樹木専門家のヒーリングセッション
葛城さんは黙って歩いて、墨田川か東京湾かわからない、庭園外の水面が見える土手に足を止めた。特大の松の木が木陰を作っている。
「あなたが桜専門の僕に求めるのは、なぜエドヒガンに黒リボンが巻かれているかなんだろう。他のことにまで首を突っ込まないほうがいいと思いながら僕は止められない。あなたはクロだと言いながらその大島くんと今も一緒に住んでいる。利用されていると知りながら……」
私はうなだれた。初対面の男性にあの夜何があったか話せるほど面の皮は厚くない。でももう何をどう考えたらいいのかわからなかった。
「今日中に京都へ帰るんですよね?」
「はい、その予定です」
明日も休みだけれど、泊まる準備はしてきていない。
「よし、それをデッドラインにしよう。京都行きのぞみの最終は9時半。それまでに僕はエドヒガンの謎を解く。仕掛けてきているのが吉野くんかその彼女なら、僕に解けないはずがない」
葛城さんが細面にちょっと照れた春の午後の笑顔をまとった。
「閃くまで、深山さんの問題に首を突っ込みます」
「へ?」
腑抜けた返事をしてしまった。夜の9時半まで、私に付き合うと言っているらしい。
「だから、急がなくていい。話したいこと、話せることだけ言えばいい。それは僕の課題を解く助けになると思ってくれ。僕があなたをここへ連れてきた理由、それを試そうじゃないか」
改めて長身の男性を見上げた。スリムなせいか、大島より背が高く感じる。
人当たりはあくまでソフトなのに、何を考えているのかちっともわからない。頭の回転は、すこぶる速そうだ。
「この松の木に助けてもらおう。両手をついて木肌に触れてごらん。松は小判型にゴツゴツしてるよね。松脂が手につくかもしれないが、服に付くよりはいいだろう」
そういっておいて葛城さんはくるりと背を向け、太い松の幹の向こう側に凭れた。私からでは両足、両腕、両肩しか見えない。
「木は触れるだけで相手の気持ちを理解します。あなたに起こった悲しみも怒りも全て。少しの間そうしてたらいい。気が向いたら僕の質問に答えて……」
ヘンな人だと思った。こんなセラピーでもあるんだろうか?
しばらく沈黙が続いた。
小鳥の鳴き声がする。松の、松脂のいがらっぽいくせに心が落ち着く香りがする。
なんだろうと思ったら仏壇のお線香の匂いを思い出した。
葛城さんは、エドヒガンの詳細を思い巡らせているのだろうか、吉野との思い出を辿っているのだろうか。
私は我知らず、額を松の木につけて、ふうっとため息を吐いていた。
「大島くんはかすみさんが吉野くんを選んだことを知らなかった……」と聞こえてきた。
葛城さんは背中向けのまま、虚空に話している。
「私たちも、あの日、吉野がかすみを下の名前で呼ぶまで……」
「突然だったんだ?」
「はい」
「大島くんは君に好かれていることを知っていた……」
「告りはしませんでしたが、朱莉もかすみも知っていたから筒抜けでした。かすみは自分が大島から告られた時打ち明けてくれましたし」
「そう」
その後沈黙が続いて私は自分から話しだしてしまった。
どうも、葛城さんの「そう」というイエスでもノーでもない相槌は、私を不安にさせる。
「串本の桜を語る吉野は輝いていました。やっかみたくなるくらいに。かすみが親に会ってくれて正式な交際になったせいもあったでしょうが、地元で研究目標やあの桜のことを話す時、私でもすごいなと思ったから……」
「そう」
「……」
「かすみさんと吉野くん、お似合いだった?」
「はい、2人とも研究の虫で、ターゲットがしっかりしてて……」
「そう」
「2人が付き合ってるとわかった後の、皆の行動を教えてください」
「吉野とかすみは吉野の実家に帰ったはずです。千葉と朱莉は『美人の湯』に行って、その後京都に帰るって」
「大島くんとあなたが残された……」
「はい」
「あなたは大島くんの誘いを断れなかった……」
「断らなかったのは私の意志です。あの時は、ちゃんと好きでしたから……」
「そう」という相槌も来なかった。
