湿地魔境1
「――着きました。貴方は此処から旅立つこととなります」
食事を終えたベリアスは「扉」へと案内された。
――背に冷汗が伝う。昨夜みた夢の光景が脳裏に浮かんだ。まさか正夢になろうとは、あのときの嫌な予感は正しかったのだ。
アウローラが「扉」と呼んだのは小さな泉であった。中央が黄金色に発光している。炎こそ無いものの、夢の光景と概ね同じである。
「……ここに潜るのか?」
「いいえ、能動的に潜る必要はありません。貴方は扉まで歩くだけで良いのです」
アウローラに促され、泉へと入る。歩くだけで良い、などと簡単に言うが、暗く底の見えない泉を進む行為は不安でしかない。一歩、また一歩と進む度、靴の裏にある砂の感触に安堵する。水嵩は腰を超え、今や胸あたりになっていた。そろそろ中央かと思われたその刹那――
地面の感触が無くなった。成程、確かに能動的に潜る必要は無い。下に向かって水流が出来ているらしく、放っておいても身体が勝手に沈んでいく。しかし、あまりに唐突だ。まだ、息も吸い込んでいない。
(溺れる………!!!)
身体を浮かせようと試みたが無駄であった。
(息が……な……!)
筋肉が弛緩する。意識が遠のき、やがて眼前に闇が広がった。
――火の爆ぜる音。冷たい風に混じって、泥の匂いがする。近くに人の気配を感じ、ゆっくりと目を開けた。
十五、六と見える少女が此方の顔を覗き込んでいる。艶やかな長い黒髪、血色の良い頬、黒みがかった紫の瞳。美人と言って差し支えない少女が、べリタスに微笑みかける。
「よかった、目が覚めたのか」
耳を疑った。少女の声とは間違えようのない低さ。――男の声である。
「具合はどうだ? どっか痛むとこは無いか?」
「あ、ああ大丈夫だ。アンタが助けてくれたのか?」
「おう!」
「そうか……助かった」
「いいって、いいって」
少年は人懐っこい笑みを浮かべる。ふと、懐かしさを感じたのは何故だろうか。
「いやー、驚いたぜ。舟を漕いでたら川の近くに人が倒れてるんだから」
目の前の男が、まさか自分を少女と勘違いしたなどと言う事実を知らぬ少年は、そのまま話を続けた。
「しっかし、倒れる場所が悪かったな。あの辺は特に湿ってるからよ。」
言われてみれば、髪も服も軽く湿っている。溺れて以降の記憶はないが、無事に扉を通り抜けたられたのだろうか。べリタスは辺りを見渡した。
背の高い植物も建物も無く、視界を遮るものは何も無い。地には草原のように短い草が生えているが、多量の水分を含んでおり湿っている。どうやらこの辺りは湿地帯らしい。今は草で簡単に編まれた敷物の上に座っている為、水が染みてこないようだ。
不意に寒風が吹き付けた。開けた場所であり視界も良いが、その分、風を遮るもの無い。寒さに身を竦めていると、べリタスは己の服装に違和感を覚える。
「ん……? 上着が……」
「ああ、濡れてたんで干しといたぜ。もう乾いてんだろ。」
焚き火の傍に、木で組んだ簡素な物干し竿がある。少年が掛けられていた上着を此方に寄越した。
「ほらよ」
「ああ、ありがとな。……それで此処は何処なんだ?」
「ロライゼ湿原だよ。お前、川の近くで倒れてたんだ。覚えてないか?」
べリタスは左右に首を振った。
「…そっかぁ……まだ意識が朦朧としてんのかね。他のことは思い出せるか? 自分の名前とか住んでた場所とかさ」
「それは大丈夫だ」
「ん、なら良かった」
少年が此方に優しい笑みを向ける。労る気持ちが心に染みた。
「……ありがとうよ」
「いいってば。礼ばっか言われんの恥ずかしいし」
べリタスは軽く笑った。
「ところで、アンタは此処で何してるんだ?」
「薬草を集めてたんだよ」
「ほう……湿原でか?」
「集めるつっても陸じゃないぞ。陸にも良いのはあるけどさ」
少年がくいと顎をしゃくる。
「水の中か。」
