父上。魔物を倒した勇者に嫁ぐなんて、絶対に嫌です。だから、そいつは私が倒します!
「夏栄さま、やはり危険でございます。もう戻ってください」
「いやよ、霧の谷までもうすぐよ。帰りたいなら、龍安、お前、一人で帰りなさいよ」
私は、ひたすら前に進みながら答える。霧が垂れ込めていて視界が悪い。
山道は険しく、岩がごつごつしていて歩きにくく、しかもところどころ、水が湧き出ていてしめっている。用心しなければ、足を滑らせてしまいそうだ。
「それは無理です。私のいる場所は、夏栄さまのいるところにございます。わが命は、夏栄さまとともにあると、いつも申し上げております」
歯の浮きそうな言葉を吐きながらも、いつもと表情が変わらない。
従者の龍安にとっては挨拶みたいなものなのだろうが、そのたびに私の心は騒いでしまう。
彼の仕事は私の身の周りの世話をする従者だ。黒い髪に、山吹色の瞳。私より三つ上の二十八歳。眉目秀麗で、何をしてもそつなくこなす。
そんな彼だから、城勤めの女性たちにも人気がある。本人はあまり気づいていないみたいだけれど。
「とにかく、夏栄さまお一人で、魔物の王の討伐に繰り出すなんて、無茶でございます」
龍安が必死に訴えてくる。
「一人じゃないわ。龍安も一緒よね」
「そういう問題ではありません」
龍安は抗議する。
彼は非常に優秀だが、従者という役目を考えれば、本来、戦力として当てにするのは間違っている。
だが私は普通の人間の倍ほどの速さで歩いているのだ。それなのに、全く離れることなく、追いかけてきている龍安は『普通』の従者ではない。しかもいたって平気な顔をしていて、息が乱れる様子もない。
はっきり問い正したことはないけれど、どこかで修行をしたことがあるはずだ。
「夏栄さまは、火月の国の姫さまなのですから!」
「だから何? 国の危機に、城の中に隠れていろというの?」
火月の国は、今、霧に覆われ、水の眷属の魔物の襲撃に怯えている。
それというのも、霧の谷の奥に封印されていた魔物の王が復活したからだ。
「ですから、陛下が今、総力を挙げて対応しようとなさっておりますから」
「それが問題なのよ!」
私は思わず、声を張り上げる。
「どうして、魔物の王を倒した勇者と私が結婚しなくちゃいけないのよ?」
そうなのだ。王である父は、あろうことか、魔物の王を倒す恩賞に私を与えようとしているのだ。
父は策士だ。
王族との婚姻をちらつかせれば、人を集めやすい。ついでに、嫁き遅れの娘も片付くとでも思っているに違いない。
「聞いたのよ。父上が、黎明将軍と話しているのを!」
魔物の王を倒すには、仙術の才を持った人間でないと難しい。軍を動かしたところで、勝率は低いだろう。
「下手に賞金を出すより、その方が良いだろうて言っていたの。そんなところをケチってどうするのよ!」
「それは、ケチっているわけではない気がします」
龍安は苦笑いを浮かべる。
「そんなに王族と婚姻させたいなら、お兄さまがすればいいのだわ」
「無茶をおっしゃるのはやめてください」
二つ上の兄、南炎も、未婚。
仙術を操るのは男性だけではないのだから、私限定というのはおかしいと思う。
「とりあえず戻りましょう。夏栄さまがお嫌なら、その場でお断りなさればよろしいのです。陛下も無理強いはなさらないと思います」
龍安はいつもと変わらない穏やかさで、私を諭す。
ああ、そうなんだ。
彼は、私が誰かに恩賞で与えられることを知っても動揺した様子がない。その事実に胸に氷がささったかのように冷えた。
「そんなこと、できないわよ。国を救ってもらっておいて、約束を反故にするなんて」
私を嫁にする条件で、命を懸けて戦った人間に、『あなたは嫌』なんて、言えるわけがない。
もっとも、そんな人がいるのかわからないけれど。
「夏栄さま」
「でも、私にだって、好きなひとがいるのよ」
「え?」
龍安が驚きの声をあげた。
「何よ、そんなに驚くことはないでしょ!」
日頃、仙術や体術の訓練ばかりしている私が、恋とか結びつかないらしい。
うん。わかっている。わかっているけれど。驚きすぎだ。私を年頃の娘と思っていなかったのかもしれない。
