第16話 時雨と蔵人
渋谷駅前のスクランブル交差点から離れ、時雨と蔵人は懸命に道玄坂を走って上っていた。
「こっちに行こう」
先を行く時雨は、そう言って道玄坂を右折する。
「ダ、ダメだ!時雨、そっちは」
蔵人は叫ぶ。
時雨は立ち止まり、赤面する。
道を挟んで数十メートルにわたってラブホが立ち並ぶ。そこは、東京屈指のラブホ街だった。
「え? え? ……なんだここは……??」
お嬢様の時雨は当然、こんな所へ来たことがなく、戸惑う。
やがて、後ろから走ってきた蔵人が時雨へ追いついた。
その時。
ドドーーーーーーーーーン
蔵人は全力で時雨の背中を突き飛ばして、ラブホへ時雨を押し込む。
「ひゃん」
いきなり突き飛ばされて、なす術なく宙を舞いながら時雨が叫ぶ。
「な、なにをするんだ。バカ者」
時雨は顔を真っ赤にして抗議する。そして続ける。
「い、いきなり突き飛ばすなんて非常識じゃないか。べ、べ、別に、お、お前を嫌いだと言ってるわけじゃないぞ。そこは勘違いするなよ。こういうのはステップがあるって雫から聞いたことがある。まずは手をにぎる、次にキ、キスとかそういう……そういうのを全部省略して、いきなりこんなとこに連れ込むなんていうのはだな……」
時雨は抗議する。だが、いつもと違って、時雨の声は、とても小さい。そして、時雨は顔を真っ赤にして終始、困った顔で下を向き、蔵人と目をあわせずにそんな抗議を続ける。
「時雨……」
蔵人は時雨の肩に手を置く。
◇
話は少しだけ遡る。
ロックコがホワイトナイトに対して特殊能力『絶対時間』を発動した直後の新国立競技場の観客席。
「やっぱり『絶対時間』はホワイトナイトにも有効だったんですね」と粟山さん。
「え?」と泉。
粟山さんは続ける。
「今回も、私は時雨と蔵人さんの訓練をサポートしてきました。そして昨日の作戦会議にも立ち会ったんです。ここまでの展開は、完全に蔵人さんの読み筋どおりです。
昨日の作戦会議での蔵人さんの時雨への指示は、きわめてシンプルで痛快なものでした。指示はたった2つでした。
1つめの指示は、ゲームスタートから中央での派手な戦いになるだろうからテキトーにつきあっとくということでした。蔵人さんは、『最前線』のメンバーの心理を分析し、バトルフィールドの中央で、ノーガードの撃ち合いが行われることを予測していたんです。それは『心理の重要性。それはどれだけ高く見積もっても過大評価となることは決してない』という第16代チェス世界チャンピオンのガリル・ガスパロフ氏の言葉に裏付けられた戦略だとのことです。」と粟山さん。
「ゲーム開始前から、そこまで計算を……」
泉は驚く。
頷きながら粟山さんは続ける。
「そして、2つめの指示。それはスタート開始から15分以内にホワイトナイトが出現するから、その時、パターンSという行動へ移るということです。」
「パターンS?」と泉。
「はい。パターンS。それは危険体X、すなわちホワイトナイトが出現後に取る行動パターンの名称です。蔵人さんは、ホワイトナイトに対しては、地の利を得ることが最善の戦略となると考えました。そして、その地の利を得るには、『坂』の傾斜レベルが激しいものであれば、激しいだけ戦略上優位に立て、かつ、『遮蔽物』の多い場所であれば、多いだけ戦略上優位に立てると説明されてました。時雨に覚えやすいように、この『坂』と『遮蔽物』の頭文字をとって蔵人さんは、この戦略を『パターンS』と命名されたのです」
粟山さんは、いつものように丁寧に泉に説明する。
「あっ!泉さん、あれを見て下さい」
粟山さんは、道玄坂を走っていく蔵人と時雨を指で指し示す。
「たしかに渋谷駅前のスクランブル交差点から、最も『坂』の傾斜レベルが激しく、かつ、最も『遮蔽物』の多い場所となると、あの坂になるのかなぁ」
と泉。
◇
話は元の時間軸へ戻る。
ドドーーーーーーーーーン
