大前滝野(後編)
滝野は酒の味がわからない奴として球団で知られていた。
厳密には、味の違いは理解できるが美味しいと感じられない。以前同僚との飲み会の折に何気なくそのことをこぼすと「本当に美味い酒を飲んだことがないからだ」とバーに連行された。
以後都合五回、総額不明のアルコール入門が徒労に終わり、腕利きのバーテンダーがしゅんとしたとき滝野は味を諦めた。自分はアルコールを摂取すると味蕾の一部が死ぬタイプなのだ。そのように思い、喉に通すのも基本は安物だけにしている。
それでも飲むのは酔いたいからだ。飲むと気分が高揚し、身体の芯がぽかぽかと温まってくる。熱はやがて心身を満たし、居場所をなくした思考が追い出される。ピッチングに集中した際とはまた違った精神の空洞は滝野にとって奇妙に好ましく、他にはない面白みがあった。
「うー」
最寄り駅の傍にある大衆的な飲み屋を千鳥足で後にする。粋さとほど遠い雑な飲酒は財布にも身体にも毒だったが、今の滝野には素面で吉田の居る家に帰る自信がなかった。
陽はとっぷりと暮れ、仰ぎ見た月にはぼんやり暈がかかっている。風情のある秋の夜空に滝野の口元がだらしなくほころんだ。そして肩の疼きが笑みを歪ませる。酒による炎症の悪化だ。
「酒のうて、なんの己が月夜かな……っと」
酩酊した頭でぼやきつつふらふらと家路から外れていく。
道すがらたい焼きのチェーン店が視界に入ったので一枚買う。数年前から全国展開している一丁焼きの店である。
人気のない暗い横道に逸れ、たい焼きの頭へとかぶりつく。
「なんや、オープンしたときよりんまいやんけ。店員頑張っとるわ」
謎の上から目線で褒め称え、もしゃもしゃとたい焼きを咀嚼する。包み紙に銘打たれた『天然鯛焼き』の文字がふっと目につく。
一枚一枚手焼きする手間が特別感を演出するのか、一丁焼きは天然ものと称されてコアな人気を博している。中には天然というラベル自体をありがたがる輩もいるが、滝野はそういう無理解な手合いが子どもの頃から大嫌いだった。
一丁焼きと連式のたい焼きは根本的に違う食べ物だ。単語の響きや製法の差異で片方を貶めるのはバカげている。
「そういやくりすやにもそれっぽいガキ来てたなー、泣きぼくろの……って、どうでもええわあんな店」
最後のひとくちを終えて、丸めた包み紙をポケットにねじりこむ。
一丁焼きのチェーン展開など昔は想像だにしなかった。しかし、今食べた限りでは技術面の不足は何ら感じない。高水準の味は現場の教育が行き届いている証である。
いっそこの店で働くのもひとつの手かと滝野はふいに思う。家からも駅からも割と近く、たい焼きの質も申し分ない。今度求人がないか調べてみよう。そう決めてさらに道を外れ、
「……ん?」
どこからか、遠く懐かしい音が滝野の鼓膜をかすかに揺らした。
重く、柔らかく、芯のある音。アスファルトに弾む軟球の音。滝野にとっては馴染み深い、過去の自身が努力を刻んだ音。
きょろきょろと辺りを見回す滝野。民家が立ち並ぶ夜道の向こう、左手側に神社の石碑と境内に続く石段が見えた。
引かれるように足を動かし、長く細かい段差を上っていく。
上りきって鳥居を抜けた先は広々とした平地になっていた。急な向かい風に細まった目で音のする左前方を見やる。コンクリートの擁壁を背負った六台分の駐車スペースに車両の類は停まっていない。代わりに小学生が立っている。
黒いパーカーに紺のジョガーパンツ、青みがかった短い黒髪。
外灯の下でなければ夜闇に溶けてしまいそうな風貌だった。眼鏡をかけた表情に覇気はなく、瞳に宿る光も弱い。
山に面した駐車場の壁に向かってその子が白球を投げる。勢いよく跳ね返ってきたボールを素手でキャッチし、再び投げる。機械的に壁当てを繰り返す姿はどこか人形じみていた。
耳朶を打つ音に耳を傾け、滝野はボールの軌跡を目で追う。
