山が沈黙する理由
「おかしいな。昨日は山が静かだった」
加茂役は、ひどく疲れた、眠たげな顔でそう言いながら、向かいで朝食を取る俺を見ていた。
静か――本来なら、歓迎すべき兆しのはずだ。
「良かったじゃないか。山小屋には結界も張ってあるんだろ」
「それが問題なんだ。昨夜は……何もなかった。それくらい吹き飛ばす山の怪が、集まってくるはずでな」
「聞いてないんだけど……」
俺が箸を止めて問い詰めると、加茂役は一瞬だけ視線を泳がせ、観念したように口を開いた。
「熊野の山々で、近頃、悪質な悪戯をする怪異が増えたという噂がある」
五鬼たちに探らせた結果、行き着いた話はこうだ。
「晴明に、那智の天狗岩や滝壺へ閉じ込められた天狗。その生まれ変わり、あるいは子孫たちが、復讐の機会を狙っているらしい」
「え? 千年だぞ。しつこすぎない?」
「それはお前の尺度だ」
加茂役は、きっぱりと言い切った。
「だが、それだけなら大した話じゃない。名のなき天狗など、ものの数ではない」
そこで、話は一段、重くなる。
「問題は別にある。山に隠れ住む山神たちが、裏で動いているらしい。既に、多くの被害者が出ていて、入山を禁止している。ここにいるのは、俺の一族だ」
天狗とは格が違う。
遥かに古く、遥かに大きな力だ。
「理由があるんだろ?」
「それが分からない。それに――分かったとしても、話し合いは不可能だ」
高位の存在には二種類ある。
意思を保ったまま在るものと、そうでないもの。
前者は言葉を交わせるが、後者とは、そもそも交渉が成立しない。
山神は、後者だ。
高位であるがゆえに人格を持たず、自然そのものとして在る存在。
山神とは、自然の感情――怒りが、そのまま形を得て顕れたものにほかならない。
「じゃあ……倒すしかないのか?」
「約千年、この地の霊力を吸い続けてきた存在だ。生半可な力では、酷いことになる」
一拍置いて、加茂役は言った。
「だから、お前を連れてきた」
「はぁ? それを先に言えよ!」
胸の奥が、すっと冷えた。
言われていたら、間違いなく逃げていた。
「お前だけに相手をさせるつもりはない。葛葉様にも、お越しいただいた」
「……最初から、そのつもりだったわけか」
つまり俺は囮だ。
俺を狙って天狗が動き、釣られて山神が姿を見せるのを待っていた。
「強者が居れば、連中は逃げ隠れするからな」
……もっとも。
昨夜、ここまで近づけたかどうかは、怪しいものだが。
俺は、その考えを口には出さなかった。
山が静かすぎる理由に、心当たりがあるのは――俺だけだ。
「原因は調べないのか?」
「ああ。それも修行の目的だった。だが、今のところ何も見つかっていない」
「まあ、先に行けばわかるんじゃないかな」
俺は、何も知らない顔で朝食を終えた。
この山々が、何に怯えて沈黙しているのかも。
※
弥山小屋を出て、山を下り、また登り返し、長い尾根を歩いた。
この高さでは、山は人に配慮しない。
やがて、樹齢三千年と伝えられる巨木、神代杉が現れ、日置神社に至った。
玉置山と、その奥に広がる山域と、人の暮らしの境に置かれた社だ。
ここでは、山は口を閉ざす。怒りも威も、奥へ引き戻される。
鳥居をくぐると、音が戻って来た。
「お疲れ様でございます。葛葉様がお待ちです」
白菊と白鈴が出迎えてくれた。
「ただいま!」
俺は思わず、姉弟を抱きしめた。社務所で着替えを済ませ、社へ向かう。
「清明、こちらに」
彼女の隣に座る。
「主人、疲れたぞ!」
大の字に寝転がっているのは、騰蛇。
「主、働いたぞ。褒めて!」
ちょこんと座っているのは、白虎。
二柱とも、葛葉に頭を撫でられながら、霊力を分け与えられていた。
「そういうことでしたか!」
遅れて入って来た加茂役が、俺を睨みつける。
お互い様だろう。だが、争いを好まない俺は何も言わない。
「それで、どうだった?」
俺は二柱に尋ねた。
「主人、汚い山だった。とても霊山とは思えん。天狗や山神は、私の瘴気と恐怖で逃げて行ったよ」
騰蛇は、ぐるりと転がりながら答えた。
「何だ? 殺してないのか? 私は見つけ次第、殺したがな」
一瞬、社の空気が凍った。
白虎の声音には、ためらいが一切なかった。
「お前はすぐに手が出る。まずは警告だろうが……」
騰蛇が起き上がり、睨み返す。
そうなのだ。
冷静な白虎の方が、迷いがない。
「そんな必要無いだろう、災害みたいなものだ」
「どちらも正しいわ。それよりも気になることは無かったかしら?」
葛葉が二柱に尋ねた。
「天狗どもは、皆、動物の死骸を背負っておった」
「西の深い山を駆けてきた。汚れた谷が幾つもあった」
まるで、戸隠と同じだ。
「やはり。今、日の本の各地で同じことが起きている」
葛葉は、社の外――山のさらに向こうを見た。
「となると、奴らですか?」
加茂役も彼らの存在を知っているようだ。
「ええ。もう熊野だけの話ではないわね」
一拍置いて、彼女は告げた。
「人族解放軍」
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