祝賀会のスピーチ後に
―◇―
壇から降りて裏を廻ってきた夫に袖を引っ張られた。ホールの外に会わせたい人がいるという。
「何、あのスピーチ」
私が抗議しようとすると、「その話は2人に会ってからのほうがいい」と耳打ちした。
そこにいたのは、車椅子の吉野浩章とそれを押す支倉かすみだった。
夫から随分前に「結婚して串本にいる」と聞いてはいたけれど、会えてはないし、車椅子だなんて知らなかった。
「佐保!」
かすみが声をかけてくれた。学生時代より日に焼けて健康的に見える。サラサラの黒髪は今でも長いけれど、後ろでひとつに括っているようだ。
「深山さん。というより葛城さんだね」
「吉野、吉野、足が悪いの? これ、私のせい?」
「誰のせいでもないよ。確かに僕と大島は揉めて、僕は海に落ちた。腰をひどく打ったらしい。意識は戻らないし目は覚めても言葉がしゃべれない。助けてくれたのは遠くから来てる釣り人で、フィッシングキャンプまで担いで帰ってくれたけど、管理人さんも地元の人じゃないから僕が誰かわからない。病院に運んでもらい、でも身元不明の入院患者としてで、家族と警察への連絡が遅れた」
「大島にケガさせられたんじゃないの?」
「殴られそうにはなったかな。でも避けたんだよ、避けすぎたっていうか足を踏み外したっていうか、こんなになっちゃったけど、大島を訴えるほど彼が悪いわけでもない」
「でも落ちたなら探すとか助けを呼ぶとかしなくちゃ……」
「動機と状況が完璧に揃ってしまっていて、アリバイ工作までしてたんだろ? 殴ってないと言い張っても信じてもらえそうにないし、逆に突き落としたんだろう、殺す気だったんだろうと言われる、そう思ったらあの場にいなかったことにしたくもなるかな」
「そういうもの? 吉野、優し過ぎる」
「大島くんは何といって君を呼び出したの?」
夫が横から問いかけた。
「あの日、6時前だったかな、『深山と一緒なんだけど、気持ちの整理がつかない。夕食後、9時に潮岬で会ってくれないか。頭冷やしたい』って」
「私は行くなって言ったのよ」とかすみ。
「あんな形で失恋を突きつけてしまったから、大島の恨み言くらい聞く義務があると思ったんだよ。大島は呼び出したけど気が変わって出かけなかったと警察で言い張ったって」
「今は幸せ?」
私は吉野とかすみの顔を交互に見ながら尋ねた。
2人は同時に頷いた。
「大変だったの。意識が戻ってもこんな身体だからって連絡もくれなかったんだから」
かすみははきはきしっかり話す女性になっている。
「事故の1年後はまだ連絡がついてなかったんじゃない?」と夫。
「そうでした。ご実家に聞いても『浩章はいない』と言われるだけで」
「リハビリ病院に入ってたからね」と吉野が舌を出して見せた。
「特にかすみには言わないでって家族に頼んでた。こんな姿見せたくないって」
「この人そんなことも教えてくれないから、私は全くの行方不明だと、死んで死体が黒潮に流されてサメに食べられたんだろうって、大島憎しの一念でした。大学辞めちゃって仕事もないし家に居ても気が滅入るばかりで、もう一度だけこの人の生まれ育った土地を見ようと思って出かけたの。偶然、亜熱帯植物研究所でアルバイト募集してて、それで串本に住みついたらウワサを聞いて、白浜の病院に居たこの人を見つけたってわけ」
「こんな男の介護して一生終わる必要ないっていうのに結婚しろってうるさいから」
吉野、それはのろけだ。
「なんで支倉姓にしたの?」
夫が尋ねた。
あ、そうなんだ、支倉なんだ。結婚したって聞いても姓までは知らなかった。もしかしたら支倉浩章になったから、夫にも吉野をすぐには見つけられなかった?