その子の壁当ては正確だった。毎回ほぼ同じ地点に当たり、三度バウンドして手元に戻る。フォームも何もない、漠然と手で放っているだけのボール投げだ。手慣れた所作からはここで過ごしてきた時間の長さを感じられる。
「あっ」
幾度目かも知れない投球の直後、その口から小声があがる。一定の軌道を描いていたボールはやや左にずれて壁に当たり、さらには車止めにぶつかってあらぬ方向に跳ねてしまった。
イレギュラーしたボールがころころと滝野の足元に転がってくる。滝野が腰をかがめて拾うと、ボールを追ってきたその子と目が合う。
「ほい」
左手でひょいっと投げてやるとその子は慌ててボールをキャッチした。
手の中のボールと目の前にいる滝野を何度か交互に見比べ、やがてぺこりと頭を下げて元々立っていた位置に帰っていく。
確かめるように片手でボールを揉んでいるその子に滝野は言った。
「ボールをギリギリまで指先で粘らせる感じで投げるとええで」
弾かれたように振り返る子ども。
滝野は自身の行いにはっとする。
余計なことを口走った。頼まれてもいないアドバイスなどお節介以外の何物でもない。傍から見たならば今の自分は、子どもの遊びに口を挟むタチの悪い酔っ払いそのものである。
その子の射るような視線が気まずくて参道から拝殿に進む。神様への願掛けなど動転した頭では何も思いつかず、とりあえず健康祈願で賽銭箱に小銭数枚を放る。先ほど買ったたい焼きの釣り銭と合わせてざっと四十円弱。
お参りに来たわけではないが、用向きを済ませた雰囲気にはなった。後は早く立ち去るのみだと滝野が足早に参道を戻ると、駐車場前に来たところでボールがまた足元に転がってきた。
無視するわけにもいかず拾いあげる。持ち主と目線を重ねる。
「……」
元プロの滝野の目から見てもその子の飲みこみは特別早かった。手首は立てろ、下半身を捻れ、体幹と前足で「く」の字を作れ――頭ごなしでぞんざいな助言をスポンジのように吸収し、見る見るうちにフォームを確立していく。比例して球質も上がっていく。
始めて二十分も経つ頃には、その子のスローは立派にピッチングと呼べる代物に変わっていた。
「気持ち良い」
汗を散らし、息を切らして呟くその子に滝野が微笑みかける。
「リリースしたとき指の先端でパワーが爆発するみたいやろ? どうせ投げるならこっちのが楽しいし、ストレス解消にもなるで」
こくこくと頷くその子に対し、滝野は内心舌を巻いていた。
腰を入れた旋回運動によって生まれたエネルギーを体重と共に無駄なく腕まで伝達し、指先の一点で解き放つ。正しい投球動作は基礎であり、同時に高等技術でもある。ズブの素人は十回に一回成功すれば上等な方だ。
それをこの子どもは、ほんの小半時ほどで完全にものにしている。
「あの、なんかありがとうございます。色々教えてくれて」
「いやいや! こっちこそあれこれ口出ししてもうて、その、すんません」
突然の礼につい恐縮して、勢いのままに首を垂れる。視界の外でぷっと噴き出す声が聞こえて滝野は面を上げた。
おかしそうにくすくすと笑うその子の顔はとても楽しそうだった。
「野球好きなん?」
今さらになって問いかける。
その子は数瞬きょとんとしてから気恥ずかしそうに目線を逸らした。
「いえ、そういうわけではないんですけど」
「ほーん? なら学校で授業があるとか? 体育で野球ってあんま聞かんな」
「そういうわけでも……」
なら先刻の壁当ては本当にただの暇潰しだったのだろう。娯楽に溢れ返る現代でも外遊びに勤しむ子はいるらしい。それともインドア系の遊びはやり尽くして飽きてしまったか。
「ま、ええか。それよりこんな時間まで外で遊んでたらアカンで。親御さんに連絡はしたんか? 携帯持っとる?」
一緒に遊んでいた自分を棚に上げて滝野はその子に尋ねる。
返ってきたのは拗ねたように下を向く仕草と、弱い拒絶だった。
「……帰りたくありません」
「そーゆーお誘いのサインは十年したら恋人に……アカン、まだ酔っとるわ」