蔵人は全力で時雨の背中を突き飛ばして、ラブホへ時雨を押し込む。
「ひゃん」
いきなり突き飛ばされて、なす術なく宙を舞いながら時雨が叫ぶ。
「な、なにをするんだ。バカ者」
時雨は顔を真っ赤にして抗議する。そして続ける。
「い、いきなり突き飛ばすなんて非常識じゃないか。べ、べ、別に、お、お前を嫌いだと言ってるわけじゃないぞ。そこは勘違いするなよ。こういうのはステップがあるって雫から聞いたことがある。まずは手をにぎる、次にキ、キスとかそういう……そういうのを全部省略して、いきなりこんなとこに連れ込むなんていうのはだな……」
時雨は抗議する。だが、いつもと違って、時雨の声は、とても小さい。そして、時雨は顔を真っ赤にして終始、困った顔で下を向き、蔵人と目をあわせずにそんな抗議を続ける。
「時雨……」
蔵人は時雨の肩に手を置く。
「い、い、いきなり体を触るな! パターンSって言うのは、本当はセ、セ、セッ……3文字からなる、いやらしい英語のことだったのか!」
時雨は顔を赤らめて抗議する。だが、いつもの強気で声を張る時雨とは違い、その声はとても、か細い。そして時雨は相変わらず、下を向いて蔵人の顔を決して見ない。
「時雨? なにか勘違いしてないか?」
と蔵人。
「え?」
時雨は、やっと顔を上げ、蔵人を見る。
「俺は、ホワイトナイトに対し戦略的に最も優位な布陣を敷けるように、『坂』の傾斜レベルが最も激しく、かつ、『遮蔽物』が最も多い場所へ移動するよう指示した。『坂』の傾斜レベルが最も激しいのであれば、その場所は高所ということになる。そこからならホワイトナイト出現により複雑化する戦況を一望でき、最も有効な1手を打つことができるからだ。そして、『遮蔽物』が最も多い場所というのは、ホワイトナイトによる『ホワイトアウト』、サンダース大佐による『Unlimited Knife Phenomenon』といった最も火力に優れた特殊能力を無為に食らわないようにするためだ。だが、《HYPER CUBE》世界では、基本的には建物の中には入れないようになっていることから、通常は建物という遮蔽物は、その陰に隠れる形で利用するのが一般的だ。だが、そんな建物にも、例外がある。図書館、公民館などの公共施設、そして駅や百貨店いった公衆に開かれた準公共施設は、建物であっても、プライバシー権への侵害が軽度であることから、建物へ入ることが可能になっている。そして、今の時代のラブホは旅館業法による都知事の許可がなされた上で営業されていることから、準公共施設とされている。つまり、俺たちは、このラブホに身を隠して、ホワイトアウトやサンダース大佐に対して反撃する最も有利なタイミングを窺えるというわけなんだ」
自分が完全に誤解をしていたことに気づき、その恥ずかしさから、時雨は顔を極度に真っ赤にしてしまっている。
「バ、バ、バカ!!!」
そう叫ぶと、恥ずかしさから、その場を離れたい時雨はラブホの廊下を一気にダッシュする。そして空室になっていた部屋へ飛び込む。
時雨を心配した蔵人も、慌てて追いかける。
蔵人は時雨の入った部屋の扉を開ける。
時雨はラブホの部屋を興味深そうに見渡していた。
「ラブホって言っても、思ったより普通なんだな。もっと回転ベッドがあったりとか全面鏡張りとかになってるんだと思ってたぞ」と時雨。
「時雨、お前はいつの昭和のおっさんだ。」
蔵人はそう言って苦笑する。
「せっかくだからTVでも観ようか」
時雨はTVのリモコンのスイッチを押す。
そこに映し出されたのはAV。裸で絡み合う男女の嬌声が部屋中に響き渡る。
「な、な、な!!!」
時雨はまたも顔を真っ赤にして慌ててTVのリモコンで、チャンネルを変える。
そこに映し出されたのはNHKで生中継されていた《HYPER CUBE》世界大会の様子。
時雨は観た。
スクランブル交差点の中央で。
