邪魔な桜はどれ?
2月に入り、大島も学士論文のほうは面目を保ち、晴れて京大卒という資格を得た。
その頃ちょうど学内で顔を合わせ、久々に千葉と朱莉と話す機会があった。
千葉はバラの品種改良に関心があって、関東方面のバラ園に就職が決まり、朱莉も一緒に上京するとのこと。
大学2回生からずうっと仲良しでそろそろ籍を入れようかという話もしてるって。
吉野とかすみの退学から、少し距離を置かれているようで疎遠になっていたから、本人たちの口から聞けてよかった。
卒業式も済み、私は身の振り方を考えていた。このまま大島の家に住んでいるというのはおかしい。
でも大島を納得させられる理由付けも見当たらない。
別れるような素振りを見せると急に優しくなって甘々イチャイチャしてくるのが今までの大島だ。
会社への住所届はインターン時から大島宅にしてしまっているから、正規入社を期に別居したいというのも説得力がない。
「愛が冷めたから」というのが第一の理由なのだろうが、そう口にしたら大島は散々駄々を捏ねるとしか思えなかった。
別れ話を切り出せないままに3月下旬になって、この時期恒例に感じてしまう桜の郵便が来るようになった。
最初はヤマザクラとソメイヨシノの黒リボン。
次が3日後、ヤマザクラと、ソメイヨシノより一回り小さい、葉のない薄紅の桜の黒リボン。
そして4月に入ってから、ヤマザクラと緑葉付きの白い大きな一重の桜の黒リボン。
郵便が届くたびに大島は挙動不審になるようで、私の脳内では「邪魔・吉野」という言葉が渦巻いた。
4月2日から正式に新入社員として出社で、新人歓迎の飲み会などもあったのに、その合間を縫って私は京都御苑に足を伸ばした。
ネットや植物図鑑では心許ない。自分の目で見て比べてどの桜か知りたかったのだ。
ソメイヨシノの後に送られたのは、きっとエドヒガンだ。葉っぱがないこと、開花時期、ソメイヨシノの交配親でよく似ていることからそう思った。
その次に来た黒リボンの白い大きな一重の桜には全く心当たりがなかったので、時間をかけるつもりで休日土曜日の朝から京都御苑に行った。
地下鉄丸太町駅から御苑内に入り、出水の枝垂桜の前に出る。もう散り始めで花びらがサラサラと舞い落ちる。
しばし堪能してから心を落ち着けた。
「京都御苑の桜の見どころ」というマップをスマホで出してみる。
開花時期と画像が出ていて参考にしやすい。
白い一重の桜。
――Cerasus speciosa ケラスス・スペキオーサ オオシマザクラ
ぞくりと寒気を感じた。春物のコートも着ていて風もなく、「春だねぇ」と言いたいほどの柔らかい陽気なのに。
「ウソ!」
私は御苑に入ってきた道を振り返る。一歩奥まったところではあるけれど、枝垂桜ばかり気にして通り過ぎてしまった白桜が立っていた。
手が震えるのは、なぜだろう?
大島桜だから。ジャマサクラとオオシマザクラが黒いリボンで。
ではあの2本は警告? 「大島・邪魔」
もしくは脅し。「邪魔なのはお前だろう、大島」
桜の幹に右手をついて、体重を預けた。くらくらする。
吉野は生きてる? それとも吉野を殺されたかすみが大島を脅してる?
うそ、2人ともそんな性格じゃない。
大島は、大島なら邪魔な吉野を消しかねない。
そう思ってしまう自分が堪らなく嫌だけれど、嫉妬して、将来を危ぶんで、悔しくて、邪魔者を排除することは、アイツならあり得る。
そこまで思って急激な嘔吐を感じた。休憩所に向けて速足で歩く。
あの日、大島は何をした?
吉野に、私の身体に。
初心な私をアリバイにしてホテルを抜け出した?
吉野を呼び出したはず。潮岬灯台へ?
残された吉野の車、ダッシュボードに口紅で「ヤマ」。
それも「邪魔」って意味?