「家に居たくないんです」
アスファルトに訥々と落ちる声は切実な響きを孕んでいる。
滝野は居住まいを正し、年長者としての説得を試みた。
「んなこと言うてもこんなところ見つかったらサツに補導されてまうで。神社の住職さんにも迷惑やし、とっととお家に帰ろうや。送ってくから」
「うちの家、シングルマザーなんです」
「うん?」
耳慣れない、しかし強烈な質感のある単語に思考が止まる。
「お母さん、毎日夜遅くて。家、帰っても誰もいなくって。誰もいない家でじっとしてると、何をしてても怖くなってきて」
力なくうつむいて語られる。滝野はその顔に覚えがあった。
両親の家に住んでいた頃、窓に映った幼い自分の顔。絶え止まない喧嘩の声から逃れたくて外を見ていたときの顔。今、眼前にいる子どもの顔は記憶のそれと重なって見えた。
家に居場所がなくて、気を紛らわせたくて、誰かに助けてほしくて。
ここではないどこかに行きたくて。
「……さっさとお布団で寝たらええねん。夢の中の世界は楽しいで?」
「全然眠たくならないんです。お母さんが帰ってきて、玄関のドアを開ける音が聞こえてきて、それからようやくちょっと眠くなるくらいで」
申し訳なさそうにうなだれる姿を滝野は見ていられなかった。
何も追いつめたいわけではない。条例には触れずにこの子の心に平穏をもたらしたいだけだ。
どうしたものかと腕組みし、ひとつの案が脳でポップアップする。
「うー、いやしかし、しかし、うー」
「……あの、甘えちゃってごめんなさい。困らせたかったわけじゃないんです。本当はずっと、誰でもいいから話せる相手が欲しくって…………帰りますね」
「や、待った待った。待った――うし」
滝野はぐっと自身の眉間を押さえて目をつぶり、覚悟を決める。
「要は放課後にテキトーに時間潰せて夜眠れればええんやろ」
「え? えーっと……そうなりますね」
「ならスポーツしかないやろ、少年」
「え?」
言うなり滝野は手提げバッグの底からごそごそとチラシを取り出す。
祖父への土産の梅干しの箱の下敷きとなってやや折れ曲がった、青と白で塗られたチラシをその子の鼻先へと突きつける。
ぱちくり目をしばたたかせたその子に滝野ははっきりと言い放った。
「アタシな、月明けたらこのリトルのチームで雇われコーチやるねん。ジブンもチームに入りい。一緒に今夜の練習の続きしようや」
「……」
突然の勧誘にあっけに取られるその子に滝野は続けて問う。
「こっから家までどんくらいや?」
「え? えっと、十五分くらいです」
「よっしゃ。グラウンドまで徒歩で通えるな」
思いつきが具体性を帯びる。指折り算段を立てる滝野をその子はぼうっと見上げていた。しかしほどなく我に返ったように目を見張り、突き出した両手を振る。
「む、無理ですよ! クラブなんて入ったことないし、運動もそんなに得意じゃないし」
「ジブンのセンスはアタシが保証する。しっかり足腰も鍛えれば間違いなくええピッチャーになるで」
「野球なんてやったことないし、道具も持ってないし」
「道具は大方借りれるやろうし、ないのはアタシのお古を貸したる。月謝は二千円くらい取られるやろうけどおかんを説得せえ。アタシも協力したる。ホンマに家計が厳しいならしゃあないけど」
「それは……聞いてみないと……じゃなくて。練習ってお昼か夕方ですよね? 夜でないと意味ないんじゃ……」
「夜の練習はやるか知らんけど、なかったら自主トレでもすればええ。家でできんならそのへんの公園でも、なんならアタシの家でもええ。呼ばれたらいくらでも付き合ったる。早寝して早朝練習でもええしな」
コーチとメンバーという関係なら保護者としての立場が生まれる。監護権を有してはいないので厳密には条例違反だが、仮に補導を受けても街頭注意で切り抜けられる可能性が高い。
しどろもどろになっているその子の額を滝野がびしっと指差す。
