玉出商店の妄想劇場① 優しい田中くん
田中くんは二ヶ月前に中途採用で入ってきた男性社員だ。
身長も高くて、ガタイめっちゃいい。
眉毛は太くてスッキリ整えられてて、二重の目とスッと通った鼻筋、顎のラインも余分な肉が一切ない。唇は厚くもなく薄すぎない。真っ白い歯と、右側の八重歯がステキ。
甥っ子と同年代の、すっごく若い子で、ちょっと話しただけで「ご両親の躾が物凄く良かったんだな」って思わせる男である。まあ、そう思うのはわたしの年代だからかもしれないんだけどさ。
とにかく頭がキレる。
んでもって、わたしみたいな営業事務の年嵩の女たちにも、いっつもニコニコしてくれる。
嫌味なところが一個もない稀有な存在だ。
でも田中くんの短所も我々みたいな年嵩女子たちは、ちゃんと分かっているわけで。
電話で営業先にアポとか入れるとき、無碍に扱われると苛々しているのが伝わるもん。
彼が架電しているとき、あっちから無茶なこと言われると、ピキピキピキッて眉毛が上がる。そういうの見ててハラハラしちゃうんだけど、でも内心では「がんばれ」って応援しちゃう。
わたしが受けた電話で、こんなのがあったんだ。
「あのう、すんませんね……。うちに来た田中さんって人には申し訳あれへんのですけど……そちらとの契約は取り消したいんです」
「田中が、なにかご無礼でも働きましたでしょうか? 申し訳ございません」
謝るわたしに、先様は言った。
「いえ、あのう……書類を書いた本人ね、実は認知症なんです。すんません、こっちが悪いんです」
先様は、こっちからでもわかるほど電話口でペコペコ頭を下げていた。
そういえば……。自称・東京出身の課長が田中くんを呼びつけて何十分も、くっだらないこと言ってた時あったなあ。
わたしが出勤してきたときには「御説教タイム」は始まってた。しかも関西の人間が聞いたらドン引きするレベルの暴言の数々だ。
田中くんみたいに資産家の家系で育って、きっちり躾や教育も受けてきて、そんな人が不況の波を喰らってこんな仕事しているなんて信じられないと思っていたのだけれども。
とにかく田中くん。
朝イチから課長に大声で嫌味を飛ばされていたのはキツかっただろう。それでも米搗きバッタの如く「はい! はい! すみません!」って言っていたんだろう。
わたしは心が痛くなった。
実は「認知症さま」の契約申込受付は、わたしがしたのだ。それを田中くんに回しちゃったんだよ。
がみがみねちねち、ハゲ課長に怒鳴られていた朝以降、田中くんとは会ってなくて。
いつか顔を合わせたら。絶対に謝ろうって思っていた。
自己満足かもしれないけれど、炎天下の中で車も使わないで移動して営業に申し訳ないじゃん。や、それも正確に言ったらわたしのせいじゃないんだけどさ。
今日たまたま、朝から田中くんはフロアにいた。
挨拶もすっ飛ばして、わたしは言った。
「あのさあ、田中」
「なんでしょう玉出さん」
田中は某ファーストフード店員の「スマイル0円」の笑顔を浮かべた。
「こないだ、あんたが行った『認知症さま』って、わたしが受けた電話だったんだよ。ごめんね、わたしのせいで最高記録夏日の中、遠くまで無駄足させて、おまけに課長にまで散々に嫌味を言われて」
田中は「あっ!」と言いたげに眼を見開いた。そして、次の瞬間、痛みと慰めと励ましといたわりをごちゃまぜにした顔になった。
「た、玉出さんのせいじゃないですからね。そんなの営業事務さんからは分からないでしょ」
「だってさ」
「ぼく、どんなニーズでもうれしいですよ? それより今日は、いつもと服装が違いますけど何かあったんですか。いつもの玉出さんらしくないですけど?」
くっそう、こんなんで。朝から泣かすな。つうか、いつもの玉出ってなんなんだよ! おめえこないだ「玉出さんのツンデレはこの世で一番うれしくねえ」って言ってたじゃねえかよ!
実はトイレに篭って、ちょっと泣いた。
――わたしは今、給湯室でマグカップを洗っている。
湯沸し器がオンボロなので、湯音調節が大幅に狂うことも頻繁にあるんだ。しかも突然に。
「あっつ! あちちっ!」
スポンジとマグカップを、シンクに放り投げてうずくまった。
すると、背後から男の声が。
「た、玉出さんなにしてるんですか、ギャグですか」
「た、田中かよ……」
男前だからって、よくそんな口が利けるな、と言いたくなったけど我慢してしまった。振り向いたとき、田中くんは既に湯沸かし器のコックを止め、冷水を出していたのだ。
「あーあ、玉出さんったら。らしくないな。ここに手を付けてくださいよ」
らしくないってなんだよ。
おこだよ、激おこだよ?
そう言いたいけど、あんまりにも手が痛い。ひりひりする。田中くんはわたしの顔を覗き込んだ。
「早くちゃんと水に浸けないと、かぶれちゃいますよ」
わたしは泣きべそをかきながら、流水に手をつけた。
ぼそっ、と田中くんの声がする。
「甘えてくださいよ」
なに言ってんだコイツ?
「いつもみたいに『氷、持って来い!』とか怒鳴りつけてくださいよ」
はあ?
つうかあたしそんなに暴言キャラかよ、と激おこモードに入った瞬間、ふわっ、と手首をつかまれた。
「もうー、ここも赤くなってるでしょー。だめでしょ、女性なんだから痕になったらさ」
田中がわたしの背中にまわって、手首を持って水道水に「よいしょ」とか浸けてくれている。
「田中……あんた休憩時間とっくに過ぎてるけど」
「大丈夫ですよ。ぼく、さっき『直帰』の札つけてきましたし」
赤面したわたしを、田中は母ちゃんを看病するみたいに扱い続けた。
(了)