他人に「我」はあるか
結論から言えば、他人に「我」はない
なぜなら、他人は私ではないからだ。
だけど、他人も私と同じように「自己意識」を持つものではないか?
そうでなければ、なぜ他人はものを考え私に伝えてくるのだろうか。
確かに、言葉を話せる私たちには自己意識がなければならない。言語とは思考できる者が使えるからだ。
だが、思考できるものは果たして私以外に本当に存在するのだろうか?
もしかしたら、私以外は意識を持たない人工知能かもしれない。
つまり、私と同じように思考するから意識も存在するとは私と同じようにメロンが好きだから他人もメロンが好きなはずだと言っているようなものだということだ。
ここでは動物も思考してるかもしれないという話は問題にしない。
「かもしれない」という用法はいかなる用法か。
そんな用法は仮説を立てれる時ぐらいにしか使わない。
この世の中の私以外の人間が実は意識を持たなかったなどということが現実に起き得るのだろうか?
およそ、考えられないことは言語化できない。
デカルトは服の中に自動機械が隠れているかもしれないということを言っている。
だが、この言葉を間に受けるべきではないだろう。
日常で考えれば、相手が自分のことを本当に好きなのかどうかは私にはわからないだったり、相手が私に対して何を考えてるのかわからない日常の場面を思い浮かべた方がわかりやすい。
ならば、尚のこと他人が何を考えてるのかわからない存在だからこそ、私は私の考えてることしかわからないのではないか。
つまり、私以外の他者には意識などないのではないか。
確かに、私は相手の気持ちを汲み取ったり想像できたりする。だが、同時に私は相手に気持ちを隠したり、嘘をついたりする。
私がしてるようなことを他人がしてないなどと言い切れるのだろうか。
そう言った意味での他人の「私」はあるのかもしれない。だが、その「他人」とはいったい誰のことを指しているのかにもよる。
例えば、「山中くん」に言えるのか。「山中くん」がそういう人だと決めつけられるのか。
明晰判明に自分の心のうちを全て曝け出す「山中くん」が気持ちを隠したり、嘘をついたりしていると言い切れるのか。
むしろ、「山中くんはそんな人なはずじゃない!」と決めつけたくなるだろう。
他我問題にとって本質的なのはまさにここにある。それは私の感じる肉体の所有者が存在しないということである。コントロール不可能ということこそ、私には手の届かない範囲の知識であるということこそ、しかし、心の届く範囲であるということこそ、これである。
ヴィトゲンシュタインは私は他人の感じる痛みを感じることができない。それは「痛み」の文法的真理である、と言った。
仮に私の腕を他人の腕にチューブで繋げて感覚を共有できる状態にしても、私は私であり、他人は他人であるという事実は永遠に不変なのだ。
だが、これは他人の意識を否定する考えなのだろうか?
むしろ、他人の意識を肯定する考えなのではないか。
なぜなら、他人の「痛さ」を認めているからだ。
ただ、問題はその「痛さ」がこの私の痛さとどう違うのかということなのである。
「どう違うのか」を考える時、私たちは自分の経験した事柄から推察するしかない。他人の痛さは私の想像を超えてる場合があるからだ。
「超えている」という意味では他人の「痛さ」は私の「それ」ではない。つまり、他人に「我」などあり得ない。