「そ。この湿原の水草は良い薬になるらしいんだ。だから、全種類集めて記録しとこうと思ってさ。結構な間、此処に居るんだ。」
白い歯を見せ、少年が笑う。
「そういやまだ名乗ってなかったな。おれはシュテン、薬師をやってる。お前は?」
「べリタスだ。俺は……まあ、便利屋みたいなことをしてた」
「へえ……」
再び風が吹き付ける。焚き火が風に揺れ、小さく爆ぜた。
「べリタス、歩けるか?」
「問題ない」
「よしっ。じゃあついてこい!」
「何処に行くんだ?」
「おれの家だよ。身体、冷えてんだろ。何かあったかいモンでも食わせてやるよ」
早速、歩き出すシュテン。泥濘に足をとられながら案内されたのは、湿原を縦断する長い川であった。此処からは舟で移動するらしい。べリタスが舟に乗り込むと、シュテンは力強く舟を漕ぎ出した。
先程までの曇天は幻であったか。カラリ晴れた湿原にふわりと風が吹く。日光を受けた植物たちは活き活きと輝き、その間から小動物たちが顔を覗かせていた。
「いい景色だな」
「おっ、そうだろそうだろ。おれ、此処での暮らし結構気に入ってんだ」
「アンタ、此処で暮らしてるのか」
「おう」
「独りでか」
「おう! 此処には俺しか居ねえしな。こんなに景色良いんだし、誰か来ても良いのになあ。まあ辺鄙なとこだし難しいんだろうけど」
にっとシュテンが笑う。
「……寂しくはないのか。」
「――おれは何処にいても寂しいよ」
「え?」
「いいや、薬草採るのに夢中だから気にならねー」
「そうか……」
一瞬見えた寂しげな表情は何だったのだろうか。笑うシュテンに寂寞感を覚えながら、再び湿原の風景に目を向ける。
「ん? あれは……」
「おっ、気付いたか」
左前方、川から少々離れた場所に木造りの家が見える。柱によって床が高くなっており、通気性にも配慮されているようだ。湿原ならではの建て方と言える。
「あれがアンタの家か」
「おう! もともと此処に建ってたのを再利用したんだ。前に誰か住んでたのかね」
舟が川縁に接舷する。
「ほら、こっちだ」
舟から降りたべリタスは、シュテンに案内されるまま再び泥濘を進む。漸く家に着いたかと思ったのも束の間――
「おい、随分傷んでるな」
遠目には分からなかったが、近くで見るとかなり傷が目立つ。獣、かなり大型のものの爪痕だ。
「な、なんでこんなことになってんだ?」
隣に立つシュテンは青ざめていたが、慌てて家に駆け込んでいった。その後をべリタスも追う。
――中は外より酷かった。食卓には外同様に獣の爪痕。寝台の布はズタズタに引き裂かれ、調理台にはこれでもかと道具が散らばっていた。
「ああああああ!! おれの薬がああああ!」
悲鳴をあげたシュテンの前には、これまた派手に荒らされた薬棚がある。薬瓶は全て割られ、採集した薬草が床に散らかっている。
「あ……ああ……折角集めったってのに……」
「ひでえな……」
この家は、全てが荒らされている。恐らく人の仕業ではないだろう。
「なあ、シュテン。この辺りには大型の獣でも居るのか」
悔し涙を浮かべるシュテンに問う。
「……大型の獣? 見たことねえ。いてもせいぜい
ヌーくらいだろうよ」
「ヌーは違うだろうが……そうか、見たことないか」
「なんだ? なんか分かったのか?」
「いや……結構な大きさの爪痕が残ってるからな。もしかしたら獣でも入ってきたのかと思ってな」
「この辺にはそんなの居ないと思うけどさ……今まで1度もこんなこと無かったし」
だが、とシュテンは続ける。
「気になるな。もし居るんなら早いとこ捕まえねえと。片付けてもまた荒らされたんじゃ堪らねえ」
「俺も手伝うぜ。夜になる前に見つけないとな」
「ああ。助かる」
斯くして、湿原に隠れ潜む獣を探し出すこととなった。図らずもこれがべリタスの状況を動かす転機となる。