第9話 幽世という世界
障子の隙間から漏れる陽射しで意識が浮上する。畳独特の匂いに、ふかふかなお布団が心地よい。
寝返りを打とうとしたら、身動きが取れないことに気付く。
(ん? 狭い?)
身じろぎすると体を拘束していた何かが緩み、その隙に寝返りを打つことに成功する。満足した矢先、鼻先が何か壁にぶつかった。
そこで私は重い瞼を開いた。
(ん……。こんなところに壁なんてあった?)
「おはよう、小晴」
「!??」
すぐ傍にいる偉丈夫のご尊顔を前に、硬直した。
長い白紫色の髪が銀色に煌めき、長い睫毛、少し寝ぼけた顔だけでも直視しづらいのに、シルクの白い浴衣が少しはだけて鎖骨が見えるという、色香全開の紫苑さんが隣にいたのだ。
「ひゅっ」
数十秒、たっぷり固まったのち私は瞼を閉じた。
(あ、これも夢……)
「小晴? 寝てしまうのか?」
「……夢じゃない」
「もちろん。こんな幸福が夢であっては困る。それとも小晴は夢だったほうがよかったのかい?」
「……それは」
少し寂しそうな顔をする紫苑さんの顔に手を伸ばす。頬に触れてみるが少し冷たいが本物のようだ。残念ながら。
紫苑さんは嬉しそうに私の手にすり寄る。それは動物が好いている時に見せる仕草に似ていて、ちょっと可愛いと不覚にも思ってしまった。
「やっぱり……夢じゃない?」
「そうだよ。昨日の出来事も夢ではない」
「昨日……。あっ!」
不意に自分の家と店が火事になったことを思い出す。
慌てて起き上がろうとしたが、紫苑さんに羽交い締め、腕の中に囚われているので起き上がれなかった。
というか、どうして一緒に寝ているのかも、まったくわからない。わからないことだらけだ。
どこからが夢で、どこからが現実なのか。
「紫苑さんっ、私……」
「落ち着いて。もう少ししたら朝餉を左近が持ってくる。その時に順序よく説明するだろう、左近が」
「(左近さんに丸投げ!?)……紫苑さんがするんじゃないのですね」
「私はそちらの世界の世情には疎い。でも大丈夫、全部良いように片付けてしまうから」
(そちらの世界……)
何となく感じていた。
昨日の一件で、現実と夢の境界線が私の中でゴチャゴチャになっている。けれど確実に言えるのは、紫苑さんが人とは異なる存在だということだろうか。
浮世離れした雰囲気に、独特な口調。
人外の美しさ。
(私はそんなものに囚われてしまった?)
「不安そうな顔も可愛いけど、やはり笑顔のほうがもっといい」
「えっと、根本的なことを伺いますが」
「なんだい?」
「ここはどこでしょう?」
「幽世と呼ばれる、『あの世とこの世の狭間』と言えば小晴には何となく分かるかな?」
紫苑さんは自分でも説明が苦手なのか端的に答える。その時に、長い髪が蛇のように揺らぎ、ヘニャリとしているのが見えた。
もしかして感情で髪が揺らぐのだろうか。長い髪は私の腕に絡みついているようにも見えなくない。
「何となく……は。ちなみに私は死んでいませんよね?」
「もちろん。そうしたら私と一緒になれないだろう。それでは困るし、泣いてしまう」
「一緒……」
ものすごく不穏当なワードに踏み込むべきか、なあなあで誤魔化すべきか。
悩む私に紫苑さんは抱き寄せた。それはお気に入りの抱き枕をギュッとするような感じで、丁寧に扱ってくれるのがわかるが、距離感がおかしい。
(いろいろあったとはいっても、この距離感はどう考えても、恋人あるいは夫婦の──)
「そう、一緒。改めて、これからよろしく。私の婚約者、いや……未来の花嫁」
「え」
ジッと見つめる青紫色の瞳が、私を捕らえて放さない。
そもそもなぜ同じ布団の中にいるのかとか、嵌められたのでしょうか。人外であるアヤカシや神様は気に入った者を連れ去るなどの行為を得意とする。
そんなことを祖父が話してくれたことがあった。あれはもしかすると私のことを考えて、注意するように言ったのかもしれない。
(いやでも、ちょっと待って、婚約? 未来の花嫁!?)
「小晴?」
色香たっぷりに言われても、そう簡単に言えるセリフではないのですが、この人は期待の眼差しを向けてくる。
眩しすぎて眼中が潰れそうなのですが。新しい精神攻撃か何かですか。
「……急な展開に困惑しています。え、ええっと、まずどうして私なのでしょう?」
「小晴に惚れたから。傍にいたい。伴侶になって欲しい」
「……紫苑さんは何者なのですか? ただの人ではないですよね……。浮いていましたし」
この抱きしめられているのに恋人のような甘い雰囲気というよりかは、小さな子供が甘えているような純粋というか無垢さがあるからだろうか。
「概念的に言えば土地神の一柱であり、理、あるいは霊脈そのものに近しい存在の一つだろう」
「神様ということですか?」
「そう。別段珍しくもない。どこにでも居る」
「珍しくない。……ナルホド?」
それからいくつか紫苑さんと話してみたが、何というか概念そのものが難しいので頭に上手く入ってこない。とりあえず生贄にされたとか、無茶苦茶な要求をしてくる気配はないので少し安心した。
「お館様、少々よろしいでしょうか」
「入れ」
緑髪の眼鏡を掛けた男が襖を開けて姿を見せた。
彼は紫苑さんのボディーガードと思っていたが、どうやら違うようだ。私は布団から抜け出して畳に正座する。
紫苑さんは当たり前のように私の隣に胡座をかいた。
「改めましてお館様の側近を務めております、左近と申します」
「ご丁寧にどうも。……私は」
「柳沢小晴様ですよね、お館様から伺っております。……隣の部屋に食事を用意しておりますので、どうぞこちらへ」
「小晴。私が抱えて運んであげよう」
「あ、いえ。結構です」




