熊野古道に那智の滝、露天に桜
午後4時過ぎ、杉木立が影を落とす延々と続く古い石段をどんどん登っていた。
大島が先導していて、たまに振り返って私たちの様子を窺う。もしかしたら滅多に見られないかすみの上気した頬を眺めて嬉しくなっているのかもしれないけれど。
足音や鳥の声、木々の騒めきはあるけど静かな、しんしんと耳鳴りのように鼓膜を震わす巨木の森。
たまに「こんにちは」と声をかけながら私たちを追い越していく元気なグループにも出会った。
日ごろの運動不足がたたって息が上がってしまい、私は似たような体力のかすみに、ちょっと一息つかせてと頼んで足を止めた。
「かすみたちが宿に一番乗りだと思ったんだけど遅かったよね」
私は立ち止まって自分たちを見ている大島のために、情報を引き出して使える女だと思ってほしいという、疚しい心を隠してかすみに問いかけた。
「紀伊大島に行ってきたの」
ストレートの黒髪に縁どられた、普段青白いくらいの頬がいっそう紅潮して見えるのは、石段登りのせいだけだろうか?
「紀伊大島?」
「串本にあるの知らない? うちの農学部の亜熱帯植物研究所だよ。1回の時、フィールドワーク研修のあったとこ。紀伊大島、船で渡ってたのに橋ができて地続きになったからね、植物の病害虫がどう入り込むか研究してるんだって。うちの助教授に頼まれた届け物があって、吉野くんに連れて行ってもらった」
「そうなんだあ。こんなときまで大変!」
大仰に驚いて見せても心は晴れなかった。
研究所が串本にあると認識していなかったせいもあるが、それにしても今時届け物って? 病原菌類だとしてもクール宅急便で良くない?
来る前にはそんな話してくれていない。
吉野とかすみは、院に残ると早くから決めているようだから、就活しようと思っている私とは、所属研究室へののめり込み方が根本から違っているとはいえ。
大島はかすみの話を信じたのか、くるりと前を向いて楽しげに、一段飛ばしにぽんぽんと先に進んだ。
がらりと明るい拓けた場所に出たらしく、
「おい、ここまでだから頑張れ!」
と声をかけてきた。
朱莉と千葉カップルも合流して、全員そろっての滝周り散策は楽しかった。かすみとだけじゃ落ち着いた話ばかりになる私も、朱莉がいると気楽にはしゃげる。
優美でありながら迫力満点の那智の滝には、男性陣も一様に「うぉー」「すげぇ」と声を上げた。
数時間後、洞窟の天井をきのこのような柱で支え、視界が太平洋へと開けている有名露天風呂で手足を伸ばした。
熊野古道込みだとしても、午後数時間の散策だけで既に筋肉痛の予兆が出ている。園芸作業にも体力が要るのに冬は研究室籠りが多かったな、などと反省しながら眩しい水平線を眺めた。
朱莉のはしゃぎようはいつものことだけれど、かすみが楽しそうにしていることが妙に嬉しかった。
民宿に戻り午後8時から吉野も含め、皆で夕食。
黒潮に揉まれた海の幸に舌鼓を打った。豪快なお造りよりも、マグロの漬け丼が美味しいと思ってしまう自分はやっぱり庶民丸出しだ。
午後10時前になって吉野は、
「明日はこの旅の目的、お花見だからね! 午前10時串本町町営駐車場集合、ここからだと車で40分かかるからちゃんと来てよ」
と言った。
千葉は熱燗を引っかけていい気分で、「一緒に泊まれよ」などと吉野に絡んでいたが、大島は決して「それがいい」とは言わなかった。
吉野は、「植物サンプル採集セット持ってきてないから帰るよ」とひらひらと手を振って、私たちの部屋を出ていった。
千葉は朱莉と2人部屋でしっぽりしたかったようだが、大島のような狼を女子部屋で寝かせるわけにはいかない。
結局「酔っぱらうからラブホにも行けねぇだろうが」と大島にツッコまれ、男子は肩を支え合って2人部屋に退散していった。
大学生6人が食べ飲み散らかした女子部屋は、かすみと朱莉が軽く汗流してくると言って出ていった間に片付けられ、3組の布団が敷かれた。
私は貧乏性でご飯をたくさん食べたせいかもうお風呂に未練はなく、夜気がひんやりと伝わる縁側の籐椅子でお茶を飲んだ。
南紀の夜は美しく、静かになると宿まで波音が響いてくる。私は来てよかった、この土地が好きだと思っていた。
翌朝10時前、吉野の地元の、勝浦より南に位置する串本町の駐車場に着いた。
「狭い山道通るから、昨日みたいに大島の車は置いていったほうがいいよ。もったいない」
と言われて大島も異論はなく、かすみと私と吉野の四輪駆動車に乗り込んだ。その後を朱莉を乗せた千葉が追走する。
かなり山奥にその幻の桜の名所はあるらしい。
まず近くのコンビニで飲み食いしたいものを買い込んだ。
そして海岸沿いを勝浦方面にちょっと戻ってから、川の手前を左折して、そのまま川沿いを北上する。2台の車はどんどん山に入っていく。
集落が結構続き、こんなところにも人が住んでるんだわなんて失礼な感想も持った。昔から熊野詣に来る人々がいたのだから、普通の宿も温泉宿も茶店も村もあっただろうに。
そういえばかすみは車に酔うと言っていた。川の蛇行に合わせて道は右左にうねっている。
隣があまりに静かだから気になって声をかけた。
「かすみ、気分とか大丈夫? 車酔いとか?」
かすみはビクッとして私のほうを振りむくと、美人の笑顔で「ありがとう、大丈夫」と答えた。
車がかなりの傾斜を上がっていく。横を走る川の幅は細まり、小さな滝を連ねたような急流になっていた。
濃い緑色の深そうな渕が対岸に現れたと思ったら、それに背を向けるように道なりに曲がった先で、車に射し込む陽が急に明るくなった気がした。
「ここだよ」
吉野の声がしてかすみが「すごい……」と呟いた。
その横顔の向こうの車窓に見えたのは、舗装された小さな駐車場と山に抱きかかえられた薄桃色の綿菓子。一面の桜だった。