愚か者どもの行進曲
他国の第三皇女と婚約していた第二王子が、平民の女性に入れ込んで問題を起こした。そのあとの、馬鹿で愚かな第二王子が毒を飲むまでのお話。
シェフィールド王国の第二王子、ニコラス・シェフィールドは、眼の前に注がれたワインを眺めて薄らと感情なく微笑んだ。
牢で一人、使用人もいない部屋の中である。
牢といっても貴族牢なので、ニコラスの本来の部屋ほどとまではいかずとも不便がない程度には広く豪華である。一人になりたいから外に出しただけで、使用人もつけられている。
ニコラスはとある問題を起こし、反省を促すために牢に入れられていたのだった。
それは、ニコラスの元婚約者である平民カリスタを斬り殺した罪である。ひとけの少ない場所でならば問題にならなかったのかも知れないが、他国の高官たちも在籍している国際魔法省の人員たちの眼の前での凶行だったので、シェフィールド国王も隠し立てしきれずニコラスを牢に入れたのだ。
とはいえ、ニコラスの罪はそれほど重いものにはならないだろう。数か月、下手をすると数週間もすれば、ニコラスは牢から出て元のように生活できるに違いない。もともと国内外からのニコラスの評価は高く、非常に優秀な王子として名が通っていたのだ。
もっとも、平民カリスタに入れあげて凶行に及んだことを考えると、これまでの評価からは下がるかも知れないが――。ニコラスは、牢から出さえすれば、多少の評判の低下くらいであれば楽に取り戻せるだろうと考えていた。それだけの実力を自覚しているからだ。
そもそも元より玉座に興味もないので、自分の評価が多少なり下がろうとニコラスの痛手にはならない。
ニコラスはシェフィールド王国の第二王子だった。親子仲はほどほどだったが父国王はそれなりに有能でそれなりに堅実で、将来的に国王になるだろう兄に仕えることにも異存はなかった。ニコラス自身も非常な才覚に恵まれ、何ごともなければ未来は安泰だっただろう。
けれどニコラスはもう、そんな未来に興味はなかった。ニコラスにとっては、カリスタと結ばれない世界に意味はなかったからだ。
カリスタは平民だったが、ニコラスの元婚約者だった。もっとも、今となっては元婚約者であった事実すら抹消されている。ニコラスのいまの婚約者はシェフィールドよりも大きな帝国の第三皇女だ。
名前は知らない。ニコラスには興味がなかった。そもそも婚約者の入れ替え自体、ニコラスは全く承知していないのだ。
だというのに、ニコラスの婚約者は差し替わった。第三皇女がニコラスに惚れ込んだそうで、帝国と縁を結びたい国王の思惑によるものだった。
そもそも、ニコラスとカリスタの婚約だって王命によるものだった。ニコラスは以前からカリスタのことを愛していたし、カリスタも想いを返してくれていたのだけれど、これを単なる身分差を乗り越えた婚約などではなく王命によってまとめ上げたのは国王の判断だ。
だというのに、あっさりと翻した。王命による婚約であればそうそう崩されることもないだろうと、三年前の婚約披露の場で考えたことは的外れだったわけだ。
三年間、カリスタはよく頑張っていた。慣れないことが山ほどあっただろうに、女性たちから嫉妬で嫌がらせをされることも多かっただろうに、ニコラスの前ではいつでも前向きで、決して弱音を吐かなかった。
カリスタが弱音を吐くのは、使用人もいないたった一人のときに、ニコラスが出会ってすぐの頃にプレゼントしたテディベアの前でだけだった。もっともそのテディベアにはニコラスがちょっとした魔法をかけていたので、カリスタの弱音はニコラスに筒抜けだったのだけれど。
弱い女の子だった。そんなカリスタの弱さを、ニコラスは愛していた。
強い女の子だった。そんなカリスタの強さを、ニコラスは愛していた。
そもそもニコラスとカリスタが出会ったのは、カリスタが非常な植物魔法の才能を持っていたからだった。カリスタは元は孤児であり、養い親は非常に腕の良い老女性薬師だった。幼い頃に老女性薬師に拾われたカリスタは、家からすぐ近くにある魔の山の麓で自然や、特に植物に対してほとんど奇跡のような親和性を見せた。