一番身近にいて、こんなに好きなのに、全く通じていないのだ。
「それは、いったい」
龍安は、どこか怯えたような顔をしている。
「誰だっていいじゃない。どうせ片思いなのだから」
私は頭を振った。
今は、それどころではない。
「だいたい人に任せるなんて、もともと性に合わないわ。私はそんじょそこらの将軍より強いのよ」
「それはそうですけれど、夏栄さまに何かがあったら困ります」
不満げな龍安の言葉を無視しして、道を進む。
私は幼い頃から、体の弱い兄よりも仙術を使って戦う武功に才能があった。
火月の国を治める焔一族は、火の気を強く持っている。
炎帝の誉れの高かった父が十年若ければ、もしくは魔物の王が水の眷属でなければ、火月の国に復活するようなことはなかっただろう。
そして、私が『女』でなければ、父は、躊躇なく討伐を命じたに違いない。
「女だからとためらうくらいなら、初めから深窓の姫君にしておけばいいのよ」
戦うための厳しい訓練を幼い頃からさせておいて、今さら、ただ祈るだけの姫になれとは、どういう意味だろう。
父は何を考えているのか。
やがて、辺りの霧が深くなり、ほとんど周囲が見えなくなってきた。
「夏栄さまっ!」
岩陰から魚が群れて飛び出してきた。
空気の中を泳ぐ、水妖、魔宙魚。魔神の尖兵である。対して強くないが、どんどん仲間を呼ぶので、うざったい奴だ。
「はぁぁっ」
私は気を込めて手刀で、叩き落した。
「夏栄さま、こんな雑魚に気を消耗してはなりません!」
龍安が剣を抜いて、魔宙魚を切りはじめた。
「わ、わかっているわよっ」
いくら私が人よりも気力が充実しているからといって、無尽蔵ではない。
いざという時に、武功を使うため、必要な気力は出来る限り温存した方がいい。
龍安の言うことは正しいのだけれど、何か腹が立つ。
「お前が、剣を使えたとは知らなかったわ」
「正直、あまり得意ではありませんし」
そう言いながら、龍安は無駄のない動きで魔宙魚を屠っていく。
「腹の立つ男ね!」
私も剣を抜いて、戦い始める。
「それなら、もう帰りませんか?」
「嫌よ、無駄口叩いている暇はないわ、さっさと片付けるわよっ!」
深い霧の中を襲ってくる魔宙魚を切りながら進む。
龍安と出会ったのは、三年ほど前。
山中で修行をしていた時、私の放った気弾で倒れた木の前で気絶していたというのがきっかけだ。
実際には、私の気弾は関係なく、飲まず食わずで行き倒れ寸前だったみたいだけど。
回復した龍安は、火月の国に住み着いた。
読み書きも計算も一通りのことができたので、官職につくことを勧めたが、彼は私の従者になることを選んだ。
何故かはわからない。
以来、彼は私にずっとついて身の回りの世話を焼いてくれている。
「夏栄さま、来ます!」
霧の向こうにある大きな湖の水面が持ち上り、一人の男がその上に立って現れた。
黒い目をした、銀の肌を持つ男。まとっているのは金の衣。
こういう時に出てくる魔物って、美形と相場が決まっているのにもかかわらず、そいつは目つきのイヤラシイおっさんにしかみえない。
大きな力を持っているらしく、辺りの大気が歪んだように感じる。
「ほほぉ、姫君自らおいでになるとは」
ふぉっふぉっと、そいつ──魔物の王、鱗王は、笑った。
「自らを贄に差し出し、恭順の意を示そうというのかね?」
「冗談でしょ。私はお前を倒しに来たのよ!」
私は真っすぐ指をさして、宣言をする。
「気の強い女よのう。主の泣き顔がみてみたい」
にやりと鱗王が笑う。
目が怪しく光って、指を私たちの方へ向けると、水柱がとんできた。
咄嗟に跳躍して避けたものの、足場が悪くて、よろめいたところを龍安に支えられる。
「夏栄さま、もう少し駆け引きを学ばれませんと。ここはおさがり下さい」
「うるさいわ。龍安こそ下がっていて」
私は飛び上がり、体内の気を集める。
「火行練功、火球!」
集めた火の気を鱗王に向けて、打ち込んだ。
「甘いな、火の娘が我に勝てるものか! 五行相克、水剋火」
