序 貴人
二話目
どこからか、鈴の音が聞こえた。
一匹の妖犬が、飛びかかり俺に取り憑こうとするのが見え、俺は思わず頭を抱えてしゃがんだ。
「はあ、足癖の悪い犬め!」
白小袖に浅葱の袴を着たおかっぱ頭の童子。まるで歴史小説にいるような子供が尻尾を出して、妖犬を地面に叩きつけた。妖犬は悲鳴をあげると、僅かな血の痕を地面に残して消え去った。
「やっぱりや。お前は普通じゃあせんぜよ。思うた通りぜよ。狐を使いよるがや」
低く響く声が、冷たい空気を震わせる。
「どないするがや?」
「はよ片づけて、仕事に行かんといかんぜよ。今日までしか京じゃ活動でけんき。小狐一匹くらい、さっさと始末せいや」
俺の耳に言葉が鋭く突き刺さる。
「汚いない子供は傷つけちょってもかまわんぜよ。捕まえて、わしらで飼うちや」
いつの間にかもう一人、童女が姿をが見えた。
白袴に薄紅の小袖。切れ長の瞳を持つ、童子より少し年上の少女。
俺を守るように前に立つ。
「危ないよ、君たち!」
人ではない者だとはわかっているが、親しさも感じたからだ。
何より、敵の数が圧倒的に多い。
それでも、二人の子供が武器も持たず、素手で必死に立ち向かう。
「無理だって!」
数十匹の大きな妖犬。多勢に無勢。服を噛まれ、引っ掻かれて、綺麗な白い服は汚されて、二人は地面に倒された。頭から、腕から、足から血が流れる。
このままでは、危ない。
「おい、標的は俺だろ!」俺は震えながら必死に声を出した。
妖犬たちが攻撃をやめて、その目が俺に集まる。
その中の一番大きな妖犬が、俺に噛みつこうと走り出した時、ただならぬ気配と「声」が聞こえた。
「一千年待っておったのだ!」
「やっと、我々の主人が戻られた、約束を果たされた」
「わしを、わしを呼べ!」
その「声」は一条戻橋の下。声は大きく、妖犬は思わず足を止め、耳を立てた。この声の主は、数人、いや数十人か。
「なにぼーっとしちゅうがよ! あの子を捕まえちくれ!」
操る男の声で、妖犬が再び意識を俺に向ける。俺の脳裏に呼び出す者の名が浮かぶ。
「天地清浄、貴人降臨せよ――」
本来なら正式な呼び出しの儀式が必要だろう。だが、既に顕現しているのだ。それを俺は「理解していた」
季節外れの桜と沈香の甘く清らかな香気が漂う。
天上から金色の後光が降り、薄紫の天衣を纏った貴人が静かに現れた。長い黒髪が宙に流れ、手に持った如意宝珠と蓮華が輝く。
「おう……なんじゃあ、こりゃあ。えらい匂いと光やのう……」
橋を満たす香りと光に、世界が一瞬時を止めた。月の光と貴人の光輪が重なり、魔犬たちは咆哮を上げつつも、威圧の前に身を硬くする。
「え? 見えてないのか? あの存在が……」
彼らは、妖怪を操る癖に見えない。あの圧倒的な存在が。
「お前ら、痛い目に遭いたいがや?」
飼い主の声に、妖犬がやむなく動き出す。
「もう殺してもえいき、構わんがや」
妖魔の犬が、爪を出し、牙を剥いて俺に襲いかかる。
彼女はまず俺の周囲に手をかざす。淡く輝く光の盾――清浄の護――が形成され、魔犬の爪や牙を跳ね返す。
奴らは、俺に近づくことができず、地面に叩きつけられる。
俺は光に守られながらも、恐怖と緊張で立ちすくむ。
「安心しなさい……私がいるわ。お前たちは許さない」
貴人が如意宝珠を高く掲げ、天から光の輪を降ろす――光輪天翔。光輪が妖犬たちを包み込み、咆哮と混乱の中、群れは次々と消え去った。
地面に残るのは何も残らない。
「親父さん、やばい相手じゃ!」
「わかっちゅう言うちゅうがや! ずらかるぞ、どけっ!」
男たちは、背を向けて慌てて逃げ出した。犬は背にいなかった。
その瞬間、俺は完全に彼女を認識した。光を帯びた清らかな顔立ち、凛とした威厳。千年の隔たりなど存在しないかのように、魂が直に繋がる感覚が胸に走った。
「貴人……!」
俺の言葉に、彼女は僅かに微笑む。額が広く、眼光の鋭い整った顔だ。
「ゆっくり休みなさい、主様。彼女がもうじき来るわ」
俺は手を伸ばす。しかし、俺は力つき膝から崩れ落ち、意識を失った。
俺を追ってきた男たちの逃げる足音が、遠くに消えていった。
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