まるで精霊が間違って人間に生まれてきたようだ、と呟いていたのは誰だったか。つまり、こと植物魔法の分野において、カリスタは高位の妖精にも劣らない才能を見せたのだった。
養い親は、恐らくほとんど国で一番の実力を持つ薬師だった。恐らくというのは、この薬師が非常に気難しい性格で、どんな功績を挙げても称号も爵位も受け取らず王宮にも仕えず、ひとけの少ない魔の山の麓でひっそりと暮らす女性だったからだ。
養い親の薫陶を受けて、カリスタは植物魔法と、魔法薬学の実力をめきめきと伸ばした。カリスタの才能は、ときに人びとを救った。
あるときには、大津波で一面が塩害に侵された田畑をあっという間に蘇らせた。農民たちの知識不足が元で枯れてしまった耕作地をほんの瞬きの間に生き返らせたこともある。
ニコラスとカリスタの婚約が王命によって結ばれたのは、つまりカリスタが高名な老女性薬師の養い子であることと、カリスタ自身の才覚によるものだった。単なる政略であればカリスタの養い親が国から逃げ出してでも拒絶しただろうけれど、ニコラスとカリスタが非常に仲が良く、想い合っていたので、養い親はいろいろなものを飲み下したのだった。
二人の婚約に暗雲が立ちこめたのは、半年ほど前のことだった。とある帝国で、数百年に一度と言われるほどの山火事が起きたのだ。
この山火事は、もともと山岳地帯の多い帝国の国土の三割を削るほどの規模だった。何週間もかかってようやく消し止められたときには、山地も農地もほとんどが焼けてしまっていた。
もちろん帝国は何人も強大な魔法士を抱えていたけれど、そもそも一帯の自然魔力自体が山火事によって一時的に枯渇してしまっている状態で、死に絶えた大地を生き返らせることは難しかった。そして大量の国民を抱えている帝国は飢饉を避けるために、早急に大地を蘇らせる必要があった。
そうして声がかかったのが、緑の聖女として国内外で名高かったカリスタだったのだ。
カリスタは帝国の窮状を知ると、一も二もなく手を貸すことに同意した。こういうとき、カリスタは躊躇うような性格でも、まして損得を計算するような性格でもなかった。
カリスタは、一帯の小妖精たちの力も借りながらわずか数週間で大地を蘇らせて見せた。それどころか、焼けたはずの植物や農作物まで蘇っていた。
皇帝は大喜びした。そこまでは良かったのだが、なぜかシェフィールドに帰ろうとするカリスタを引き留め、当時はすでに結婚していたはずの皇太子の正妃に仕立てようとしてきたのだ。
慌てたのはニコラスだ。取るものも取りあえず駆けつけて、カリスタを取り戻してともに王国に帰った。再会したときの、ニコラスの裾をそっと掴んだカリスタの手の震えを覚えている。
そこから、二人を取り巻く情勢は一気に悪化した。カリスタのあまりに大きな力を危険視し、悪用されないように保護するべきだという声が瞬く間に高まったのだ。
恐らくは先の帝国や、他の国々の思惑を孕んでいることは明らかだった。保護などと言っているが、要するに魔力を封じて幽閉し、良いように扱うつもりなのだ。
ニコラスや、ニコラスに近しいものたちは強固に反対したが、状況が改善することはなかった。ここにきて、元々老体であったカリスタの養い親が亡くなったのも良くなかった。
ついにニコラスは色々なものを見限って、カリスタと逃げ出すことを決意した。カリスタの性質は妖精たちには非常に好まれるから、ひとまず妖精国まで逃げ延びられればどうとでもなると思ったのだ。外交面でも文化面でも隔たりの大きな妖精国には、純人諸国の思惑は届かない。
けれど、あと一手が遅かった。シェフィールド国王は、ニコラスとカリスタの婚約を白紙にして、カリスタの身柄を国際魔法省に引き渡すことを決めてしまったのだ。他国との外交関係や、色々なことを鑑みての決定だった。
ニコラスとカリスタの周りには国王の意図を汲む近衛騎士が配され、逃げ出すことはできなくなった。最初の数日、二人は寄り添って過ごしていたけれど、そのうちに引き離された。知らない間にニコラスの新しい婚約が決められていた。
