第8話 私を助けるのは
物理法則を無視した燃え方に、背筋が凍り付いた。
ゾッとする炎の色に全身鳥肌がたった。
ふいに祖父の言葉が過る。
『小晴、お前は摩訶不思議なものを引き寄せる希有な生まれだそうだ。だから、この家から出てはいけないし、この町に居れば安全だろう。この町には──様がいるのだから』
昔、似たようなことがあった気がする。
その時、どうやって助かったのか覚えていないけれど、あれが普通の炎とは違うのだけは分かった。
部屋のドアを燃やして部屋に広がろうとするが、炎の勢いが急に弱まったように見えた。それは生物が、天敵を見つけて反応しているようにも見える。
(何かを警戒している?)
入り口付近に何かあったのか見渡すと、机の上に祖父の書いた和紙の束が目に入った。
慌てて机の上にある紙束の一枚を炎に向かって投げた。普通の紙ならただ燃えて消えるだけだが、幾何学模様が書かれた紙は、淡い光りを放って黒々とした炎の一部を消し去った。
普通ならあり得ない。しかし祖父の書いた紙が有効だというのは事実だ。
(やっぱり、普通の炎じゃない!)
このまま炎を牽制しつつ、窓を開けて逃げる。
(二階の傍には桜の木があるから、それをつたって降りれば……)
紙束を何枚か炎に向かって投げつつ、窓を開けて勢いよく身を乗り出した──が、桜の枝を去年の春に伐採して短くなっていたことを失念していた。
距離が足りず、浮遊感のあとで体は落下する。
(落ちるっ!)
痛みに備えて両手で頭を抱えて目を瞑った。
──が、痛みはなかった。
「小晴」
「!?」
固い地面にぶつかる前に、私を優しく抱きしめたのは紫苑さんだった。長い髪を靡かせ、白い法衣に身を包んだ彼は口元を綻ばせる。
「ああ、小晴。間に合ったようだ……!」
「──っ、しお」
私をぎゅうぎゅうに抱きしめて頬ずりする紫苑さんの美しさに、卒倒しそうだった。
「どうしてここに?」とか。
「浮遊しているのか?」とか。
「あれが何なのか?」とか。
そんな不安や疑問が吹き飛ぶほどの圧倒的な安心感。白檀の香りに、抱きしめられている温もりが、心地よい。
(紫苑さんっ)
思わず彼の裾をギュッと掴んでしまう。「はぁ」と身近な溜息が頬にかかる。「呆れられた!?」と慌てて顔を上げようとしたら、ぎゅっと紫苑さんは強く抱きしめて頬ずりしてくる。
「小晴が腕の中にいて……それだけでもどうにかなりそうなのに、裾を掴んでくるなんて可愛すぎる」
(怒った訳ではなく、喜んでいた!?)
「小晴、怖かったらもっと身を預けて」
「紫苑さん──って、それよりもほ、炎が!」
窓から怒り狂った青黒い炎が飛び出してくる。
炎の燃える音が広がり、轟々と赤い炎も混じって、普通の炎もまた家を焼いているようだった。
轟ッ!
(ああ……)
私の思い出のある家が奪われていくようで悲しくて、でも何もできないのが悔しくて、気付けば紫苑さんに抱きついて泣いていた
「小晴、泣かないで。大丈夫。すぐにアレは私が壊すから」
「本当……ぐすっ、ですか?」
「小晴の泣き顔も可愛い」
「…………」
どこかズレた発言をする紫苑さんだったが、私の涙を優しく拭ってくれた。
この緊張感ある空気が何というか台無しというか、危機が危機でない雰囲気に変わった。
絶体絶命から縁遠い空気。
轟々襲いかかってくる炎に、紫苑さんの視線が鋭くなる。
「――――――!!」
(なっ、声!? 悲鳴!?)
「邪魔だな」
紫苑さんが片手を翳した瞬間、青黒い炎が一瞬で吹き飛び、家に広がっていた炎も突風によって吹き飛んだ。
それと同時に屋根が宙を舞い、庭に転げ落ちる。
何とも強引で圧倒的な力に、私は一つの結論を導き出す。
(これは夢だ。うん、きっと……そうに違いない)
「小晴、無事だね」
「は、はい」
「よかった。これからは私がいるから怖いことなんて何も無いよ」
(怖いことなんて……ない? 寂しくも?)
視界が翳り、ふと顔を上げると唇が触れ合う。
とても甘くて身震いしてしまうほど心が震えた。
(え? ……あれ?)
安堵で体の力が抜けて、紫苑さんの温もりに身を任せた。
夢なのだから怖い夢よりも幸せな夢であってほしい。そう願うのは罰当たりではないはずだ。