【短編】乾杯
「あーだるい……」
夏は嫌いだ。気温が高いだけでなく、最近は日差しの強さもなんだかおかしい気がする。暑いというか、そうだ、これはむしろ痛い。湿度も高い日本では、何かがとり憑いているのではないかと思いたくなるくらいに身体が重い。
体育という強制運動時間があった学生の頃ならまだしも、普段は管理された空調の中椅子に座って画面を見つめるだけの作業をしている三十路には、年々と夏という季節が億劫になっていた。
「ダメだ、少し休もう」
久しぶりに確保できた午後休だったが、如何せん一番日差しがきつい時間帯だ。日陰もないアスファルトの道を数十分歩いただけで瀕死の状態。気分が高まり歩いて帰ろうと思った過去の自分に悪態をつきながら、ちょうど近くにあったビルの狭間にある小さな公園へと足を向けた。
自販機で大好きな炭酸ジュースを買い、木陰のベンチへと腰掛けると足を投げ出し手で顔を扇いでみる。もちろん、ぬるい空気が動いただけで涼しさなんて感じない。
けれど、これはもう反射に近い行動だ。
缶を開けると炭酸の弾ける音が耳に心地よく、口に含めば一瞬でもこの暑さを忘れさせてくれる。
「っあー……生き返る……」
口に残る冷たさと甘さに感謝しながら、日差しが遮断されたことにより少しだけ涼しく感じられる空気を堪能する。
缶に口をつけながら、帰宅に向けてのルートを頭の中で展開させる。電車が分かりやすいが最寄り駅は少し距離があり、バスは普段利用しないので時間から確認しなければいけない。
だがしかし、今日はせっかくの半日休みなのだから、普段行けないお店や晩酌の買い物などもしたい気がする。
そんなことを考えながら目を閉じていると、ふとこの暑さにそぐわない花のような、少し甘いが爽やかさを感じられる香りが鼻をよぎった。
「――隣、良いでしょうか」
白いワンピースを着た、女性だった。
急に話しかけられたせいなのか、その姿に魅入ったのか、今となってはその理由はわからない。ただ、その返事をするのに呼吸三回分ほどの時間を要したのは間違いないだろう。
「あ……は、あ、すみません、どうぞ」
我ながらとても間抜けな返答だったと思う。けれど、その女性はふわりとほほ笑み、軽く会釈をしてベンチの端に腰かけてきた。
暑そうに手を顔の前でぱたつかせながら、汗で頬についた髪を払う。息をゆっくり吐くと、背もたれに体重を預けると女性は目を閉じた。
――この人も休憩、といったところだろうか。
声をかける勇気もタイミングもなく、缶を気まずそうに口に運ぶ。なんとなくだが、ここで立ち去ってしまうと女性は自分が追い払ってしまったと感じてしまいそうで、立ち去ることもできないまま。
「――…あっちー」
蝉さえまだ鳴いていないというのに、この暑さでいいのか。道行く人たちが暑そうに顔をぬぐい、背広を着ている人なんて哀れみさえ感じてしまう。
――きっと、明日はもっと暑いし明後日はさらに暑い。夏なんてそんなもんだ。
そんなことをぼんやり考えていると、少し困ったような声が横から飛んできた。
「……今年、すごく暑いですよね」
顔を向けると、女性が優しそうに微笑んでこちらを見ていた。おそらく考えていたことが顔に出てしまっていたのだろう。
「そ、そうですね……。すごい暑くて、ここで涼んでたんです」
「すみません、急に隣に座ってしまって」
「いえ、むしろ声かけてもらうまで気づけなくてすみません……」
完全にベンチを独占してしまっていたことにようやく気付き、ぺこりと頭を下げる。女性は微笑んで首を振り、気にしないでくださいと優しく言ってくれた。
「――あ、じゃあ俺会社に戻らないとなんで……」
嘘だ。だって帰宅する途中だったのだから。
でも、女性にそんなことは関係ないわけで。うまく立ち去る理由になったと思いながら、会釈をして立ち上がる。女性も会釈を返してくれたが、そのあとは目を閉じて涼みに集中しているようだった。
相変わらず強い日差しだが、座る前より楽になっている気がする。残っていたジュースはすっかり炭酸が抜けてぬるくなっていたが、それさえも気にならないほど気持ちが軽くなっていた。
「……歩いて帰ろ」
ちょろいなんてもんじゃないが、悪くない出会いに今夜は乾杯しよう。