ソメイヨシノとヤマザクラ
翌日、私は送り付けられた桜枝の数本を握って京都御苑に行った。10種類以上1100本も桜が植えられている近場の名所だ。どの桜だか、同定したかったのだ。
ただの好奇心じゃない、思いは切実。
「もしこれが、どの桜とも似てなくて、串本の、吉野の桜だったらどうしよう?」
と背骨に寒気を感じていた。
1年近く大島と同棲を続けて、何か間尺に合わないところを感じていた。表の顔と裏の顔の違い。自分を可愛がるのは表の顔。躰は求めても、心が求めているものはどこか他にあるようなうすら寒さ。
吉野の失踪に大島が絡んでいる可能性。
広い御苑を歩き回ってどの桜と見比べても、手の中の枝は普通のヤマザクラだった。
ついでに研究室に行って講師の先生にも聞いた。私の周りは草本類が得意な人ばかりだから、森林科学科にまで行って聞いてもみた。
「ヤマザクラですね、吉野山にでも行きはったんですか?」
1級下らしき男性は私を見知ってるようだった。私は「吉野」という音を聞いてまたドキッとしてしまったのだが。
3日後に茶封筒が届いた。散ってしまった桜の枝と七分咲きの桜の枝が黒いサテンのリボンで結びつけてある。
今度は御苑に行く必要はなかった。どちらの枝にも苗木屋さんで使うようなラベルがついていたから。
花びらを失って赤いガクだけを残した枝にはCerasus × yedoensis、七分咲きにはCerasus jamasakura。
ソメイヨシノとヤマザクラだ。
夏の大学院推薦入試に向かってとりあえず英語力を上げようとイヤホンをして問題集を解いていた大島は、「What’s that?」と尋ねた。
「また桜の枝。ソメイヨシノとヤマザクラ」
「見せて?」
ソファの前のテーブルに結わえ付けられた二枝を置くと、大島はじっと見つめてからゴミ箱に放った。
私は長風呂しながら思い巡らせた。黒いリボンの光沢が忌まわしい。どうしても死を思ってしまう。
「吉野は死んだ」って意味?
ソメイヨシノと吉野山を埋め尽くすヤマザクラ、どちらも吉野を思わせる。それを大島に送ってくるなら、「おまえが吉野を殺した」って言いたそう。
それともそれは、私が疑ってるからそう感じてしまうバイアス?
茶封筒は郵便だった。3日前の宅急便の送り主は偽名。電話番号と住所もちぐはぐで、電話をしても「間違い電話です」と切られた。
「何なの、これ……」
翌朝から大島がまた私に構い始めた。いや、夜のことは21歳前後の男らしく途絶えていなかったのだけど、日常でというか、恋人扱いというか。
「小旅行にでも出かけないか?」と言うのだ。
「受験勉強は?」
と、からかいを声に含ませると拗ねかけて、
「いいだろ、ちょっとくらい。英語アプリはどこでもできるし、何の研究したいかなんて閃くの待つしかない」
と答える。
「だったら沖縄行ってみたい!」
「おきなわ~?!」
車で行けるところを想定していたのだろう。
この頃になると私も、初めての男に言いなりの小娘ではなく、わざと困らせたり反応を見たりできる本性を発揮していた。
「まだ泳げんのじゃないか?」
「さあ、私はハイビスカスとか芭蕉とか、そこに生えてる植物が見たいだけだから」
大島は一瞬「つまらねぇ女」という顔をして笑顔を作った。
「やっぱ、花好きなんだなあ」
「あら、屋久島にだって、知床半島にだっていつか行ってみたいけど?」
「ふぅ~ん」
最近の大島にしては珍しくテキパキと飛行機とホテルを押さえた。私のインターン日を外してくれたから文句はない。
2日後には那覇空港に降り立ちレンタカーを乗り回し、冷たい海にも入ってみた。
ちょうど中日の夜、満天の星の下、波の音を聞きながら「ずうっとオレの傍にいてくれよ」と言われた。ハッキリ言って想定外。
最後の思い出作り、「オレたちもう冷えてるよな」とかって言われたほうが納得できる。
私はインターン後そのまま就職できそうで、それと比べて自分は院に行けるかどうかわからない不安感が言わせたのだろうか?