ニコラスは自由を制限されていたけれど、自分の手勢から情報は入ってくる。いつの間にかニコラスとカリスタの婚約はなかったことになり、もともとニコラスと第三皇女が婚約していて、カリスタはニコラスを誘惑して婚約を破談にさせようとしていた阿婆擦れだという話になっていた。
二人が引き離されてから、カリスタが国際魔法省に引き渡される数日の間に、ニコラスは決意を固めていた。
最後の日に、ニコラスはカリスタとのほんの僅かな面会が許された。もちろん、周りにはシェフィールドの王族や貴族も、国際魔法省の人間たちもいた。
ほんの一分にも満たないその時間で、隠し持っていた仕込み剣を使ってニコラスはカリスタを斬り殺したのだった。目撃者があまりにも多かったので、ニコラスは牢に入れられることになった。
ニコラスに斬り殺されるそのときに、カリスタは微笑んだ。まるで子どものちょっとしたわがままを許すように、仕方ないなとでも言いたげに、カリスタは微笑んだのだ。
カリスタの最期の笑みの美しさが、いまでもニコラスの記憶に焼きついている。
牢に入れられる前に、どうしてこんなことを、と父国王は呻くように言った。ニコラスは微笑んで返した。
「愚かな息子を育てたと、お捨て置きくださいませ」
そうして、ニコラスは牢の中で、座り心地の良いソファに身を沈めている。
最後に抱きしめたカリスタの柔らかさを思い返しながら。こんなことになるなら筋など通さずにさっさと抱いてしまっておけば良かったな、と思いながら。
カリスタとの一夜の思い出でもあれば、それだけでもしかしたらニコラスは、そのあとの長い孤独を生きていくこともできたかも知れない。
ニコラスにはもう、何もなかった。ニコラスは両親をそれなりに慕っていたし、兄を尊敬していた。臣下の中には気安いものも、信頼できるものもいたし、国民たちのことを大切に思っていた。王族として身を尽くすことに迷いはなかった。
けれどカリスタを喪ったいま、ニコラスにとっては何もかもがどうでも良いことだった。カリスタが生きていた頃からニコラスは心からカリスタを愛していたけれど、喪ってようやく、ニコラスにとっては本当にカリスタが全てだったのだ、と気づいたのだった。
カリスタを殺してから数日、ニコラスはカリスタを斬り殺したときの感覚を不意に思い出して何度も吐いた。食事もろくに摂れていないから、牢に入ってから、きっとニコラスは一気に体重が落ちただろう。
けれど、ニコラスに後悔はなかった。百回同じことがあったって、ニコラスは百回同じ判断をするだろう。
あのまま国際魔法省に連れて行かれてしまえば、カリスタはきっと、この世の地獄のような思いを味わったに違いないからだ。
カリスタは大人しく優しい性格をしていた。実のところカリスタにはニコラスもときに手を焼くような芯が強く頑固な一面もあったけれど、外見や言動の柔らかい印象で彼女のそういった一面は隠されていた。
魔力の封じられた、捕らわれた、可愛らしい見た目の、大人しい女性。
そういう女性が大抵どんな目に遭うのか、ニコラスは知っている。力任せにいたぶることができる相手を前にして理性を保っていられるほど、人間というのは上等な生き物ではないからだ。
お誂え向きに、それらしい理由まででっち上げることができる。もしもカリスタと同じ力を持つ子どもでも産ませることができれば、その国は他国に優位な立場を得ることができるだろう。
せめて幽閉するにしてもシェフィールド国内であれば、ニコラスの権力で守ることもできた。けれどカリスタが移送される予定だったのは、国際魔法省の本拠地があるとある大国だった。他国では、ニコラスの権力も国内ほど届かない。
だから、ニコラスはカリスタを殺したのだ。恐ろしい目に遭うであろうカリスタを慮って殺したのか、単に他の男に抱かれるかも知れないカリスタへの嫉妬で殺したのか、ニコラスは自分でも判断がつかなかった。