「吉野より支倉のほうが断然カッコいいでしょ? というのは半分冗談ですが、大黒柱はかすみのほうだって意識があって……」
「相当頭に来てたんです。リハビリのサポートもさせてくれないなんてどういうつもりなのって。重荷だとかごく潰しだとかバカなことばかり言うから、『そうまでいうなら一生面倒見るわよ、支倉浩章になりなさい!』ってタンカ切っちゃって。研究所、その時既に正社員にしてもらってたし……」
かすみものろけだわね。
「僕もバリアフリー化コンサルタントみたいな立場で一応収入はあるんだよ?」
「森林総合研究所の嘱託職員でもあるじゃないか」
「てへっ」
夫が私の頭をぽんぽんした。
「佐保、さっきの僕のスピーチいい加減に聞いてただろう? 共同研究者としてこの人の知識と郷土愛、貢献を無視することはできません、支倉浩章さん、謹んで感謝の意を表しますってちゃんと言ったよ? ぼうっとしてるから『あの謎解けた』って最後に付け加えたんだ」
「でも、そしたら学名の末尾、H.Hasekuraにしたらよかったのに、あんなスピーチして私の貢献なんて何にもない……吉野はそれでよかったの? あんなに大切な特別な桜の名前なのに」
支倉姓でも私は愛称として吉野と呼び続けることにした。
「葛城さん差し置いて僕の名前つけるなんて怖くてできないよ。再会して7年かな、葛城さんがどれだけ日本各地飛び回って中国にも行ってこんな桜は他にないと証明したか。僕はあの桜が認められ守られればそれでよかったんだ。固有種だなんてそれだけでワクワクだ」
吉野の笑顔に他意はなかった。私は夫にも微笑んでもらって安心した。
「大島くんも貢献してるから」
夫がまた突然ヘンなことを言う。
「凄い量の桜、特にヤマザクラのDNAチェックをした。このコストと時間でできたのは、あのチームが開発したソフトのお陰だ」
「そう……」
7年前、種苗会社の研究室勤めを続けながら大島との関係を清算した。というか私は逃げ出しただけだった。
今は夫になった葛城が「外堀を埋める」と言った手際に瞠目するばかりで。
浜離宮庭園を歩いた日から10日後には、大島宅にあった私物が全部、実家に届いた。
引っ越し屋さんだと思った若い男性は、会社の先輩だったらしく、翌日職場に現れて、昼食に連れ出された。
近所の定食屋で「改めましてミヤマザクラさん、初めまして」と頭を下げられ、「いえ、深山佐保です」とそのまま答えたら先輩はお腹を押さえて笑った。
値踏みされているようで、居心地悪くて葛城さんとどういう関係か聞くと「学閥です」と。どちらも東大農学部卒らしい。
「先輩のあの一本調子の丁寧語で言われるとノーと言えないんですよ。感情に訴えかけないから逆に恐い。深山さんはアメリカの農業試験場に出向駐在って話にしてくれってウソつかされて。僕はいいんですけどね、僕の仕事、樹木種子の輸出で、世界のBONSAIファン垂涎の的、矮性五葉松の種子を大量に都合してくれるって約束してくれたんで」
「もしかして葛城さん、こちらにいらしてたんですか?」
既に遠距離片想いだと悟っていた私は、連絡が無かったのが淋しかった。
「有名私大のITソフトを見に行ったと言ってました。スッゴい量のDNA解析したいらしくて。僕と会った後は大好きな南紀に高速飛ばしたハズです。深山さんは当分飲み禁止、特に学生の行くような飲み屋には行くなとの伝言でした」
大島と会っていた。どう言い含めたのか、大島が引っ越しを邪魔することも、私を捜すこともなかった。
そして次の日には葛城は、かすみたちが見つかったと職場に連絡をくれたのだった。
その後は、熊野の山縦走、奈良県をしらみつぶし、四国のフィールド調査とか、桜の季節に関西方面に来るとふらりと会ってくれた。
丸2年たってから独身であることと、「僕は最初から君に惚れてる。山奥にポツリと咲いたミヤマザクラを見つけた気持ちだった」とやっと言ってくれた。
「あんなヒーリング・セッションなんかすると、その場で僕に執着する人もいるんで極力距離を置くんだが、実はこっちの方が先に落とされてた」って。
でも困ったことにどんなに好きな相手でも、私の身体は夜のことができなくなっていた。優しくゆっくりされるとよほどあの夜を思い出して身体が強張る。
「僕を樹木だと思えばいい。このままでも構わないんだよ」と言ってくれて救われたけど情けなくもなった。
「浜離宮で松に触れながら話した。あんな調子で僕に触れ、縋っていればいい」
身体をアンロックするキーワードは、思えば単純だった。大島があの夜私に言わなかった、言えなかった言葉。
「好きだ、好きだよ、好きだ……」
葛城が私を抱きしめて苦しそうに洩らすこの言葉が、私の氷を少しずつ、解かしていった。それでも出会ってから5年、両想いから3年かかって晴れて結婚。
「佐保、ふたりに聞いてみてよ、あの謎の答え」
回想に浸っていた私に夫が囁いた。
「もう解けたんじゃないの?」
「いや、解けたも同然だからああ言ったまで。僕には支倉くんはごまかしてばかりだ」
私はニコッと顔を上げ、かすみの瞳を覗き込んだ。
「あの日、吉野はどうして、かすみのスリーズピンクのリップ持ってたわけ?」
かすみの、日に焼けてはいるけど色白な頬が急に紅くなる。
「もういいじゃない、そんな古いこと……」
「そんな言えないような疚しいことがあるの?」
車の中で恥ずかしい用途に使ったとか……と私は意地悪な顔をした。
「いやね、佐保、違うわよ。アオハル過ぎるだけ」
「この謎が解けるまで僕たちは友人だと妻に言われてまして、かすみさん、もう友達関係は卒業したいんですが?」
夫、そういう物言いは私にしか通じないって。ほら、まだ大人の関係じゃないのかって誤解されたじゃない。
口を割ってくれたのは吉野のほうだった。
「かすみはあの日初めて口紅を塗った。それも僕の親に会うために。それがとても嬉しくて艶めかしくて、どうしても僕にくれとねだったんです。胸ポケットに入れてた」
「間接キッスして喜んだわけじゃないんだね」
「もう、葛城さん、また一本調子でバカなこと言わないでください!」
吉野がかすみよりも真っ赤になって、私たちは逆に、「あ、もしかして」と思ってしまった。
それが夫の情報収集の常套手段だと私にはもうわかってしまっている。
-了-