五行の理で、水は火に強い。持って生まれた気の性質は変えられない以上、私が鱗王と戦うのは、圧倒的に不利だ。そんなことはわかっている。最初からわかっていたけれども、やるしかないのだ。
「はっ!」
鱗王の目が光を帯びると、巨大な水柱が天を貫かんばかりに盛り上がった。
火球は水柱の中で消滅し、私の身体は水の中に捕らえられた。うまく動けないし、息が苦しい。
体中の気が水に押し込められてしまって、上手く使えなくなっている。
「五行相克、土剋水」
龍安の声とともに、水柱の水が一瞬で消滅した。
息が出来る、と思った時には、私の身体は、龍安の腕に抱きあげられていた。
「な、なんだっ」
鱗王が驚きの声をあげる。
彼の周囲を取り囲むかのように土の壁が盛り上がっていた。
「お、お前は」
「火月の国にも、土の気の使い手はいるのですよ」
ニヤリと龍安の口元があがり、彼の目が黄色に光る。
火が水に弱いように、水は土に弱い。
もっとも龍安が鱗王の攻撃を無効化できたのは、五行の相性だけではなく、もともとの気の量がかなり大きいからだ。
「すごい」
ずっとそばにいたのに、全く知らなかった。
体術に自信があるのは知っていたけれど、仙術まで使えたなんて。
「土の気が使えるからと言って、所詮は人の子、この程度のこと、我の敵ではないわっ」
鱗王が怒りの声を上げる。
「五行相侮、土虚水侮」
鱗王は周囲を覆っていた土壁を水で削りはじめた。
「夏栄さま」
龍安は私を地面におろして、片目をつぶる。
「相侮を使ってください」
相侮というのは、五行の本来の相性の悪さを逆転させる業だ。
発動の条件は、相手の力を圧倒するだけの力が必要である。
「でも……」
「勝たせて、さしあげます」
龍安は私の頬に手を当てて、唇を重ねる。
突然のことに、私は固まった。
全身の脈打つ『気』が、龍安に吸われるような痺れを感じた。
「お力をお借りしました。ご無礼、ご容赦を」
言うなり、私から離れて、龍安は高く跳躍する。
「五行相乗、水虚土乗!」
龍安の言葉とともに土壁が水を吸い込み、湖水がどんどん消えていく。
相乗は、相克よりさらに巨大な気を必要とする術で、奥義のようなものだ。知っていても、まず使えない術だ。
「な、なにっ、何故、お前がそんな技を使える?」
鱗王は慌てふためく。
「今です、夏栄さまっ!」
「五行相侮、水虚火侮!」
機を逃さず、私は自分の力のすべてを込めて、火の気を叩き込む。
「なっ、何!」
龍安の術に力のほとんどを奪われていた鱗王の身体が、炎に包まれた。
「おめでとうございます。夏栄さま」
肩で息をしていると、龍安が丁寧に頭を下げる。
鱗王が燃え尽きると、全ての術が解け、霧が晴れてきた。
土壁は消え、湖の水面は凪ぐ。
陽光が大地を照らし始めた。
鱗王が倒れ、霧は晴れ、国を襲っていた水妖達は姿を消した。
「つまり、夏栄、鱗王をお前達が倒してきたということだな?」
久しぶりの青空に、国中が歓喜の声を上げている。
城に戻ると、私たちは父に出迎えられた。
「陛下、倒したのは、夏栄さまにございます」
玉座の前で、龍安は首を垂れたまま、そう答える。
「ちょっと龍安、違うでしょ」
私は慌てた。
どう考えても、龍安がいなければ勝てなかった。私一人の手柄にしていいものではない。
「夏栄さまは黙っていてください」
反論しようとした私を龍安は制止する。
「……それでよいのか、龍安?」
父は顎髭を撫でながら、龍安の顔を見ている。
「そなたにも、褒賞を考えていたのだが」
「私はこれまでのように、夏栄さまの従者でいられるなら、地位も名誉も必要ございません」
「しかし」
龍安は淡く微笑む。
ちょっと、待って。私は、手柄を一人占めする気はない。
今まで言えなかったけれど、龍安は従者よりもっと、高位の役職につくべきだ。
あれだけ強いのだもの。将軍になってもおかしくない。
「父上。龍安がいなければ、勝てませんでした。彼に褒賞を」
「いけません。夏栄さま。心に秘めた方がいらっしゃるのでしょう?」
龍安は私に必死で訴える。
え、それって。そこまで頑ななのは、鱗王を倒した褒賞が、『私』だからなの?