時雨の双子の姉である二神雫が無数のナイフを全身に受けながら、血まみれになって力尽きている姿を。
雫はサンダース大佐の発動した特殊能力『Unlimited Knife Phenomenon』からロックコを守ろうとして、自らを犠牲にした。
特殊能力『Unlimited Knife Phenomenon』。術者が操作する無限の数のナイフが、超高速度でターゲットへ襲いかかる。ターゲットはこれを躱すことができない。
だが、今の時雨はそれを知らない。
「ひ、ひどい……ひどすぎるじゃないか……誰が雫を……こんな酷い目に……」
その残酷な光景に時雨は顔面を蒼白にしながら、辛うじて言葉を絞り出す。
時雨の瞳に涙が溢れる。
《HYPER CUBE》症候群というものがある。《HYPER CUBE》世界での光景というものは、人工衛星映像やこの時代に世界中に張り巡らされた公共カメラネットワークなどを利用することで、現実世界での光景に限りなくに近似したものとなっている。また《HYPER CUBE》は、プレイヤーの外骨格、筋肉、脳神経、DNA情報などを即座に解析し、その者に最も相応しい特殊能力を選択するだけでなく、その者の等身大の現実世界のその者と同じと言っても過言でない3Dアバターを《HYPER CUBE》世界に出現させる。そのような《HYPER CUBE》世界の中で、極度の緊張感を持って戦闘を繰り返すうちに、《HYPER CUBE》世界での出来事を現実世界での出来事と錯覚するという現象。それが《HYPER CUBE》症候群である。たとえ長いプレイ経験を有するベテランであっても、精神的に極限状況にまで追い詰められることで、しばしば《HYPER CUBE》症候群に陥ってしまうことが報告されている。ロックコがセレーゾ神父が《HYPER CUBE》世界でゲームオーバーとなったことを現実世界の死と錯覚したのも、この《HYPER CUBE》症候群によるものだった。『皇帝ネロ』と言われるロックコといえども、14才の多感な少年である。そんな少年が『絶対時間』という高度な特殊能力を連続発動させて死闘を繰り返したわけであるから、彼が《HYPER CUBE》症候群に陥ったことを誰も責めることはできない。
そして、今、TVでの実の姉のショッキングな映像を見たことを契機にして、時雨が《HYPER CUBE》症候群を発症したのだった。
時雨はゲーム開始直後に『竜神の逆鱗』という《HYPER CUBE》界で随一の貫通力を誇る特殊能力を発動した。また時雨は、月乃の特殊能力『爆発する小剣』の直撃を受けた。さらに《HYPER CUBE》世界大会に出現したホワイトナイト。他の参加者と違い、時雨はホワイトナイトの正体が凶暴な地球外生命体ビグースであることを蔵人から聞いて知っている。
そんな過度のストレスの蓄積が、16才という傷つきやすい年齢の時雨の神経を確実にすり減らし続け、大きな心理的ショックをきっかけにして、《HYPER CUBE》症候群の発症へと至ったのである。
今の時雨は、雫が《HYPER CUBE》世界ではなく、現実世界で死に瀕しているものと錯覚している。ゆえに、時雨は極度の動揺に陥っているのだった。
「そ、そんな……雫を……た、助けに行かないと……」
衝動的にそう言うと時雨は部屋を飛び出し、廊下をダッシュする。
「待て、時雨」
ショッキングな映像に衝動的な行動に出た時雨を呼び止めながら、蔵人は時雨を追いかける。
時雨を追いかけて、蔵人も外へと出る。
そして、蔵人は観た。
自らのタッグパートナーである二神時雨が、全身に無数のナイフを受けて、血まみれになって倒れている姿を。
「時雨えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」
蔵人の絶叫が渋谷の街に響き渡る。
次の更新は明日です。
タイトルは「時雨死す」。




