三時間目 「きっちりさん」
京子ちゃんが鍵をなくした。
掃除時間の終わり。教室はちょっとした騒ぎになった。教室でものがなくなること自体は珍しくもないことだ。消しゴムの一つや二つなくなっても持ち主以外は誰も気にしない。夏目先生も「まあ、そのうち出てくるだろー」って笑って終わりだし、実際、大抵は忘れた頃にひょっこり出てくるものだった。
でも、家の鍵は話が違う。
出てこなければ京子ちゃんは下校しても家に入れない。京子ちゃんは一人っ子で両親は共働き。おじいちゃんおばあちゃんとは別居。つまり、生粋の鍵っ子だ。私だったら近所に仲良しのおばちゃんの家があるからそこに親が帰ってくるまでいさせてもらえばいいが、京子ちゃん家はあいにくそんな近所づきあいはしていないそうだ。下校まではあと二時間もない。それまでに鍵を見つけなければ、京子ちゃんは親が帰ってくる夜まで玄関前に座り込む羽目になる。小学生にとってはまごうことない一大事だ。
「みんな! 机の中身を全部出して! ランドセルもチェック!」
夏目先生の指示の下、大捜索が始まる。喧噪に包まれる教室はなんだか避難訓練の日みたいな非日常感があって、男子なんてあからさまにテンションが上がっている。五時間目の理科の授業が潰れようとしているのだから、気持ちはわかる。でも、長身でいつも気丈な京子ちゃんが半べそを掻きながらランドセルを何度もひっかき回している様子を見ていると私はそんな気分にはなれなかった。いつも飄々としている夏目先生も硬い表情で床に這いつくばって探している。先生の立場としてはいじめなどの可能性も視野に入れなければいけないだろうからそれこそ笑い事ではないのだろう。
捜索は三十分に及び、教室内のありそうなところはあらかた探しつくしてしまった。
「そもそも家に忘れたってことはない?」
夏目先生が京子ちゃんに聞く。京子ちゃんは「自分で鍵を閉めたからあり得ません」って答えた。だったら鍵を持って出たことは確かだ。京子ちゃんはきっちりした性格だから施錠し忘れは考えにくいし。鍵は校内にある。
そんなタイミングで、教頭先生が鍵を持って教室に現れた。なんでも校庭に落ちているのが体育の授業中に見つかったらしい。そのタイミングで京子ちゃんも今朝、校庭で躓いて転けたことを思いだした。鍵も見つかり、原因もいじめではないと判明。一件落着だ。「お騒がせしました」と丁寧に腰を折る京子ちゃんになんとなくみんなノリで拍手を贈る。
緊張していた教室の空気が一気に緩む。夏目先生も安心したのだろう。黒板の横にある先生用のデスクの回転椅子にどかりと座り込んだ。
「よかったよかった」
ガヤガヤしながら自分の席に戻る子ども達越しに、先生は教室後ろの時計を眺めた。五時間目は残り十五分ほどしかなかった。先生も理科の授業は諦めたのだろう。
「鍵と言えばね」
そう言って夏目先生は話し始めた。
先生が大学生の時の話。
それなりに仲のいい友達がいたんだ。とりあえずD君とするね。
D君は大学から歩いて5分くらいの便利な位置に下宿してたんだ。下宿ってわかる? 一人暮らしってことね。先生は原付きバイクで登校していて、D君の住むアパートは道中にあったから、たまに遊びに行ってたんだ。
その日は、「寒くなってきたし、鍋でもしようや」てことになって、大学帰りに二人でスーパーによって、食材やらお酒やらを買い込んだんだ。そうそう。鍋パってやつ。
D君の部屋がある4階まで酒がずっしりと入った袋をもって上がると、結構息が上がった。D君のアパートは古くて、エレベーターなんてなかったんだ。
それでようやくD君部屋のドアの前に来た時、食材の袋を抱えていたD君が
「やべっ。鍵忘れた」とか言い始めた。
「おいまじかよ」と先生は思わず酒の袋を廊下にどさりと置いたよ。ここまで来て入れないのかよ。ふざけんなって感じだよね。
「大丈夫! 大丈夫! 予備あるから」
D君も袋を置くと、膝をついて、ドアの備え付けのポストの投函口に手を突っ込んでごそごそ探り、数秒後にセロハンテープが付着した鍵を取り出した。こういうときのために合鍵を用意してたんだね。
「用意いいじゃん」と安心した先生はドアをガチャリと開錠したD君に続いて部屋に入った。
「あったあった」とD君は玄関横の棚の上にいつもの鍵を見つけ、その隣に予備のカギをちゃりんと置いた。
「なんだ。そもそも持って出なかったのかよ」
「そー。時々やってまうんだよね」
「ふーん」と一人暮らしの部屋にしては長い廊下を通り、リビングのテーブルにお酒を並べている最中にふと気づいたんだ。みんなも思うよね。よく考えればおかしいって。そう。京子ちゃんが言ってた通りだよ。
鍵を家に忘れたら、そもそも鍵を閉められないのでは?