「龍安は、恩賞が『私』だから、いらないってことなの?」
胸がつんと痛くなる。
「何をおっしゃっているのです? 夏栄さまには心に秘めた方がいらっしゃると」
「龍安の馬鹿」
涙があふれてくる。
「いらないなら、はっきり『嫌』って言って。従者より、お前の実力に相応しい『地位』でも『賞金』でもあげるように父上に話してあげるから」
「夏栄さま? ちょ、ちょっと待ってください。まさか」
「ええ、そうよ。私は、あなたがいいの。どうして、それがわからないの?」
みっともないと思いながら、私はボロボロと涙をこぼす。
「で、でも片思いだって……私は三年前からずっとあなたをお慕いしていると言っておりましたよね?」
「え?」
私と龍安は顔を見合わす。
龍安は確かに、従者になった時から、私を慕っていると言っていたけれど、あれって、男女間の意味だったの?
コホンと、父が咳払いをした。
「あー、龍安、今回の褒賞として、娘の夏栄を貰ってくれる気はないのか?」
父は呆れたという顔で、私と龍安の顔を見る。
「夏栄さまがよろしければ、私の方は喜んで」
龍安が丁寧に頭を下げた。
「私も龍安のもとに嫁ぎたいです、父上」
龍安の横で、私も彼と同じように頭を下げる。
「まったく、そこまで想いをすれ違った状態で、よく今まで来たものよな」
父はにやにやした顔で、微笑んだ。
龍安は、もともと黄節の国の第八王子で、武芸者の道を目指すために国を出奔したらしい。
城の中庭を私たちは二人で歩きながら、お互いのことを話す。
ずっとそばにいたのに、私たちはあまりにも知らないことが多かったみたいだ。
「ねえ、龍安。もし私が討伐に出なかったらどうしたの?」
「実は、将軍からお話をいただいていて、一人で行く準備をしていたのですよ」
「え?」
つまり。
父は龍安に依頼するつもりで、私を褒美にと言ったらしい。
「えっと。私、無駄足だったの?」
「いえ、夏栄さまがいなければかなり苦労したと思います。夏栄さまのお力のおかげですよ」
戦いのさなか。龍安が私に口づけをしたのは、私の『火』の気を体に取り込むためだったらしい。
確かに、火は土の気を高める力があると聞いたことがある。
「だったらどうして一人で行くつもりだったのよ」
「従者としてではなく、あなたに『男』として認めてもらいたかったからですよ」
龍安は苦笑する。
「私の気持ちは全く通じていないようでしたので」
「ええと、うん。ごめん」
でも、それは龍安を男として認めていなかったからじゃない。
自分が愛されていることに気づいていなかっただけだ。
「今までは従者という立場上、遠慮しておりましたが、これからは容赦なく気持ちをお伝えしてまいります」
龍安に見つめられて、私は目を閉じた。
柔らかなものが唇に重なる。
「ずっと、そばにいてね」
私が呟くと、「もちろん」と龍安が頷いた。
了