第2話 人色蔵人
20X4年8月29日
世界を驚愕させた記者会見から約4年が経過した頃。世界中で発売された《HYPER CUBE》は全世界の全世代で空前の大ヒットをした。世界大会の視聴者総数はサッカーのW杯を凌ぐとも言われ、一部の未開の地を除いてもはや世界で《HYPER CUBE》を知らない者はいないという状況だった。
しかし、そんなゲームとは無縁の男子高校生――人色蔵人は、夜道を一人歩いていた。
時刻は午前0時半。数学オリンピック個人の部で高校1年生でありながら5連覇した。初出場は5年前であるから新記録であり、大記録でもある。ちなみにこの時代の数学オリンピックは年齢制限が下限につき解除されているので、蔵人は5年前の小学6年にして優勝という快挙も可能であった。5連覇するまではよかったが、表彰式のあとの祝賀会では、高い計算能力を持つ彼を自らの陣営へ入れようと、世界でトップと言われる多数の大学や企業による過剰な引き抜き合戦が行われた。彼ら有力者をぞんざいにする訳にもいかず、常識的な対応をしているだけで、多くの時間を浪費させられた。
必然として病院に入院している妹の七里への優勝報告は不本意ながら遅くなってしまった。
「大人たちのくだらない競争に巻き込まれるのは、めんどいだけだな」
蔵人は独りつぶやく。祝賀会での大人たちの蔵人にへつらう計算ずくめの笑顔を思い出し、嫌悪感をもよおしつつ夜道を急いだ。病室での『お兄様、おめでとうございます。さすが七里のお兄様です』と言ってくれた七里の笑顔を思い出すことで、ささくれ立った神経を癒す。
「彼らが計算ずくめなのは事実だが、彼らが俺を高く評価してくれることもまた真実。そこまで嫌悪する必要はないか。だが、施しを受けるわけにはいかない。それが俺の流儀。しかし七里のためなら……」
他者からの施しを受けない。常にギブ・アンド・テイクであること。それが蔵人の流儀。
他方、難病にかかっている七里の病状は深刻なものとなりつつあり、最先端医療技術による手術が必要だが、その為には3000万円もの大金が必要だった。病院を後にしようとしたところ主治医に呼び止め、蔵人は主治医からそんな話を聞かされた。七里はまだ知らない。
蔵人は、さっきから堂々巡りをしている葛藤を、また繰り返しながら、一人つぶやいた。
と――そこに立ち塞がる形で黒いスーツと黒いサングラスをした数名の集団が現れる。
深夜に異様な装いではあるが、彼らが蔵人に頭を下げていることから、敵意を感じさせることはない。
「人色蔵人様でございますね」
貴族の執事を思わせる風貌と落ち着きを持った白髪交じりの初老の紳士然とした黒いスーツの男の一人が言った。
「そうだが、お前たちは?」
蔵人が訝しげに尋ねる。
「私は黒野只也と申します。私たちは、時雨お嬢様の使者として、あなたをお迎えにあがった者です」と黒服の男は背筋を伸ばして答えた。
「時雨お嬢様とは誰を指す?」
「時雨お嬢様は二神家のご令嬢でございます」
「二神と言う日本有数の大富豪と言われてる二神か。そんなのが俺に何の用がある?」
「それは私も存じておりません。私共はただあなたを屋敷にお連れするようにと命じられただけでございますので」
なんとも怪しい言いぐさだと思いながら蔵人は解析を進める。
蔵人は高校1年だが、その父である人色ジンが4年前に突然に失踪するという事件を経験している。それ以降、多くの苦労をしてきたことから、同じ年齢の多くの者たちよりずっと豊富な人生経験をしてきている。そんな蔵人は、すぐさまトラブルのタネを感じ取る。
と同時に相手の言葉を解析する術も持っていた。ジンが失踪したとき、事後の事務処理は蔵人が行った。ジンの債務には反社会的勢力のフロント企業に渡ったものもあった。そのような輩との交渉を経ていく中で、蔵人は、相手の言葉を真実かを見抜くための術を身につけた。単に言葉や声色だけにとらわれるのではなく、相手の目の色と動きと輝き、声の抑揚と高低、呼吸のペース、手の動き等、これらを変数として、蔵人の頭脳で瞬時に高速度演算を行う。
その結論。蔵人は彼らの話は真実と判断した。
ちなみにこの判断方法を蔵人は数時間前の祝賀会での大学や企業による引き抜き合戦でもやったばかりなのだが。
この深夜に多数でやってくる非常識な者たちは、ここで断っても、しつこく彼の前に現れるだろう。ここは話を聞いた方が、今後の面倒を避けられると考えた。
「了解した」
「ありがとうございます」
黒野はホッとしたように言った。
「では早速。車はあちらにございます」
たしかにすぐ見えるところにリムジンが待機していた。
蔵人は横につけた車に乗り込んだ。