私のバカさ加減に葛城さんも呆れたと感じた。もっと話してしまうとあきれ果ててしまうのだろうと。
かなり間が開いてから聞こえてきたコメントには私のほうが返事できなかった。
「強いですね。自分で利用されたと認識しているのに、その時の気持ちはごまかさないでいられる……」
「イジメに遭ってる子がヘラヘラ笑っていることがある。もう自分で心を麻痺させて感じないよう考えないようにしたいんだ。だのに、いじめっ子側はまだ大丈夫なのかとイジメをエスカレートさせる。そして大事に至ってしまう。イジメられている、利用されていると認めることがどれだけ大変なことか……」
「あなたは強い。自分で利用された、悪用されたと認識している。でもそれはもしかしたら、あなたの身に起こったこと自体よりも辛い……」
出そうにも声が出ない。
「潮岬からさほど遠くないホテルか温泉宿にあなたたちは泊まった。皆スマホを持っているから、部屋の時計を進めるなんてアナログな方法は効かない。あなたの時間感覚、体内時計を狂わせるようなことを大島くんはしでかした……」
歯を噛みしめるしかできなかった。
「大島くんが吉野くんをどうやって呼び出したかは、警察は把握していたはずだ。電話でもラインでもメールでも記録は残る。潮岬なんてところに来てくれと言ったなら、誰だって警戒するし疑う。それを切り抜ける方法を思いついていたわけだ」
そこで葛城さんはくるりと私のほうを向いた。というか松の木を挟んでだから、顔は見えない。
「そういうのを、小賢しいって言うんだ。深山さん、あなたはそんな男の呪縛から離れるときです」
そう言いながら、葛城さんは私の手にも肩にも触れようとしなかった。
「あなたは自分の意志で好きな人に愛された。そこは否定しないでください。問題は男を見る目が根本的になってないこと!」
突然口調が激しくなって、断言された。
「あなたは自分を魅力のない女だと思っていませんか?」
「は、はい……」
「朱莉さん、かすみさんと比べて見劣りするとでも思っていたんでしょう。だから自己認識がしっかりしたかすみさんには見えた大島くんの薄っぺらさが、あなたには見えなかった」
「そ、そうかも」
「だから、両想いでなくてもいいと、大島くんに付いて行ったんだ!」
「ひ、ひどい……」
「ええ、ひどいです、僕は一面の桜の下で、ちょっぴり酒でも舐めながら桜談義をしようと思っていた盟友を失ったのですから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
急に涙が出だした。
なんか可哀想なのは自分な気がし始めていた。違う、やっぱり私は加害者、共犯者なんだ……。
松の木に縋りついて泣いた。
しばし泣いて葛城さんに見放されたと思った頃、彼は松の木の横に半歩ずれた。泣き顔を見られると焦り松の木に顔を寄せて隠した。
「あなたはっ、性的、虐待を受けた、という、認識は、あるの、ですか……?!」
声が震えていた、見上げると葛城さんが、泣いていた。
「ぎゃく……たい?」
私の膝は力を失った。松の根の間、松葉の上に崩れ落ちる。
「確かに、合意の上だ、何も、無理強いしていない、でも、あなたが同意したのは愛を交わすことでアリバイ作りじゃない。してはならないことというのは、あるんだ……。彼はあなたの気持ちを利用し、つけ込み、身体を濫用し他の目的に使わせた。それを僕は、許せません……」
へたりこんだ頭の上から葛城さんの言葉が降ってきた。涙も降ってるのかもしれない。
こんなふうに、共感してくれる人だとは、思っても見なかった。
葛城さんに両腕を支えられて立ち上がった。
「東屋へ行きましょう。少し座ったほうがいい」
茅葺の小さな東屋だった。中は薄暗くて不思議と安心した。
「嫌でなかったら僕に寄りかかってください。かなり気持ち揺さぶりましたからしんどいはずです。ただ僕も初対面の得体の知れない男なんで、警戒しろと忠告すべきかもしれませんが」
私はクスリと笑って葛城さんの長い左腕に頭を預けた。温かみが嬉しい。




