ミヤマザクラ、カスミザクラ、エドヒガン
葛城さんは輪をかけて静かな声音で話した。
「同棲は解消できますか? とりあえず何もかも置いて離れてしまったほうがいいです」
「実家に帰ることはできますが、荷物も置きっぱなしでですか?」
「彼はあなたがあの夜のトリックに気付かないように、2年も恋愛ごっこを続けている。あなたの心がもう卒業してしまったことも気づかずに。そんな相手と居ることは、1分1秒でもあなたのためになりません」
「じゃあ、やっぱり、無理ですね……。黒いリボンのオオシマザクラを見た時、というか、あれがオオシマザクラだと知ったときですが、嘔吐してしまったんです。今はぼうっとしてますが、きっと私はわかってしまってる……」
虐待といってもいいほどのつけ込まれ方を許してしまったと。
また沈黙が流れた後で葛城さんが口を開いた。
「あなたは京都に、あなたをとっても心配している男がいること、知っていますか?」
「え、知らないです、お世話になった教授とかでしょうか?」
「その反応は脈なしなのかなぁ。森林科学科の関西弁の後輩君、すごい勢いで電話してきましたよ?」
「あの子? 名前も知らないのに!」
「もう自由になって、恋をしてください……」
急に気になった、葛城さんはきっと奥さんとか恋人とか大切な人がいる。私が腕を借りてていい人じゃないのかも。左薬指にリングはないにしても。
「気になってることがたくさんあります」
葛城さんのはっきりめの声がして、私は腕から離れ、姿勢を正した。
「は、はい」
「封筒の消印のことを聞いた時に、『去年のは記録できていない』と仰いました。去年、邪魔邪魔宅急便だけでなく、郵便もあったんですか?」
「はい、お話しし忘れてました。宅急便の後、ソメイヨシノとヤマザクラの黒リボン、そして白い桜とヤマザクラの黒リボンでした。あれはオオシマザクラだったのかもしれません」
「去年からもう始まってたのか……」
「あ、去年のソメイヨシノとヤマザクラには学名がついてました。ソメイヨシノは花びらがなくガクだけ状態で、学名ないと私にはわからなかった。でもそれで死んだ吉野を表現してるのかなって。もしくは『吉野を邪魔だと思ってたんだろう、知ってるぞ』と大島に見せつけたのか。ヤマザクラの学名がjamasakuraだと知ったのはその時です」
「これは希望的観測なのだけれど、去年のと比べて今年のは、格段に桜オタク度が増えてます。これが吉野くんが生きている証だったら嬉しい……」
「確かに、ミヤマザクラとカスミザクラは京都御苑にもありません」
「その通り。特に観賞用ではない。ミヤマザクラは名前の通り山奥に生える。カスミザクラはヤマザクラより高地に生えるから品種として個性を保てている。開花時期は遅くて、他の木々が芽吹いてからだから花も目立たない。知ってる人じゃないとどちらも見つけられない。そして罪はないとわざわざ白いリボンで送ってくるほど気持ちは落ち着いている。去年の邪魔邪魔宅急便の悲痛な叫びというかヒステリーっぽさがない」
「吉野が生きてるかもしれない……」
「逆に死んでいたら、警察の追及はもっと激しかったはずだ。アリバイだってもっと何度もしつこく聞かれたはず。えっちしてただけなのか、薬盛られてないかとか、あ、失礼」
言葉が過ぎたかと私の心配をして葛城さんは私の表情を確かめた。
大丈夫そうだと思って続ける。
「黒潮に流されて死体が発見されなかったとしても、捜索願が出された限りもう少し捜査したはず。あ、ちょっと待って……」
葛城さんは独り言のようにそう言ってスマホを操作した。
「やっぱり。失踪者リストにも吉野浩章の名前はない。捜索願は捜査中に取り下げられた可能性が」
葛城さんは両手で頭を抱え、その後口に手をやって、短髪を掻きむしってから顎に手をやった。
「かすみさんの専攻は?」
「植物病理学です」
「……去年はかすみさん、今年は吉野くんの送付? いや、今年は共同作業か。じゃあ」
といって葛城さんはまた口に手をやる。
「いずれにせよ、だ。今年の送付物の選択は、吉野くんだと思ったほうがいい。となるとだ、エドヒガンの問題に戻る……」
あ、葛城さんは真面目にエドヒガンの謎に取り組んでいたんだとクスッと笑ってしまった。
「相手の思考と知識レベルに自分を置かないと、わかるものもわかりませんから」
真面目に答えながら、内心ちょっとムッとしたのが感じられて、葛城さんってかわいいところもあるんだと思った。
「仲良し6人グループの中の公認カップル。それをエドヒガン1本で表せる? それも罪がある、邪魔だなどと吉野くんが思うだろうか? 自分に危害を加えた大島くんは仕方ないにしても。というか、去年かすみさんが送ってしまっているから同じものを用意したとか……」
「あの、この届いた順番って何か意味があるんですか?」
全く助けにもならないだろうけれど、自分の疑問をぶつけてみた。
