第7話 水内泉
20X4年9月1日
夏休みが明け、新学期に入った初日の朝。まだ人はまばらな教室の最後尾の席で、蔵人は隣の席の見目麗しい蒼い髪で優しげな眼差しの少女と話していた。少女の名は水内泉。
先に教室に入ったのは蔵人、高校1年生であるが生徒会書記を務めており、新学期始めの生徒会の雑事で早く登校していた。泉はコンピューター研究会(校内ではコンピ研と呼ばれている)の朝練が終わって教室に入ってきた。というわけで、1時限の授業開始ギリギリに教室に入ってくる大半の生徒より2人とも早く教室に入っている。
「新学期入ったばっかりなのに朝練か、コンピ研も熱心だな」
「もうすぐブラックハットだからね、3年の田所部長にとってはコンピ研として出るのは最後だから気合い入ってるみたい」と泉はいつもの優しい笑顔。
ブラックハットとはハッカーの世界大会である。田所部長は世界レベルの凄腕ハッカーなのだが、今年は他に部員のいなかったコンピ研に超高校生級ハッカーである泉が入学してきた。団体の部での優勝を狙って部長が熱くなるのも当然かと蔵人は納得しながら黙って頷く。
「そういえば田所部長、さっきも蔵人くんに部室にいつでも遊びに来てどうぞって言っといてだって。蔵人くんは部長のお気に入りだからね。数学オリンピックも終わったんだし入部しちゃえば?」
「正式な部員になるとめんどいことも多くなるからな。まぁ、田所先輩のお手製のレモンティーは美味いから、たまには行きますって言っといてくれ」と蔵人は軽口を叩く。
蔵人は正式なコンピ研の部員ではないのだが、頭の回転の速い田所先輩と話すのが好きで、蔵人は夏休みになるまでは、しょっちゅう放課後にコンピ研の部室へ遊びに行っていた。数学オリンピックの準備や正式な部員でないという遠慮から夏休み期間はコンピ研の部室から足が遠のいていたのだが。
「それより俺の席の横に机が1つあるんだが、こんな席なかったよな」と蔵人は話を変える。
「それ転校生よ。さっきコンピ研の部室の鍵を返すために職員室にいったんだけど、びっくりするくらい綺麗な女の子がいたわ」
蔵人の知る限り泉は校内でもNo1の容姿と評判されている。そんな泉がびっくりするくらい綺麗というのは、あり得るのかと蔵人は考えたが全く違う角度から返答をした。
「政界あるいは財界の超有力者の子どもだろうな」
「え? え?? 蔵人くん、私の話を聞いてた?」
「俺たちは半年前に入試を終えて入学したばかりだ。この秋葉原学園高校は全国でもトップの私立進学校であり、日本屈指の名門校とも言われている。簡単に転校を認めては入試が無意味なものとなるし、ひいて正当性が疑われる。あの小鳥遊豪剣理事長が、そんなことを通常は認めるはずがない。だが、政界や財界のかなりの大物からの依頼とあれば、むしろ学園の利益になる。その場合のみ唯一の例外となる。あの理事長の考えをデータベースから推測したら、こんなとこだろ」
「なるほど。さすが蔵人くんね。たしかにそうだわ。小鳥遊の狸親父だったら、やりそうよ。さすがスパコンを上回るスーパー人色コンピューターね」
言った瞬間、泉は自分の失言に気づいた。スーパー人色コンピュータは蔵人の父ジンが2人零和有限確定完全情報ゲームの全種目でスーパーコンピューターに完全勝利直後にマスコミがつけたニックネームであった。だがジンが失踪した今そのニックネームを用いることは蔵人にジンのことを思い出させることになる。
泉は自分の失言に気づかい、空気が微妙になるのを避けるためにフォローを……する必要はなかった。蔵人は泉の目の輝きの変化と呼吸の速度から瞬時に失言を後悔しているとの心情を読み取り、泉に無用な気づかいをさせないために先手を打って全く異なる話題へ転換して空気を変えた。
「意外だな。泉、お前が知らない情報もあるんだな? 日本政府の防衛軍サイバー部隊のHPをのっとりThis video has been deletedの灰色画面に書き換えて全く尻尾をつまかせなかったスーパーハカーのDr.Iなら学園の機密情報なんて余裕でハッキングしてるかと思っていたが」
