一時間目 「はやく」
「怖い話? ああ。みんな本当に好きだよね」
夏目先生はそう笑って、後頭部の黒髪をポリポリとかいた。
6年2組の担任教諭、夏目先生の黒縁眼鏡の奥に垣間見える笑顔には、いくつか種類がある。
場を和ませようとして微笑む。
盛り上げようとして大仰に声を出して笑う(この際は手をたたくことも多い)。
本当に面白くて爆笑する。
笑うつもりは無かったけど不意を突かれて吹き出す。
面白がってニヤニヤする(これが多分一番多い)。
そして、今浮かべている笑いは困ったときの笑いだ。でも少し、ほんの少しだけ、嬉しそうだ。そう私は思った。
算数の授業。夏目先生の授業はテキパキしているので、教科書の内容は終わったのに授業時間が10分ほど余ると言うことがよくある。こういったとき、夏目先生は計算ドリルなどを出させて追加の練習問題を解かせようとしてくる。
そこで子ども達は必死に先生に話題を振る。うまく先生を食いつかせることが出来れば、算数の残り時間は座って駄話を聞いているだけで済むのだ。
大抵は失敗に終わる。うまく時間を稼げても数分だ。
それでも、クラスの子ども達(私を含め)はあきらめきれない。どうにか追加問題を回避したい。その一心で男子を中心として、次々と夏目先生に話題を投げる。その全てを夏目先生はいつも華麗に受け流す。はずだった。
夏本番が始まろうとしている今日。クーラーが教室をすこしやり過ぎなくらい冷やしている二時間目の算数の時間。あと残り十分。いつものように子ども達と夏目先生の攻防が始まった。
ふと一人の男子が放った「せんせい! 怖い話して!」という言葉に、夏目先生は思いの外、反応した。照れるような笑みを浮かべ、「うーん。どうしようかな」そんなことまで呟き始めた。
いける。クラス全員が確信した。
クラスが一致団結して「怖い話!」コールを始めると、ものの数十秒で夏目先生は折れた。
「わかった。わかった。チャイムが鳴るまでな」
みんな(私を含め)は歓喜の声を上げた。算数の残り時間十分が消し飛ぶことが確定したのだ。クラスの喜びようと言ったらなかった。
「うーん。でもね。今から先生がするのは先生の話じゃないぞ」
そう夏目先生は前置いた。
「あくまでも、うわさ話だ」と。
先生ね、かれこれ7年間教師をしているけれども。やっぱり怖い話を学校の先生がするのはよくないと思うんだよ。
例えば、今となりに座っている友達が「昨夜、お化けを見たんだー」と言ったとして。みんなは信じるかい?
そうだよね。信じないよね。「うわあ。この子、嘘ついたー」て思うよね。当然だ。そしてそれは悪いことじゃない。信じるか信じないかはあなた次第って有名なフレーズがあるけれど。怖い話は「信じるべきか」「信じないべきか」の二つの思いが頭の中でごっちゃになるのがいいんだよ。楽しいんだよ。話している相手をどれだけ信頼しているかというのも、大事になってくるんだ。
さて、それでね、先生は先生だから。みんなに正しい知識を教えるのが仕事だから。先生の言うことは基本的に正しくて、みんなはそれを素直に信じなくちゃいないよね。そんな先生が「幽霊はいます」みたいなことを堂々と言ったらどうだろう?
先生のことは信じなくちゃいけない。だって先生だから。先生の言うことだから。先生は正しいことを言う存在だから。
でも、それじゃあ、「信じるか信じないか」が出来ないよね。
だから、今から話すのは先生の話じゃない。
あくまでも先生が聞いただけのうわさ話だ。
先生自身も、「信じるか、信じないか」をまだ決めていない。
そんな、ただのうわさ話だ。
「わたし、死んだらBちゃんに会いに来るね」
そう、A子お姉ちゃんは言った。女子高生のA子お姉ちゃんは重い病気で、もう幾日も生きられないとそう言われていたんだ。小学生のBちゃんは偶然入院先の病院で知り合った。お互いに寂しい入院生活だったから、歳は少し離れているけれど二人はすぐに意気投合して、お互いの病室を行ったり来たりして毎日お話していた。
それは、もうA子お姉ちゃんが自分の病室を出ることができなくなって、毎日Bちゃんの方がA子お姉ちゃんの部屋に一方的に通うようになった頃だった。
「死んだらどこに行くのかな」
A子お姉ちゃんはそうぽつんと言った。
「わたしは、天国かな。地獄かな」
Bちゃんは困ってしまった。こんなこと言われたら、誰だってなんて言っていいかわからないよね。だから、Bちゃんも黙ってしまった。
「Bちゃんも気になるよね。死んだらどこに行くのか」
Bちゃんは曖昧に頷いた。本当のところ、Bちゃんは「死後の世界」自体を信じていなかったんだ。
死んだらそれでおしまい。なんにもなくなるってそう思ってた。
でも、そんなことをもうすぐ死んじゃうかもしれないA子お姉ちゃんに言える訳ないよね。もうすぐあなたの存在は消えて無くなるんですよ、どこにもいけないんですよ、もう終わりですよなんて。
言える訳ない。
だから、Bちゃんは「うん。気になる。どんな所なんだろうね」と話を合わせたんだ。
「もしかしたらすっごく楽しい所かもしれないよ」
そんな、子どもならではの、子どもだから言えるような無責任な事まで言ってみた。
A子お姉ちゃんは笑顔になった。
