2話:初対面(3)
「…?かなたに名前教えたっけ?」
「何言ってるの、朝ゴタゴタやった時に喋ってたでしょ」
「あ、ああ。そうだっけ…」
友人が女性から男性になった、あの衝撃のやり取りを思い出そうとする。が、記憶の糸は鳥の巣のように絡まってしまっていて、正確に発言を思い出す事は叶わなかった。
あの時パニックだったしな…。まぁかなたがそうだって言うならそうなのだろう。
勝手に決められてしまったものの、ビーフシチューは物凄く美味しかった。隣の席に座った客の話から分かったことなのだが、どうやらビーフシチューで有名なお店らしい。それは美味しいはずだ。お肉はとろとろ。ルゥも濃厚だけどすっきりした後味で、楽に食べきることが出来た。
エルドラの話はまだまだしたりなかったが、あまりに長居するものお店に申し訳ないのでそろそろ出ようかと考えていた時。
「これ欲しい?」
目の前に薄いビニールに包まれたキーホルダーが差し出される。そ、それは…イベント入場者特典のランダムアクリルキーホルダー…。
欲しいに決まっている。青色のマントと純白な衣装。金髪の隙間から除く涼やかな青眼が美しい。多少デフォルメされていようと間違える筈がない。アドニス様である。
「ほ、欲しいです…譲ってください。お金はいくらでも払いますので…」
「ん。いいよ。はい」
皿の片付けられたテーブルの上に 、テカテカと光を反射しないタイプの分厚いオシャレな袋が置かれる。袋の上の不安定な足場にアドニス様が寝かされた。
「ありがとう…かなたって本当に良い人だよね」
目の下に水が溜まってくる。うう…泣いてしまいそうだ。イベントには連れてってくれるし、アドニス様引き当てた上にくれるし。なんて優しいのだろう。
アドニス様のキーホルダーを手に取ると、ついに水滴が頬を滑り落ちた。
「出る準備してて。会計行ってくるよ」
鞄の中にキーホルダーを入れ、入れ替わりで財布を取り出す。勿論夕食代は私がすべて払おう。その程度じゃ恩なんて返しきれないけど、グッズ代に使ってしまったせいで今そんなに持ち合わせが無い。後日通販サイトのギフト券でもプレゼントしよう。
手元から頭を上げると、かなたが不満げな顔をしているのが目に入る。黒色の瞳が冷ややかに私を見下ろしていた。
「忘れないでちゃんと持って帰ってよ」
キーホルダーの下敷きにされていたグレーの袋が、木製のテーブルの上に取り残されている。表面に店名のロゴが入っていて、周りを植物の蔦のような模様が取り囲んでいる。端の方には深緑色のリボンがシールで止められている。特別感溢れるラッピングは、明らかに普段使いの荷物入れではない。
「なんで…」
「今日でしょ。おめでとう」
色白の男の唇が孤を描いた。ふわりと花が咲いたように笑う。花が咲いたよう、なんて男性には失礼な言葉みたいに感じるかもしれないけど、なんというか、綺麗で周りが明るくなったみたいに思えた。纏っている雰囲気が変わった、という感じだ。
彼の言うことが信じられなくて。目を一度閉じてみて、もう一度開いてみても、私に宛てられたらしい小袋は堂々と視界の中心を占領していた。
ドクドクと血の濁流が煩い。指の震えが止まらないのはきっと、体の中のありとあらゆる臓器が暴れまわっているからだろう。網膜に薄っすら霧がかかって、思考が遥か上空を漂って、心が無防備になる。嘘じゃないよね?
ドッキリなら、目の前の友人が嫌いになってしまいそうだ。
「私にくれるんですか」
だってSNSに載せてる誕生日わざわざ覚えててくれてて、プレゼント用意してくれるなんて。そんな。
いっぱいいるネットのお友達の一人の私に一々。
しかも、本日は朝から一緒にいるし、急遽購入したってわけでもないのだろう。
「うん、君に。結構頑張って選んだんだよ。気に入らなかったら返して欲しいくらい」
頬を生暖かい感覚が流れる。柔らかな感動が胸をじんわりと浸食する。
困ったように肩を竦めてみせる何気ない仕草ごと、この時間は切り取られ、脳裏に記録されていく。
「じゃあそろそろ………え。なんで泣いてるの」
打って変わって悲しそうな表情に変わった彼は顔を背けた。視界の端に私を収めると、気まずそうに言葉を続けた。
「ごめん、迷惑だよね。一方的に友情感じられて、贈り物なんて用意されても」
「そうじゃなくて。嬉しすぎて…」
ちゃんと喋らないと。
飲食店特有の脂っぽい甘い匂いを肺に入れ、机の上のプレゼントを両手で持ち上げた。
「…誰にも思ってもらえてないなぁって思ってたから」
頭の中に情景が浮かぶ。
友人が大切な人から貰ったのだと言っていたネックレス。物の価値は値段じゃないけれど、彼女はそれだけ誰かに思われているというの証のようには思えてしまうのだ。
深く考えることもなく「羨ましい」と思った言葉をそのまま口にしたら「彼氏が欲しいの?」と好奇の目で尋ねられた。
いや、そういうわけではないのだ。
クリスマスでもお正月でも誕生日でも、玄関を開ければ朝から時間が止まったままの真っ暗のリビングが待っていて。
家族は皆遠方にいるから仕方がないんだけど、何かがあっても誰にも祝ってもらえないのは孤独そのものだった。
大学入学以前は、誕生日にプレゼントの交換をしているのを見て、なんであんなことやるんだろう。自分のためにお金とか時間使った方が、有意義ではないか。人に物渡しても、いらない物だったら勿体無いじゃん、などと考えていた。
違うのだ。彼女達は物をやり取りしているわけじゃない。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「よかった。僕だけ勘違いしてたらどうしようかなって」
店を出る。冷たい風が、ドアにくっついたベルと服の裾を靡かせた。たくさんの袋が足取りを重くする。一日があっという間に過ぎていって、ここ一年くらいで一番楽しい時間だった。
駅のホームに続く階段の下、どうしたらこの恩を返すことができるのだろうと私は考えている。
「かなたって誕生日の予定ある?彼女さんとかは?」
「ん…いないけど」
「良かったらさ、私に祝わせてくれませんか」
迷惑だろうか。かなたの顔を見るのが怖くて、ぎゅっと目をつぶる。
かなたにしてもらった分、自分も何かしてあげたい。それが一番の理由だけど。また一緒に時間を過ごしたいっていう自分勝手な事情が無いわけじゃない。
自分の狡さが友達に見抜かれてしまうのではないか。後ろめたい気持ちがある。
「……勿論。たぶん一人でさみしく過ごしてただろうし、里香に祝ってもらえるなら嬉しい」
夜をそのまま映したような瞳に星が瞬く。目を開けた瞬間、涼し気な笑顔が視界に飛び込んできた。
「途中でやっぱりやめたは無しだよ。約束だから、絶対守ってね」
「うん。約束します。必ず祝うよ。プレゼントも用意するし、ケーキも絶対買っとく。あ、何だったらお店も予約するよ。一番おいしいケーキのお店探しておきます‼」
「あはは。じゃあ楽しみにしとくね」
顔を暫く見合わせた後、私とかなたは手を振ってそれぞれ反対のホームに向かった。だいぶ先のことだというのに。今からその日が楽しみだった。