先生は背中を向けてキッチンの戸棚を覗いているD君に問いかけた。
「お前んち、部屋のドア、オートロックなの?」
「は? んなわけないだろ。このオンボロアパートにそんなもんねえよ」
「じゃあ、なんでさっきドア閉まってたんだよ。鍵が中にあるのにおかしいだろ」
「ああ」
D君は土鍋を持ってふり返って言った。
「きっちりさんだよ」
「きっちりさん?」
「うん」とD君はうなずいた。
「きっちりさんが、閉めてくれたんだよ」
以下、鍋をつつきながらD君が話した「きっちりさん」の説明。
まず先に、D君に合鍵を持つ恋人や同居人はいない。でも、どうやらこの部屋には「きっちりさん」がいる。
初めてD君がきっちりさんの存在を感じたのは、ドアではなく、窓だそうだ。D君はエアコンが得意ではなく、夏場はいつも窓を網戸にして寝るんだけど、朝起きたらいつの間にか閉まってるそうだ。首を捻りながらも、もう一度開いて、朝の準備をして家を出てから「あ、窓閉め忘れた」と気づく。しかし、夜に帰宅すると必ず閉まっているらしい。
はじめはD君も「なんだ無意識に閉めてたのか」と思っていたそうだが、あまりに何度もある。それも窓だけではなく、台所の小窓や、風呂場のすりガラスでも同様の経験があったらしい。
一度、あえて開けたままにして部屋を出て、コンビニに行った。帰ってくると、その間にばっちりしまっていたそうだ。
「それもちゃんと丁寧に鍵までかけて、しかもカーテンまでぴしっとしまってるんだ。几帳面なんだな。多分」
だから「きっちりさん」と命名したという。
そこまで話して屈託なく笑うD君の話を、正直、先生は信じていなかった。
多分、秘密にしたい恋人でもできたんではないか。同居がばれそうになって適当な話でごまかしてるんじゃないか。そんな風にあたりをつけた先生は、「へー。すげえな」と話を合わせ、適当に大学の話題に話を移した。
その日は「きっちりさん」の話はそれで終わり、大学の話で盛り上がった。
その後、変に「きっちりさん」の話が先生の頭に残り、時折D君に、
「きっちりさん、最近どう?」
みたいな絡みをして、D君も、
「あいかわらずきっちりしてるよ。洗いもんとかもしてくれたら楽なんだけど」
てな感じで軽く返してた。
その年の終わりくらいだったと思うけど、また先生はD君の家で二人で飲んでた。どうやったらモテるのか、あいつとあの子はこうらしい、みたいなくだらないけど超楽しい話題でお酒を進めて、二人してかなり酔っぱらった。先生は原付なのでいつものように泊めてもらった。
昼前になって先生がリビングのソファで目を覚ますと、いつもは先に起きているD君がいない。隣の部屋を覗くと、D君は自分のベットで芋虫みたいに丸まって寝息を立ててた。
「おい、俺、帰るぞ」
一応声をかけると、D君は「うん」とも「ふん」と聞こえる返事をして寝がえりを打った。先生は荷物をもって廊下を進み、靴を履いたところで、もう一度ふり返って「じゃあな」とD君のいる部屋に声をかけた。今度はD君の返事はなかった。先生は気にせず鍵を開けて外に出て後ろ手にバタンとドアを閉めた。
さあ帰ろうと階段にむけて一歩踏み出した瞬間、
ガチリ。
とドアが施錠される音が響いたんだ。
先生、踏み出した姿勢で固まっちゃたよ。
誰が鍵を閉めた? D君?