プロポーズ紛いの言葉を「さあ、どうしようかなあ?」と笑って聞き流して砂浜を駆け出すと、大島は追っても来ずに、その代わりホテルに帰ってから濃厚な夜の相手をさせられた。
それでも私の頭の片隅はクールで、「気持ちよくしてくれて嬉しいけど、あの頃の私とは違う」なんて言葉が浮かぶ。
帰ると、京都のマンションにはまた茶封筒が待っていた。
配達後数日たったのかもしれない、中の桜は萎れていた。ヤマザクラと白花の桜が前と同じ黒いリボンで結びつけてある。
大島は「旅行で疲れた。それは外に捨てて来い」と言って部屋に閉じ籠った。
4回生になって、私はインターン出勤を週3日に増やした。研究職だから有給で厚遇されている。経済的にとても助かった。
学業のほうは、卒業研究のデータをまとめて論文提出できれば一段落、担当教官の指導を受け内容をブラッシュアップしながら、年明けの卒論発表に臨む。準備さえしっかりしておけば、毎日頭を悩ます問題でもない。
自分が半社会人のような生活になると、大島の甘えが鼻につくようにもなった。
「英語一緒に勉強して?」とおねだりされても、もう可愛いと思えない。
社会人になったら英語ができずに困るのは自分。
特に私の勤務先の種苗会社は海外の提携先や農園との交渉が多く、海外事業部の電話は英語が飛び交っている。
学会にだって必須な英語、自分の将来のためなら誰の助けがなくても、コツコツ勉強するもんじゃないか?
案の定大島は初夏の推薦入試に落第した。
秋口の一般入試で、他の大学から京大の院を目指す意欲旺盛な学生たちと競合するのは無理と判断、結局、近くの有名私立大学理工系の院に合格。
「遺伝子そのものよりもITだ。DNA読み取って比較するのに時間がかかり過ぎる。そのイノベーションに携わりたい」と本人は言っていたが。
私は1月中旬に卒論発表を済ませた。
「さすが、ソツがないね。質疑応答も堂がいってたよ」
インターン推薦などでお世話になった農学部筆頭教授が褒めてくれた。
「大島君は残念だったねぇ」
もし心から大島を愛していたら、「落としたのはアンタでしょ!」と教授にツッコんでいたかもしれないが、私ももうそこまで彼に思い入れはない。
「子供のころから頭が良くて、何でもできて見た目もいいと、努力の仕方を忘れるのかもしれません……」
私が呟くと先生は「そんなこと言っていいの?」と顔を覗き込んできた。
「どこか、自分の褌で相撲取ってないような印象を与えるんだよね。熱意を感じないというか」
あ、そうだ、教授は鋭い。大島は中身が薄いんだ。
吉野なんて中身しかなかった。外からどう見えるかなんてどうでもよくて、その真面目さと誠実さでかすみの心を射止めたのだろう。
「今のDNA泳動法は改善の余地がたくさんある。時間がかかり過ぎるのは確かだ。でも阪大の基礎工学部とか先端を走ってるところもある。技術に文句を言われても、ね。うちの農学部だからこその視座を強調してくれたらよかったんだけど」
「そうですよね」
私はよくわからないまま頷いた。
大島は私に、自分の学士論文の内容も修士で何をやりたいのかもわかるように説明してくれたことはない。
「吉野君や支倉君のような研究目的がはっきりしていた子たちが惜しまれるよ。大島君の邪魔者は彼自身だったってこと……」
「え? 邪魔者、ですか?」
「そう。なりふり構わず努力できない、エゴっていう名の邪魔者」
――JA・MA・MO・NO――
教授のしわがれた声が頭に響いた。
「それってどういう意味ですか、先生、大島は、吉野やかすみを邪魔だと思っていたように聞こえます!」
「意識してたかどうかは知らないよ? でも院にだって定員も予算もある。あの2人が学内にいたら、大島君に推薦は出してないよ……」
バサリと手に持っていた資料を取り落とした。PCを落とさなかっただけよかった。
「失礼します」
私は逃げるようにキャンパスを飛び出し、バスに飛び乗り烏丸今出川へ向かった。行き先は京都御苑。
敷地内に入って南に下がる。ちらほら咲き始めた梅林の向こうに蝋梅が黄色く煙っている。
ふらふらと歩き続けた。
蝋梅の芳香に包まれながらその横の、まだまだ裸木な「出水の枝垂桜」の威容を見た。
その向こう、仙洞御所のほうに山桜があったなあなんて思い出しながら。
――山桜の学名は、ケラスス・ジャマサクラ
何で綴りがyamazakuraじゃないんだろう? jamasakura だなんて「邪魔・桜」みたいじゃん。
ヤマ、ジャマ。
黒いリボンで結ばれた2本の桜の枝。ソメイヨシノ・ジャマサクラ。吉野・邪魔。
最初に届いた山桜でいっぱいの宅急便。邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔……。
じゃ、沖縄後のあの2本は?
大島が外に捨てに行けと言ったあの2本。
ジャマサクラと何が黒いリボンで結ばれてた?
樹皮から言って桜だった。思い出して、佐保、あれは、何ザクラ?
花びらは萎れていたけれど白かった。一重。葉っぱが出てた。山桜より花びらが、大きかった? 小さかった? わからない。