辺さんはそれでいいの?」
「……ほとり」
「え? えぇっと……ほとりさんはそれでいいの?」
「だから、ほとり」
「……ほとりはそれでいいの?」
何だかドラマや漫画で見かけるようなやり取りをしている気がする。
そう思い至ると少しばかり恥ずかしくなった。
けれど、名前を呼ばれただけで嬉しそうにする長辺さん、もといほとりをみていると、やはりまぁいいかという気になってくる。
「うん、呼び方も、私たちのこれからの関係性も、それでいい」
「本当に?」
「それがいいの」
彼女はひたすらに頑なだった。
それこそ、我がままを言う子供のように、有無を言わせない雰囲気。
したいことを我慢しない、ありのままの彼女。そう考えれば、むしろ彼女の在り方としてはこれが正しいのではないだろうか。
勿論、自分と付き合うことが正しいとか、そういうことではなく。
「だって、考えてもみてちょうだい。私はこれから、他の人には絶対に見せられないような恥ずかしい甘え切った姿を貴方に見せるのよ?」
「勿論俺は拒否したりしないけど、これからもするつもりなんだね」
「当然でしょう。そうしないと死ぬもの」
「朝のことがあるせいで説得力があり過ぎる……」
「とにかく、そんな姿を見せられる相手なんて、恋人くらいでしょう」
「色々飛躍してる気もするけど、じゃあ他の関係性はって言われるとなぁ……」
「ちなみに、家族にすら見せられなかった私が、友人に見せられると思わないことね」
そうなると確かに、恋人くらいなのかもしれない。
俺たちに残された、これから二人で築いていく関係性は何かという選択肢は、気が付いたら一つに絞られていたらしい。
「でも、そんな消去法みたいな」
「消去法であると同時に、私にとっては理想でもあるわ」
「それは、どういう?」
「……私の辛さを、願いを、見つけてくれた。それを当たり前のように許容してくれた。正直に言って今日だけで私、貴方のことをとても好きになってしまった自覚があるわ」
「……」
何というか、物凄く正面から好意をぶつけられて、とても恥ずかしかった。
けれど、それ以上に嬉しかった。
少なくとも、今彼女が見ているのは俺だけだ。それも、普通ならあり得ないほどの好意を向けてくれていることが如実にわかってしまうほどに、見てくれている。
これまでのやり取りでわかったことだが、彼女は歪んでいる。
だって、歪んでいなければ、こんな風にはならないだろう。
そして、俺もまた彼女と同じように歪んでいた。
「わかってると思うけど、俺って結構おかしいよ」
「わかってるわ。そうじゃなければ、こんなことになってないし、好きになってないもの」
「自分で言うけど、かなり歪んでると思うよ」
「自分で言うけど、私だって相当歪んでるわ」
だからなに。
彼女は言外にそう伝えてきている。
「……それこそ、自分で言うのも何なのだけれど。私って見てくれはいい方だと思うのよ。そういう意味で拒絶されない程度には」
「そうだね、ほとりは綺麗だし、甘えてるときは可愛いし」
「今はやめて、甘えたくなって話が進まなくなるわ」
「ご、ごめん?」
「まったく、簡単に女を褒めたりして。意外とプレイボーイなのかしらね……」
そう言われると、確かにそれっぽい。
けど、普段ならこんなに可愛いとか綺麗だとか、簡単に言ったりはしない。
「いや、ほとりにだけだよ」
「やめてってば……」
ほとりはそう言いつつ、にやにやと緩んだ頬を手で押さえる。
多分、綺麗だとは何度も言われたことがあるだろうけど、可愛いと言われることは少なかったのかもしれない。女子の多くからは格好いいという評価まで結構貰っているらしいし。
俺からすれば、こんなに可愛い女の子もそういないと思うのだが。
半分、子供のように見ているから、こんな風に思えるし言えるんだろうな。
「と、とにかく、私は勉強も運動も出来るし、顔もスタイルも悪くない。彼女として迎えるにはかなり優良物件だと自負しているわ」
「実際にその通りだから反論も出来ないや」
「そうでしょう。だから、貴方からしても良い話だと思うの」
「……うーん、その辺は付き合うことになる理由とあまり関係ないかな」
俺の言葉にほとりが露骨に表情を暗くする。
それを見ていられなくて、慌てて言葉を続けた。
「いや、ほとりは優秀だってわかってるし、顔もスタイルも良いことは俺も肯定する。そんな子が彼女になってくれるのなら男として嬉しいのは間違いないよ」
「……じゃあ、何でそれが関係ないのよ」
「だって、俺がほとりと一緒に居たいと思った理由は、放っておけないからだし」
言ってから、結構な上から目線の言葉だと気付く。
勉強も運動も彼女の方が成績は上。世間からの信用も勿論俺の方が圧倒的に下。
そんな俺が、彼女のことを放っておけないから一緒に居たいとは、結構な思い上がりだ。
やってしまったと思ったがしかし、彼女からすればその評価は間違いらしかった。
一瞬の呆然とした表情。次いで顔を赤く染め、嬉しそうに唇の端があがっていく。少しだらしなく感じるほどに、端的に言えばにやついていた。
そんな自分に気が付いたのか、彼女は手のひらで口元を隠して顔をそらした。
「あ、なた……本当に変よ。私みたいな図体のでかい女が、子供みたいにぐずって、我がままを言って、情けない弱音を吐いて、それを放っておけないなんて……」
「変なおかげで、ほとりを助けられそうなら良かったかな、って」
「も、もう……ほんとに、もう……!」
怒ったように声を荒げる。
けれど、体はスススッとこちらへ近づいてきて、きゅっと抱き着いてきた。
「……へへへ」
だらしなく小さく笑って、すりすりと頬を擦りつけてくる。
子供らしくいられなかった反動のように。いや、まさに反動なのだろう。
俺が子供のように振る舞う彼女の面倒をみたがっていると理解出来てきたからか、子供のような言動をすることに遠慮がなくなってきた。
運動が出来るというだけあって、普段からそれなりに体を動かしているんだろう。何と言うのが正解なのだろうか。とにかく、彼女の手足はしなやかだった。こうして抱き着かれているだけでも、それがはっきりとわかる。
それでいて、肌の感触はあどけない。まるで大人になろうとしている自分を拒むように、そんなところばかりが、小さな子供みたいで。
ふにり。
気が付けば、俺の指が彼女の頬に沈んでいた。
不思議そうに、邪気のない瞳が見上げてくる。
純粋な瞳。けれど、湖面のように湛えられたそれは、先ほどのような何もかも捨て去ってしまったようなものじゃなくて。ただ、目の前のものを欲しがるそれで。
子供の瞳だ。聞きたがっている瞳だ。目は口ほどに物を言う。
今、俺は言われている。無垢な声のない言葉で。
どうして?
嫌がるなんて発想すらないように。
そうする意味を探るように。
もしくは、純粋に欲しがるように。
「本当に、子供みたいだったから」
「……どうだった?」
「……本当に子供みたいだ」
削ぎ落されたような応酬。でも、それでいい。
そこにある純粋さを、淀ませたくなかったから。
だから、ただ純粋に返した。純粋に返し合った。
それが正解で。俺たちの間でだけは正解で。
だって、彼女は欲しがったものを手に入れたみたいだったから。
今、手に入れたと確信していたから。
目の前で花開いた綺麗なものを見ただけで、そう確信できたから。