指を見つめてきゅっと寄り目になるその子に滝野はこう力説した。
「眠くならんのは不安やからやなくて体力有り余っとるからや。死ぬほど身体動かして、疲れ果てて寝落ちすればええねんで。精神は肉体には勝てへん」
「うう、強引……」
「不安で潰れとるよりはええやろ。それにさっき、楽しゅうなかったか?」
「ふぇ?」
「アタシは楽しかったで。人に教えんのもアリかなって思うくらいに」
指差ししていた腕を少し下ろし、手のひらを上向きにして開く。
握手を求める形に変わった手にその子の目が吸い寄せられる。
滝野はニッと口端を吊り上げ、気取った素振りで相手を口説いた。
「ジブンのために言っとるんやない、アタシがジブンと野球したいんや。……な、良かったら一緒にやらへん?」
その子の墨色の虹彩の奥でときめくような光が弾ける。
滝野はしてやったりとほくそ笑み、同時に心の中で自嘲する。
私はこの子を利用している。コーチに就く言い訳にしている、と。
「何、やめたくなったらやめればええねん。アタシかてそのつもりやしな」
「でも……」
「なーんも気負うこたあらへん。まずはお試し期間の暇潰し。どや?」
児童の保護を大義名分に自分から捨てた野球にしがみつく。くりすやを継ぐ道が断たれてからすごすごと吉田の斡旋に乗る。未練がましく一貫性のない、浮き草じみてふらついた態度。自分のために誘っているというのは嘘でも気遣いでもなかった。
鬱屈した内面をおくびにも出さず滝野が強気に微笑する。
その子はしばらく目を泳がせた後、おずおずと片方の手を挙げた。
「あの、ひとついいですか」
「なんや少年」
「私、女です」
「へ?……は?」
顔を伏せて赤面するその子――少女を見て滝野は口を開ける。
言葉の意味が頭に入ってくるまでに数秒の間を要した。
「……ああっ!?」
狼狽しきった声をあげる滝野。ショートボブと男の子のような身なりですっかり勘違いした。まじまじと顔立ちを確認すればたしかに女の子でしかない。中性的でかっこかわいい子だなあと見惚れている場合ではない。
「くっ暗かったから! 暗かったから間違えた! えっと、すんませんでしたー!」
大慌てで九十度のお辞儀をする滝野に少女は目を丸くする。
ややあってから口に手を当て、さっきよりもおかしげに笑い出す。
「いいですよ、別に。それに、女だって言ったのはそういうことじゃなくて」
「いやアタシホンマデリカシーなくて……ん? そうではなく?」
「女子でもついていけるんでしょうか」
少女は後ろ手を組んで、上目遣いで滝野にそのことを質す。
レンズ越しの大きな瞳には不安と期待が入り混じっている。
半開きだった滝野の口が、少し経ってにんまりと弧を描く。
「当ったり前や」
拳でどんと自分の胸を叩き、滝野は少女に宣言した。
「男子顔負けのエースにしたる。ふたりでリトルのテッペン獲ろうや」
「いえ、あの、そこまでは別に……というか、暇潰しじゃないんですか?」
「やるからには全力投球や。そっちのほうが大抵楽しい!」
鼻息も荒く未来を語る滝野に少女はまたぞろ噴き出した。
「ですね」
境内と路道を結ぶ石段をふたり並んでゆっくりと下る。
長い段差の中腹で少女が思い出したように質問をした。
「ところで、あの、もうひとついいですか?」
「ひとつと言わずなんぼでもええで」
「お姉さんはなんて言うんですか?」
「うん? 何が」
「あの、お名前」
言われて自己紹介がまだだったことにようやく思い至る。二段分先に下りて振り向くと、ちょうど目線の高さが重なった。
「人に訊く前に自分が名乗れって映画とかで見たことあらへん?」
「あっ。すみません、私は」
「冗談冗談。アタシの名前は大前滝野」
立てた親指で自身の胸元を差し、滝野は口角を上げる。
「女子野球元五輪代表にして、今はただの美人過ぎるプーや」
淡い月明りが街を包む夜、滝野は少女――浦辺青と出会った。