波の音がひきもきらない吹きさらしの灯台、人気のない駐車場、大島が待ってる。
呼び出された吉野は自分の車を停めた。
何か異様な気配を感じて、車を降りる直前に目についたかすみのリップでダッシュボードにメッセージを残した。
「大島が僕を邪魔だと思ってる」
たぶん吉野とかすみはそんな話をしたことがあったんだ。
「山桜の学名が邪魔桜なんて可哀想ね」って。
そして、吉野が飄々として見えたのは大島の気持ちを知らなかったからじゃない。知ってたからだ。
知っていて、でもかすみが選んだのはこの僕だとはっきりさせて、大島に諦めてもらうしかないから。
親に会わせるほどお付き合いは進んでいると大島に悟らせようとしたのかもしれない。
それか、それが、こんなことに。
御苑内の公衆トイレで吐きながら泣いていた。
でも大島は罪に問われていない。私が大島のアリバイを証明してしまったんだろうか?
夜の営み中の時間感覚なんて……そう、10時。10時だと言ったのは大島。私は時計を見ていない。スマホも何も。あれが8時とか9時だったら、潮岬まで行って帰るのは簡単なこと。
――私、利用、されたんだ。見事に。そして、今も……、大島は私を見張るために囲ってる。
何とかしなくちゃ。
警察に駆け込む?
だめだ、吉野の安否がわからない。殺人かもしれないけど、もしかしたら元気なのかも。この桜の枝を送ってるのが彼なら滑稽なだけ。
何で桜を送ってくるの?
2年間枝送ってくるだけで何もしていない。大島を殺そうとも告発しようともしてない。
エドヒガンにまで黒リボンを巻いて送ってきてた。エドヒガンが邪魔ってどういうこと? 大島だけじゃなくて共犯者がいるってこと?
うそ、もし、千葉と朱莉が手伝ってたら?
「美人の湯」に入って京都に帰るって言った。でも大島が呼びだしたら千葉は手を貸したのかも。それで朱莉、私によそよそしくなったの?
うそだ、もう何を信じていいかわからない。
でも軽々に動くわけにいかない。誰にどう影響するのか見えない。
エドヒガンの意味が知りたい。
本当にあの枝がエドヒガンザクラかどうかも危うい。所詮私が見てそう思っただけ。専門家の意見じゃない。
まずはそれを調べられる人を見つけなくては。
そして確定するまで大島の前で普通に暮らせる方法。
何も知らないふりして大島の前に立たなくてはならない。
夜のことはもう、できそうにない。気持ち悪い。大島に、触られたくない。
セックスをしなくて済む理由が要る。
ばい菌が入ったことにする。
「おしっこするとき痛みがあるから婦人科に行く。膀胱炎かもしれない、もしかしたらもう少し悪いものかも」
そう、これで次の生理までもたせよう。
大島のことだから、もしかしてあっちの大学院のほうでもう他の女の子引っかけてるかもしれない。
サークルの呼び込みとかの日にキャンパスに足を運んで学部生の品定めくらいしたんじゃないかしら。
そしたら、うつしたのは大島のほう、そうほのめかしたりして腹を探る素振りを見せれば、アイツは恐らく逃げ出す。
そこまで考えて身だしなみを整えてトイレを出た。
京大農学部へ行ってみよう。ここから30分かからない。土曜日でも誰かいるだろう。できたら森林科学科の人がいい。桜に詳しい人。
「あれ、深山先輩やないすか。卒業したてでしょうに。また桜ですか? 去年でしたか、ヤマザクラもって来はったの」
宅急便で届いた最初のヤマザクラを見せた男子だった。もう4回生のはず。
「桜に詳しい人ですか? これなら僕にもわかりますよ、エドヒガンですわ」
「だよね……、でも桜に詳しくて守秘義務守ってくれる素敵な研究者さん知らないかしら?」
後輩は小さく吹き出して笑った。私の言葉と表情がそぐわないから心配もしてくれているのだろう。
「桜は、うちやどの大学よりつくばの森林総合研究所が詳しいですわ。桜マニアが居りはるんです」
「紹介して、お願い、その人と会えるようにして」
「会うんですか? 電話やのうて? ま、電話してアポは自分で取ってください。番号やらメールやらここ書いときますんで」
「ありがとう」
「なんや深刻なら相談してくださいよ。卒業されても先輩ですからね」
後輩くんは笑顔までくれた。