Dr.Iと言われている世界最強のハッカーは水内泉のことであった。だが世界でそれを知るのは蔵人のみ。泉がうっかり施錠を忘れてコンピ研でハッキングしていたときにコンピ研を偶然訪れたことから蔵人は知ることになった。蔵人はそれを秘密にする、泉も蔵人を100%信じている。2人は恋人どうしではない、それより深い絆、2人は契約をしていたからである。泉は日本の国防軍サイバー部隊についてはHP書き換えのみであったが、米国国防総省やロシア国防軍からは最高機密情報をハッキングして、その情報をDr.Iの名義でワシントンポストとニューヨークタイムズのHPを書き換える形で流布し世界を震撼させた。Dr.Iのハッキング技術の高さも震撼の理由であったが、その情報が、国連で禁止事項として決議された生物化学兵器の開発についてのものというものだったというのがもっと大きな震撼の理由である。米国政府もロシア政府も、火消しすべく即座に事実を認め大統領自ら謝罪会見を行った。それは皮肉にもDr.Iの名声を高めることとなった。
「もーう、私は善意のハッカーなんだから、スーパーハカーなんて馬鹿にしたいい方じゃなくて、せめてスーパーハッカーて言ってよねバカ。それに私はサイバー部隊の書き換えで尻尾を全くつかまれていないわけじゃないわ。
この前、内閣安全保障室にハックかけたら、犯人はルクセンブルクを経由して日本からあるいは、ルクセンブルクを経由して日本以外の国からハッキングを行ったって報告書があったわよ」
泉は蔵人が空気を変えるため、わざとぞんざいな言い方をしていることに気づき、そんな気づかいに感謝しつつ、その気づかいを無駄にしない為にも、ぞんざいに冗談をふくめて言い返した。
そんなのルクセンブルク経由しか分かってないから、全く特定されてないだろという蔵人のツッコミをいれる暇を与えず泉はさらに続ける。
「それに私は世の中に価値のある機密情報しかハックしないわ。うちの学園の機密情報なんて生徒のプライバシーデータと試験情報みたいなつまんないのばっか。そんなの全く興味ないわ。そんなことより政界や財界の大物の子どもって誰だろう。工藤総理の息子の工藤健人、経団連トップの二神の双子の娘の時雨と雫が私たちと同じ年ってことくらいは住民基本ネットワークにハックして把握して分かっているわ」
「二神の双子か……」
蔵人は泉から時雨の名前が出たよりは、自分と同年齢だということに驚いた。しっかりした顔だちとエラそうな物言いから1つか2つ年上だと思いこんでいたことからである。そして何よりも、この学園に転校してくる可能性があることに。
「まさかな……」
「ん? 蔵人くん? どうしたの」
不思議そうに尋ねる泉に蔵人は慌てて話題を変える。政界や財界の大物なんていっぱいいるのだから、杞憂をしても意味がないと考えて。
「最近ハックで新ネタとかはないのか?」
「よくぞ聞いてくれましたっ!」
泉の目が輝く。
「CIAにハックかけてゲットした新ネタあるわよ。今度、《HYPER CUBE》の世界大会あるでしょ。優勝賞金が3億円だけど、世界中で予選会をやるから、数十億の費用がかかるのよ。それだけの額を出してるスポンサーとされている会社、あれただのわら人形よ。本当の出資者は、T&W財団よ。財団の総帥も分かった。水鏡恭一郎よ。《HYPER CUBE》を出してるゲーム会社イリュージョン・アーツ株式会社の代表執行役の。《HYPER CUBE》は大人気だけど完全無課金で、どうして広告以外で収益を上げようとしないかみんな不思議がってきたわ。世界大会の様子は無料でのネット配信を無制限に許可して、放映権料を一切放棄してきたし。さらに今回もスポンサーになってたら入ってくる大きなお金も入ってこないじゃない。びっくりしちゃったわ」
泉は蔵人の顔つきが変わったのに気づいた。真剣な顔、泉のもたらした情報を元に高度の物理演算が蔵人の脳で行われている。
「T&W財団だって……そしてまた水鏡……そうか、ようやく繋がった……ありがとな」
◇