「うん。お菓子がいっぱいあるかも」
「おもちゃがたくさんかも」
「お洋服もなんでもあるの。選び放題」
「ほかにもお友達がいっぱいいるかも」
「漫画を読み放題かも」
「ゲームもやり放題。アニメも見放題」
「映画館があって」
「かわいい動物もいっぱいいて」
「空も飛べるかも」
「それから、それから」
次の日、A子お姉ちゃんは病室を移されてしまい、もうBちゃんは会いに行くことも出来なくなってしまった。
Bちゃんは自分の病気がよくなって、程なくして退院した。そして家に戻って、学校にも行けるようになって、もう入院していた頃の事なんて忘れかけた頃。
夢に、A子お姉ちゃんが出てきたんだって。
「会いに来たよ」って。
Bちゃんはびっくりして聞いたんだ。「A子お姉ちゃん。死んじゃったの?」って。
A子お姉ちゃんは頷いた。笑顔で。
「Bちゃんに教えてあげようと思って。ここはすごくすっごく良いところだよ。とっても毎日楽しいの」
Bちゃんはそれを聞いてびっくりした。本当に死後の世界なんてあるんだ。
「すごい! よかったね」
「うん」とA子お姉ちゃんは大きく頷く。
「ここはね、お菓子がいっぱいあって、おもちゃがたくさんあって、お洋服もなんでもあるの。選び放題だよ。ほかにもお友達がいっぱいいるし、漫画を読み放題だし、ゲームもやり放題。アニメも見放題。映画館があって、かわいい動物もいっぱいいて。空も飛べるの。それから、それからね・・・・・・・」
「すごいすごい!」
「だから」
A子お姉ちゃんは微笑んだ。
「Bちゃんもはやくおいでよ」
「それから、A子お姉ちゃんは毎日、夢に出てくるようになったそうだ」
夏目先生は黒めがねをくいっとやって、窓に目をやった。
「毎晩、毎晩、Bちゃんの夢に出てきて、『とっても楽しい』『はやくおいでよ』『ねえ。はやく』と笑顔で言い続けているんだって」
しんっと静まり帰った教室に、チャイムが鳴り響いた。
夏目先生はにっこり笑った。
「はい。中間休みだよ。今日は良い天気だ。遊んでおいで」
クラスのみんなはわっと動き出した。男子が勢いよく廊下への引き戸を開け、むわっとした熱気が教室に侵入する。
黄色帽子を被って運動場に出る子。借りていた本を持って図書室に行く子。自由帳を取り出してお絵かきをする子もいる。
「七見ちゃん。ドッチボールしにいこ」
友達にそう誘われて、私も「うん。すぐ行く」と立ち上がりかけた。
ふと、隣の席の長い髪の女の子、アオイちゃんがじっと考え込むように宙を見つめているのに気がついた。アオイちゃんは物静かであんまりしゃべらない子だけど、話しかけたら的確に返事をくれる頭の良い子だ。
なんとなく胸に浮かんだもやもやをどうにかしたくて。私はアオイちゃんに話しかけた。
「ねえ。さっきの話、全然怖くなかったけど、なんだかよくわかんないよね」
アオイちゃんはちらりと私を見て、また、宙に視線を戻した。
「怖い話・・・・・・かどうかはわからないけれど、わかりやすい話ではあるでしょ」
「え? どういうこと?」
アオイちゃんはため息をついた。
「もし、本当に死後の世界がそんなに楽しい所なのだったら、きっとA子お姉ちゃんはBちゃんに会いになんてこないわ」
「え、なんで?」
「だって、漫画もゲームも映画もなんだってあるんでしょう。友達もいっぱいいるんでしょう。そんな、年下の大して付き合いが長くもない子の夢に出てくる暇なんて、無いでしょうに」
「いや、それは約束したから」
「だったら一回伝えれば十分でしょうに。なんで毎晩、律儀に夢に出てくるのよ」
私は驚いた。
「え、じゃあ、A子お姉ちゃんは嘘をついてるってこと? なんのために?」
「さあ」
アオイちゃんはそう短く答えて、それからふっと笑った。
「でも、きっと。寂しい場所ではあるんでしょうね」
きっとそこは。それこそ、いますぐにでも誰かに来て欲しいぐらいに。
「夏目先生が始めに言っていたでしょう。信じるか信じないかはあなた次第だって」
アオイちゃんはおもむろに立ち上がった。
「きっと、Bちゃんは信じない方を選んだのね」
それだけ言うと、アオイちゃんはすっと教室を出て行ってしまった。
私はしばらく自分の席で固まっていたが、ふと衝動的に立ち上がって、黒板を消している夏目先生のもとに歩み寄った。
「夏目先生」
「ん? どうした」
先生が振り向く。
「あ、あの、さっきのお話なんですけど、A子お姉ちゃんはBちゃんの夢に毎日出てくるようになったんですよね」
「うん。そうらしいよ」
私は生唾を飲み込んだ。
「Bちゃんは今、何歳なんですか?」
夏目先生はしばらく黙って。静かに微笑んだ。
「確か、もう、三十を過ぎてるって聞いたね」
「七見―! なにしてるの? はやくドッチボール行こうよー!」
廊下から友達に呼ばれる。
「あ、ごめんごめん」
「もう。はやくはやくー!」
私はぺこりと夏目先生に頭を下げると、廊下に急いだ。
そして、思った。
A子お姉ちゃんは、何十年も、Bちゃんの夢の中で言い続けているのだろうか。
『ねえ。Bちゃんもおいでよ』
『ねえ。はやくはやく』
『はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく』
『はやくこっちに来て』