「ああ、順番は単なる開花順だと思います。ソメイヨシノとエドヒガンはヤマザクラより早い場合が多いですから。場所によって個体によって、ヤマザクラはバラツキがあるんですけどね。オオシマザクラはヤマザクラと同時期ですし、ミヤマザクラは遅過ぎるから枝状態にしたんだろうし、カスミは今ごろ」
「そうなんですね」
「いや、そうなのかな?」
説明した舌先の乾かないうちに聞き返されてもこっちも困る。
「このミヤマザクラの枝切れ、あなたへのメッセージ籠ってませんか? このままじゃミヤマは花も葉もない人生だって」
ぶっと吹き出してしまっていた。
さっきボロボロに泣いた自分からもう立ち直っている。葛城さん特有の平坦なジョークに慣れたせいかもしれない。
葛城さんは表情は全く変えずに専門的な桜の話に戻した。
「開花時期でいえば、確かに、エドヒガンは敵です。もし吉野くんの串本桜が新種のサクラであるなら、花の時期が近いエドヒガンは近くに植えてほしくない。交雑してしまう。串本桜は若くても花をつけるらしいから、すぐにエドヒガンに負けることはないでしょうが、エドヒガン、大樹に育ちますからねぇ。勝てないかもしれませんね」
園芸植物では優良品種を得るために積極的に交配を行うけれど、野生種が交雑して弱い種が駆逐されていくのはいけないこと、生物多様性面で問題なんだ、わかっていながら改めて気づかされる。
「でもね、串本桜に興味のないだろう大島くんに送りつける理由にはならない。通じないもの。吉野くん失踪の事情にもっと直結している意味があるはず。基礎知識からおさらいしてみますか」
「日本には桜の野生基本種が10種あると言われます。ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ、エドヒガン、チョウジザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、ミヤマザクラの9種と、まだ議論の余地のあるカンヒザクラを入れて10。吉野くんの串本桜が入ってくると11種になるんですけどね」
葛城さんの桜講義、知識を整理しているのだろうから傾聴しようとしたら、次は問いかけだった。
「深山さんは園芸専攻ですよね、桜の園芸種、信じられないくらい数ありますよね」
「はい、それも漢字の難しい名前ばかり」
「そうそう」
葛城さんがクスクス笑う。
「京都御苑と言えば、『御所御車返し』。あやかしみたいな名前であのまるッとした花の付き方がたまりません」
生えてる場所まで憶えていそうな笑顔だった。
「でも今回は、園芸品種は特に関係なさそうだ。出てきたのはソメイヨシノだけ。ソメイヨシノはオオシマザクラを父、エドヒガンを母として生まれました。両親はどちらも野生種。エドヒガンという名前に江戸とつくのは江戸ではお彼岸頃に咲くから。とは言っても日本各地に見られて、うん? 分布は青森から鹿児島までだったか?」
葛城さんの手がはたと止まった。話しながらひらひらしたり、握り合わせたり、頭をマッサージしたり、思考を助けていたようなのに。
「朱莉さんの名字、何でした?」
「石川です」
「彼氏の名は?」
「千葉啓斗」
「ハッ、僕としたことが。黒リボンだから悪い意味だろうと腰が引けてた。吉野くんにしてやられましたわ。ハハハハ」
葛城さんは立ち上がって快活に笑っている。東屋の外に数歩出て伸びをした。
くるりと向き直る。
「エドヒガンの謎解けました」
自信の籠った声だった。残念ながら逆光で、表情が見えない。
「分布が無いんです。エドヒガン、本州では千葉県と石川県には自生地がないんですよ」
「それが?」
「エドヒガンは串本桜の邪魔だから黒リボン。でも千葉と石川はないからあのふたりは関係ない。心置きなく黒リボンで結べる。彼らはシロで、大島くんの単独行動です」
「あ、ああ」
「話したことがあるんですよ。串本桜みたいな桜、他の都道府県にもあるのかって質問受けて。ヤマザクラに紛れていたらわからないかもね。でも串本のほうが早く咲く。じゃあ、エドヒガンのないところのほうが狙いだ。例えば北海道とか。あれ、千葉県と石川県に無いって知ってる?てな調子の会話になりました。憶えててくれてるんだなあ」
「吉野は桜のことなら何でも憶えてるでしょう」
私は軽口を言うことにした。
「ええ、僕と一緒で。となると一連の、この桜枝のメッセージは僕宛なんじゃないかという気がしてきました。特に今年のは。大島くんに送りつけてもエドヒガンのことなんてわかりゃしない。恐がらせて呪いを強めるくらいです。僕を密かに召喚してるかもしれない」
「ショーカン、ですか?」
ラノベのような言葉が出てきた。
「吉野くんは、深山さんが僕に連絡を取るのは時間の問題だと思っていた。とはいっても、『葛城さん、花も葉もないシロザクラを助けて』だと思いたいのは僕の深読みだろうな」
葛城さんは今度は外向きに、池を見下ろして話した。
「あーあ、残念だ、謎は解けてしまった。深山さんを引き止める理由がない」
でもやはり声が一本調子で、桜の名前を列記しているようで、気持ちの入った言葉なのかどうか判断しかねた。




