第5話 白蛇神の側近、左近の視点
(悪手だった。いや、それよりも今はお館様のお心を鎮めなければ、この周辺一帯が焦土と化しかねない!)
この時代に気まぐれに目覚めた我らが主人は雪がぱらつく中、傘を差さずにふらふらと商店街外れの橋を歩いていた。
放心状態というのが近いだろうか。哀愁を漂わせる背中が何ともお労しい。
その後ろを付き人である右近と、左近が追いかける。外見的に目立つ三人だが、誰一人彼らを見て振り返りはしなかった。
人払いの札の効力だろう。
だがそれを彼女、小晴は看破していた。あの一族であれば当然ではあるが。
「それで、白蛇神様。これからどうされるのですか?」
「そうッスよ。あの場で正体を明かして、誤解を解けば良かったんじゃないッスか?」
「右近」
「だってよう」
「……可愛かった」
「「はい?」」
立ち止まった主人に対して、右近と左近は同時に足を止める。
聞き間違いだろうか。落ち込んでいると思っていたがどうやら違うようだ。何にも興味を持たれない方だったのに、今は目が輝いて、どこかうっとりと余韻に浸っている。
「初めて見せる顔が沢山ありすぎて、心臓が熱い。飴細工を作っている姿は透明感があって可愛いのに、近づけない気高さがある。話をして困った顔になったら抱きしめたくなるし、笑った顔は自分のものだと叫びたくなる。ああ泣きそうに怒る小晴の顔も実に愛い……」
「親方様が壊れた」
「恋は盲目と言いますが、こうなりますか……」
落ち込んでいたわけでもショックだった訳でもなく、わなわなと震えていたのは歓喜の感情だったようだ。主人は、ここでやっと自分が外にいることに驚く。
「小晴がいない」
「そりゃあ、追い出されましたから」
「もっと一緒に居たかった……。この布も彼女に返さなければ……」
ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。甘い砂糖に香りは彼女と同じだったと感じたのか主人は嬉しそうに微笑んだ。
「…………やっぱり布も返したくない。……今から戻って小晴を抱きしめたい」
主人の願いならば叶えて差し上げたいが、物事には順序というものがある。そして見事に地雷を踏み抜いた以上、これ以上の悪手は何としても避けなければならない。
「でしたら、まずは外堀をしっかりと埋めてから、改めて求婚するのはいかがでしょうか?」
「……追い出したのには、何か理由があるということか」
「はい」
眼鏡の縁を上げて左近は答えた。店番をしている傍らで小晴のことを調べていた、というか元々あの店のことで主人に意見を仰ごうと思っていたのだ。
彼女は白金家に代々菓子を上納していた一族の末裔であり、白金家が優遇として庇護下に置いていた。だが二代目と三代目の間で継承が滞り、正式な契約を結ばずどこでどう話が拗れたのか、よりにもよって土蜘蛛一族が手を伸ばそうとしているとは迂闊意外でもない。
可及的速やかに改善せねば、と懐からタブレットを取り出す。
「おまっ、どこから出した」
「調べた所、あの店を解体してホテルにしたいと考える、グループ会社が絡んでいるかと」
「おい、無視かよ」
「四代目が店を切り盛りしていたらしいですが、ホテル経営者が資金援助をちらつかせて引き抜いたとか。小晴様の先ほどの反応を見たところ、恐らく我々を地上げ屋の雇い主だと勘違いしたのでしょう。……アタッシュケースも今考えれば、店を手放す前金だと勘繰った可能性もあります。ここは茶封筒に入れて渡すべきでした」
「あー、そっか! 人間は大金を見知らぬ人間から貰ったら、警戒するもんな! 俺だって何だ? って思うッスからね!」
主人は「人間はそういうものか」と呟きながらも、小春の拒絶に対して悲観も、絶望もしていなかった。それは今まで主人が見てきた人間の反応とは異なるからだろう。
今にも泣きたくなるような顔をして、酷く辛そうな、裏切られた顔をしていた。それはつまり主人に少なからず好意があったから──そう主人も考えに至ったのだろう。
「小晴と私の仲を阻むものは、許さない」
主人の陰が揺らいだ刹那、その場に積もっていた雪が一瞬で蒸発する。真っ白な湯気が橋の上を包み、地面が揺らぎ始めた。
これは不味い。幽世ならいざ知らず、現世ではどのような影響が出るか分からないのだ。
「お館様、力を抑えて下さい。できるだけ早く、小晴様に会いたいのでしょう! そのための準備を至急行います!」
「そうッスよ。勘違いさせていたのなら、迷惑な連中をやっつけてから、誤解を解くっスよ!」
自分たちの声に、主人は平静を取り戻したのか、小さくと息を吐いた。
「……そうだな。左近、策はあるか。私はこの世界に対して勝手が分からない」
「ハッ。……物理的破壊をされるのはよくないでしょうから、ここは先ほど申し上げたとおり、外堀を受けてからに致しましょう。ひとまず、放っておいた口座から必要な代金を引き下ろしても?」
「好きにするといい」
「それともう一度正式にプロポーズなさるのでしたら、お館様が、小晴様に贈り物をなさってはいかがでしょうか?」
「贈り物……。そうだな、こんなに感情が動いたのは数千年ぶりだったので、うっかりしていた。……小晴が喜ぶものを取り揃えなければな」
主人は未来の伴侶のことを思い浮かべ、蕩けた笑みを零す。
それがあまりにも妖艶でただの人間であれば、それだけで即堕ちするような魔性を帯びていることを、つゆほども気付いていなかった。