D君は確かに部屋で寝ていた。もしD君が閉めたのなら、さっきの廊下をドアが閉まると同時に全力でダッシュしないと間に合わない。それも無音で。
ふり返ってドアノブを回して確認したかった。ドア越しに声をかけてD君を起こしてもいい。
でも、先生はそのまま階段を一気に駆け下りて、原付に飛び乗って家に帰ったんだ。
それから、D君の部屋には行っていない。
D君は何度か誘ってきたけど、適当な理由を言って断り続けた。就活の時期も重なって、D君とは疎遠になった。卒業後の様子も知らない。さすがに卒業後はもうあの部屋にはもう住んでいないだろうけど。
それから何年も経って、先生はもうD君のことは滅多に思い出さない。
でも、ふとした訪問先なんかで、去り際に背後で「ガチリ」とドアを施錠されると、今でも鳥肌が立つんだよね。
「なんだか、可愛い幽霊だったね」
家までの帰り道、隣を歩くアオイちゃんにそう言うと、「可愛い? 何の話?」と素っ気なく返された。
「ほら。きっちりさん」
「ああ」
藍色のランドセルを背負ったアオイちゃんは前を向いたまま頷く。
「七見さんは、可愛いって思ったんだ」
「だって、代わりに戸締まりしてくれるなんて、お母さんみたいじゃん」
「そんなにいいものかしら」
そう言ってアオイちゃんは口の端を曲げた。アオイちゃんは滅多に笑わない。でも、時々、こんな風に口を変な形にする。これが笑ってるんだって気づいたのは友達になって随分後だ。正直、笑顔にしては不気味だったから。もう慣れたけど。
「施錠って。別に外に向けたものとは限らないでしょ」
私はアオイちゃんの言葉の意味をしばらく考えて、「あ、そういうこと」と声を上げた。
「きっちりさんは、D君を閉じ込めようとしてたってこと?」
「さあ、どうかしらね」
私は首を捻る。アオイちゃんらしい考え方だけど、流石に穿った見方すぎやしないか。
「私は、逆だと思う。きっちりさんはD君を守ろうとしてたんだよ。鍵を閉めるって本来、そういうものでしょ」
ふいにアオイちゃんの肩が離れる。分かれ道だ。
「ばいばい」と藍色のランドセルに声をかけると、後ろ手に手を振られた。
一人、路地を歩く。まだ夕方と言うには早い時間なのに、随分辺りが暗い。一雨来るのだろう。
私は早足で家に向かった。傘を持っていないので雨が心配なのもあったが、直前までアオイちゃんと幽霊の話なんてしていたものだから、一人になった瞬間背筋が寒くなったのだ。
ポツリ、ポツリと雨が降り始める。背後のアスファルトに雫が落ちる音が、まるで足音のように聞こえる。私は歩みを早める。雨脚が強まる。まるで、追いかけてくるみたいだ。
私はついに走り出した。今日に限って路地には誰もいない。赤いランドセルを揺らしながら私は自分の家に駆け込んだ。親はまだ帰ってきていない。鍵を取り出して玄関のドアに差し込もうとするけど、焦って二回も失敗した。
やばい。来る来る来る。
開錠の金属音が響く。私は勢いよくドアを開くと最低限の幅に身体を滑り込ませるようにして家に入った。間髪入れずにドアを叩き閉める。そして即座につまみを捻って鍵を閉めた。
ガチリ。
頼もしい金属音にほおっと息をつく。一気に安心感が身体を満たし、たかが雨でビビった自分が可笑しくなって、つまみをつまんだまま私は少しだけ笑った。そうそう。鍵って本来、こういうものなのだ。外界と自分を遮断してくれる安心の仕組み。
そこでふと、思った。
きっちりさんも同じだったんじゃないか。
アオイちゃんはD君を閉じ込めるためと言った。私はD君を守るためだと言った。よくよく考えればどっちもおかしい。だって、それなら、鍵を忘れたD君を閉め出すはずないじゃないか。きっちりさんはDくんなんてどうでもよかったんじゃないか。
きっと、きっちりさんは私と同じ。
怖がっているんじゃないか。誰かに侵入されるのを。何かに入ってこられるのを。
きっちりさんが幽霊だとするならば、死してなお、きっちりさんは怯え続けてるんじゃないか。
私はぱっと、つまみから手を離した。じっとドアを見つめる。
幽霊が怖がるものってなんだろう。
それほど恐ろしいものなのだろうか。
死んでも逃れられなかったってことなんだろうか。
外は豪雨になったようだ。うるさいほどの雨音が扉越しに響く。
外界と私を遮断する一枚の板。
その中腹に取り付けられたのぞき穴を覗く気には、私は到底なれなかった。