蔵人に突然感謝の気持ちを伝えられ、泉は回想する。DrIとしての泉のハッキング現場を蔵人に見られたあのとき。うっかり無施錠でハッキングしていたとき、コンピ研の部室に蔵人がたまたま遊びに来て目撃されてしまった。泉は焦った。自分の1番の秘密をクラスメートに見られたから当然である。この秘密がマスコミに晒されては自分は社会的に抹殺されるだろう。蔵人は馬鹿ではない。むしろ連続で数学オリンピックで個人優勝し続けている希有な俊才である。考えていることを予測することはできない。そのことが焦るに拍車をかけた。ハッキングに気づき全てを察した蔵人が
『契約をしたい』
そう言った瞬間。泉は身構えた。10代の体力旺盛な少年が口止め料として要求するもの……その要求に応じるわけにはいかない。その刹那、全く予想しない言葉が蔵人からもたらされた。
『俺の父親、人色ジンは地球外生命体危険種ビグースにさらわれた。そのとき俺は一緒にいて、ビグースに左目を奪われた。俺がこの黒い眼帯をしている本当の理由はそれだ。だがこの話は誰にも信じてもらえず、俺は信じてもらうことを諦めた。政府はビグースの情報を隠蔽している。マスコミも記者クラブへの圧力でこれを報道できず、さらに世界レベルでビグースについてのネット検閲が行われている。異常なことだ。俺はお前の秘密は絶対誰にも言わない。だが、お前にも協力して欲しい。ジンの行方を探って欲しい。そしてビグースの正体を調べて欲しい』。
契約成立であった。泉にとって、ハッキングを行うだけならは容易いものだったから。ピグースについての調査は、驚くべきものだった。ビグースというのは、人外の地球外からやってきた危険種である。この危険種にネット検閲をすり抜けた者たちはピグースという名称を与えていたが、先進国首脳たちは別の名称を与えていた。
Darker Than Crimson Red。先進国首脳たちはピグースをそう呼んでいた。
ピグースは世界中で有能な人材を連れ去る際に、必ず周りの者に重傷を負わせていた。その事件現場の残酷な血の色、まさしくDarker Than Crimson Red。蔵人が左眼を失わさせられたのも例外ではなかったというわけである。
また、ピグース=Darker Than Crimson Redは、数匹でネバダ砂漠駐留の米軍の1師団を壊滅させたこと、ロシアの地方都市を壊滅させ投入されたロシア国防軍の1師団が壊滅されたこと、これらの情報を米国、ロシア、日本、ドイツ、イギリスといった先進国の政府は把握していた。だが、どの国の国防軍も対処できないのでは、世界中の人間の不安を煽ることになるとして、先進国首脳は、この情報を完全に隠蔽するという秘密条約を締結した。また、ピグースが世界中の特に有能な人物をさらうとの事件が世界各地で起こった。だが、前述の条約に従って、各国政府はさらわれた者を失踪者として処理した。首相官邸の最重要機密にあるビグースにさらわれた者のリストに人色ジンの名前を、泉は見つけ蔵人に報告した。
『よくやってくれた。十分やってくれた。期待してた以上の働きだ。泉、おまえの契約上の義務は全て履行された、債務は消滅した。あとは俺が秘密を守り続けるだけだ。この義務を俺は生涯にわたって絶対に履行し続ける。今後お前の秘密があばかれそうになったとき、俺はそいつらを全力でぶっとばすから』。
蔵人がそう言ってくれたが、泉は調査を続けた。彼女の正義感が調査をやめることを許さなかったから。先進国の国防軍が多額の開発費を出して対ビグースの兵器を開発していること、そんな中、私人が同様の開発をしていることを泉はつきとめた。その私人はT&W財団。T&W財団の正体は不明。ここまでが、蔵人に債務の履行による消滅を告げられても、それを拒んで調査して泉が蔵人に報告した結果であった。そして、今回の新たな報告、いま蔵人に『ありがとな』と言われた瞬間、泉は今まで経験したことのない胸の疼きを感じた。
この感情はなに? 蔵人くんは私の契約者、それに契約が終わりと言われても私が調査を続けたのは、正義感からだけだ。蔵人くんのためなんかじゃないんだからね。なのにこんな気持ちって……。
◇
「おい、泉、聞いてるのか」
蔵人から声をかけられて泉は回想から我にかえった。泉はめずらしく過度に赤面していた。なぜこんなに赤面しているか、さすがの蔵人もそこまでは分からなかった。
「え、え、聞いてたよ。繋がったんでしょ。繋がったっていえば、もちろん、あれよね、え、え? なんだっけ??」