カリスタは最終的に、自分が幽閉されることを受け入れていたようだった。自分に起こる理不尽を静かに飲み下す、カリスタにはそういう強さがあった。もしかしたら弱さなのかも知れなかった。
けれどカリスタはきっと、ニコラスが憂えたことなど思いつきもしなかっただろう。そんなことが思いつけるほど悪意のある性格ではないからだ。
カリスタは優しい女性だった。眼の前で老いた女性が転んだときに、躊躇いなく膝をついて手を差し伸べられる女性だった。その転んだ老女が暗殺者である可能性など思いつきもしない女性だった。
帝国に赴いたのだって、カリスタは政治的な思惑や自分の功績になど興味はなくて、飢えるものが自分の力で一人でも減れば良いという単純な優しさによるものだった。帝国は確かに友好国だけれど、それでも善意を悪意で返されることがあるだなんて、恩を仇で返されることがあるだなんて、思いつきもしない女性だった。
カリスタの優しさが、カリスタを殺したのだった。
優しいものというのは、ただそれだけで虐げられて搾取されるものであると、ニコラスは知っている。なぜなら人間というのは、優しいものに対して『ならば何をしても良いだろう』と考える生き物だからだ。
優しいことは愚かであることと紙一重であると、ニコラスは知っていた。
カリスタの愚かしさも含めて、ニコラスはカリスタを愛していた。ニコラスは自分がそれなりに有能であることを自覚していたので、カリスタのそんな王子妃には向かない、愚かな優しさまで丸ごと守っていけるつもりでいた。
「……まぁ、自惚れだったんだけどね」
はは、とニコラスは笑った。ニコラスはこの数日ずっと、うとうととしては悪夢を見て飛び起きるような生活をしていたので、元の美貌からは随分と陰りが見えた。
どうでも良いことだ、と思った。カリスタからのきらきらとした視線を受けられないのであれば、ニコラスは自分の見た目になど興味がなかった。
否、なにもかも。
なにもかも、なにもかも全て、ニコラスにはもうどうでも良いことだった。
ニコラスは自分の右耳に手を伸ばして、ピアスを外した。ピアスの飾りには、強力な毒薬が仕込まれている。ニコラスの家族も、ニコラスに最も近しい侍従すら知らないことだった。
ニコラスが死ぬことに意味はなかった。自分にとっても、国にとってもだ。ニコラスは単にスペアの第二王子に過ぎないし、下には同母の弟がいる。
ニコラスと婚約しているらしいどこぞの第三皇女のこともどうでも良かった。女性たちにとってはニコラスなどただの魅力的な嫁入り先の候補の一つに過ぎないのだから、ニコラスが死んだところでどうせまた別の男を見繕うだけだ。
「平民の女に誑かされた馬鹿な王子だと、笑いたければ笑えば良いさ」
ニコラスが生きようが死のうが、この世界はつつがなく回るだろう。カリスタがもういないことなど、あっという間に忘れ去って。
ただ、カリスタのいない世界に、ニコラスが耐えられない。それだけの話だった。
ニコラスは微笑んだ。半分壊れたような笑みだった。
「わたしにとってはカリスタだけが、真実の愛だったんだ」
呟いてニコラスは、毒薬を混ぜ込んだワインを一息に飲み干した。
真実の愛に狂った愚かな王子が書きたくなったので書きました。わたしは感情が重けりゃ重いほどエモを感じるので真実の愛というならばこれくらいが好みです。相変わらずわたしの作品の真実の愛カップルは死んでいく。なんてこと。幸せなカップルが書きたいんだよ。嘘じゃないんだよ
たぶん、わたしがヒロインとしては『優秀で高慢な女の子』より『健気で可愛らしい女の子』が好きで、しかも厳然たる世界観として『優しい女の子は虐げられやすいので基本不幸になりがち』みたいな前提があるものだからこんな仕上がりになるんだろうな……えーんえーん。とんでもない仕上がりですよ。あれです、理屈としてはぶつかりおじさんが大人しそうな女の子にはぶつかりに行くけれど体格の良い男は避けていくのと同じことです
【追記20250701】
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