「それはまで言ってない。なあ泉、CIAのIってどういう意味か知ってるか」
「Dr.IのIは泉ちゃんのIだけどね。あれでしょ。CIAは情報機関だからInformationつまり情報のIでしょ。あいつらの情報量って半端ないわよ」
「残念、不正解だ。これは、お前の弱点でもある。だから聞いて欲しい。CIAのIはIntelligenceつまり知力だ。彼らは情報を集めるだけでなく、それを徹底的に知性を使って分析する。その結論は俺の知る限り全てが最善手だ。ウォーターゲート事件、スノーデン事件と何度も組織解体の危機に陥りながらも、彼らはその度ごとにむしろ自らの力を強めてきた。奇跡といえるほどに。泉、お前は世界の誰より情報を収集できる力がある。だが、それは世界で1番情報の海で溺れるリスクがあるということでもある。俺はいつまでも、お前の側にいられるとは限らない。高校を卒業すれば、みんな進路は違うだろう。もし、お前が困った自体に陥ったとき、「知力を使って分析すること」このことを覚えていて欲しい」
蔵人は、いつになく饒舌、それに熱心であった。普段の泉なら、黙って蔵人の話を聞いていただろう。だが今は違う。ただでさえ蔵人を意識してしまう気持ちを抑えられず赤面しているのに、こんなに顔を近づけて真剣に話されては、もう限界である。
「分かったから、なにが繋がったか教えてよ」
照れ隠しにぞんざいに話題の転換を図る。
「いや、すまん。そうだったな。分かったんだよ。水鏡の目的が。《HYPER CUBE》の開発者である水鏡恭一郎。水鏡は《HYPER CUBE》による広告収入以外入のあらゆる収益を拒否してきた。広告収入も、世界中で楽しまれている大きなゲームのメンテとアプデなんだから収支はトントンと言われている。水鏡の目的は《HYPER CUBE》により金銭を獲得することにはない。むしろあれだけ派手な制作発表会見をしたり、世界大会を自らスポンサーとなってまで開催し、さらにその大会のネットでの無料配信を促している。つまり《HYPER CUBE》を広め、その有能なプレイヤーを集めることこそが水鏡の目的と考えていいだろう。これが俺の知性を使った分析だ。他方、T&W財団は、いや、これも主語は水鏡だな、水鏡は他のゲームで得た多額の費用を対危険種兵器開発に投じていた、これはお前が調べてくれた情報。泉、ここから知力を使って分析してみろ」
「え? え? 水鏡は《HYPER CUBE》の有能なプレイヤーを集めたいし、ビグースもやっつけたいわけでしょ。この2つの目的は、全く違うように思える。でも、私には蔵人くんが「繋がった」という結論を出したという情報を持っている。私は、この情報も分析する際の基礎データにできる。そういうことは……まさか……」
「そのまさかだよ、泉」
「《HYPER CUBE》の有能なプレイヤーは、ビグースを駆逐するスキルも持っているってこと……」
「そうだ! 《HYPER CUBE》は対ビグース殲滅スキル保持者を選別し訓練する装置、世界大会決勝にはそのスキル能力者が集められることになる。自らにそんなスキルがあるとは知らずにな。水鏡恭一郎やってくれるな」
「そ、そんな……」
そんなとき、教室の前のドアがガラガラと開き、教室は静まりかえる。蔵人と泉が話に夢中になっている間にクラスメートたちは全員登校し、担任の女教師が新学期はじめのホームルームのために入ってきていた。だがクラスメートの視線は全て女教師に向いていない。女教師に続いて入ってきた炎髪灼眼の転校生の女性のみに視線が集まっていた。その理由は好奇心ではなく、100人いれば100人が美人と言うであろう圧倒的な美貌をその転校生の少女が持っていたこと。それとは違う理由で、「やれやれだぜ」とのオーラを含んだ気怠い視線を送る者が約一名いたが。
「みなさん、おはようございます。早速ですが、転校生がいますので、自己紹介してもらいますね、お願いします。」
美貌の転校生は、教室中を睨みつけるように見回した後、自己紹介をした。
「聖凜学園高校から転校してきた二神時雨だ。《HYPER CUBE》の腕に覚えのある者は私の下へ集え。以上」