ちょろい男だという自覚はあります
幼い頃から、自分の本当の気持ちを隠して生きてきた。父の意に沿うように、母の意に沿うように、そうやって都合の良い駒であればいい。
そう思っていた。
「自分の気持ちを抑えつけて、誰かの操り人形になるなんて間違ってます!そんなの、そんなの、ユークリッド様自身が可哀想です……」
そう言って、自分の事でもないのに涙をぼろぼろと流す少女に、淡い気持ちを抱くのは、そう難しいことではなかった。
我ながら、ちょろい男だとは思うが、今までそんな事を言ってくれる人間は1人だって、いなかったのだ。
エリーゼはとても健気で愛らしい。
栗色のふわふわとした髪の毛も、キラキラとこちらを見るその瞳も、小動物を思わせる動きも、私が守らなければ壊れてしまうのではないかと不安になる。
たとえ、私の気持ちを受け入れてもらえないとしても、ずっと彼女を見守っていきたいと思っていた。けれどもしも、叶うのならば彼女に私の気持ちを受け入れてもらいたい。そして、共に人生を歩んでいきたい。そう、思っていた。
そう思っていたのだ。今の、今まで。
「っ、……今、なんとおっしゃいましたか?父上」
「サラベル嬢と結婚しろ、ユークリッド」
「な、にを……私に軍人の女と結婚しろと言うのですか」
サラベルという名は聞いたことがあった。少し前、巷で話題になったこの国で初の女性軍人だ。なんでも熊のように強いらしい。こわい。
「サラベル嬢には世話になってな。彼女がいなければ私は生きてはいなかったかもしれない」
そう言って顎のひげをのんびりと撫でた父にカッとなる。自分の命を助けてもらったから息子と結婚させる?ふざけるな……ふざけるな!
「お断りします、父上。私には心に決めた女性がいます」
「私の顔に泥を塗るつもりか?」
なにが泥だ。いつも勝手に話を決めて、勝手に話を進めておいて。
けれど、私はもう自分の心を抑えつけるのはやめたのだ。エリーゼと出逢って、私は変わった。
「お断りします。私は貴方のおもちゃじゃない」
「……お前に拒否権なぞ、あると思うのか?」
強烈な威圧感にぐ、と声が詰まる。拒否すれば勘当も辞さないと、そういうことか。
私に残された道など、やはりひとつしかなかったのだ、最初から。
「よろしくお願いいたします、ユークリッド様」
そう言って、ぎこちなくお辞儀をしたサラベルは思っていたよりもずっと線の細い女性だった。背も、女性にしては高いほうだとは思うが、私よりは低く、熊と名前を並べられているようにはとてもじゃないが見えない。
けれど、短く切られた黒色の髪や切れ長の芯が強そうな目は、やはりエリーゼとは違うものだ。
「私は、したくてお前と結婚するわけではない」
開口一番、そう言った私に、彼女はぽかんと口を開けて、それから僅かに顔を顰めた。やはり、結婚は父ではなくこの女のほうが望んだ事だったのか。女狐め。
「父上にどうやって取り入ったかは知らないが、幸せな結婚生活などないと思え」
その言葉に、今度こそ不愉快そうに顔を歪めたサラベルはおもむろに口を開いた。
「そういうことを……おっしゃるのはいかがなものかと思いますが」
低いのによく通る声だった。顔は心底不愉快だと言わんばかりに歪められているのに、声は不思議と柔らかく聞き心地の良いものだ。けれど、今は説教を聞く気などさらさらない。
「私は自分の気持ちに素直に生きているだけだ。お前にそんな事を言われる筋合いはない」
「素直に生きている、ですか……ならばなぜ、結婚したくもない私と結婚を?」
「父上がどうしても、と。結婚しなければ勘当すると言われれば結婚するしかないだろう」
サラベルはゆったりと首をかしげる。
「……よく、わかりません」
「なに?」
「勘当すると言われたのなら、勘当されればいいのでは?」
「なにを……言っている?」
「勘当されたくないから、結婚をすると、そう決めたのは他でもない貴方自身ではないのですか?」
澄みきった強い目が、私をじっと見ていた。
「自分の行動に、責任を持てないなんて。随分と男らしくないのですね」
心底、軽蔑したような声だった。
ガツンと頭を殴られたような衝撃に、目眩がする。ぐるぐると渦巻く視界の中でも、彼女が背筋をぴんと伸ばして立っているのがわかって息を飲んだ。
「安心していただいていいですよ。私からこのお話はなかった事にしていただけるよう貴方のお父様にお話しします」
「な、にを……」
信じられない。結婚が決まってから、女性のほうがそれを断るなど、外聞が悪いにも程があるだろう。今後、再び彼女が結婚したいと思った時にきっと影響が出る。
こんなに簡単に決めていい事じゃないはずだ。それなのに……
「私には、やはり軍人が性に合ってるのでしょうね」
彼女はそう言って、どこか嬉しそうに笑う。
さっきまでとはまるで違う幼い少女のような可憐な笑みに不覚にも、心臓が高鳴った、なんて、そんな。そんな馬鹿な。
「お前は馬鹿だなあ、ユークリッド」
父は笑った。
「逃した獲物は大きいぞ」
知っている。
認めるのが悔しくないと言えば嘘になるが、確かに彼女はいい女だったのだろう。
知っている、そんなこと。
なぜだろうか。
エリーゼの泣き顔よりも、サラベルの笑顔が脳裏に焼きついている。
なぜだろうか。
彼女の、私自身が決めたのだという言葉が頭の中でずっと響いて、止まない。
なぜだろうか。
彼女のことばかりを、考えている。
「けれど、やはりサラベル嬢は貴族になるべきだな…貴族とは彼女のようにあらねばならないのだよ、ユークリッド」
父が目尻を下げ、穏やかに笑う。
父は多くは語らなかったが、私はもうわかっていた。わかって、いた。
貴族だけじゃない。
きっと彼女も……いや、誰だって、完全に自由には生きていない。それでも、その中で、少しでも自分の気持ちを通したいと思うのならば、それなりの覚悟をしなければならないのだ。
彼女はきっと、覚悟をしたのだろう。一度は、私と結婚する事を。そして、今度は、私と結婚しない事を。
彼女自身が決断し今もきっと彼女は、まっすぐ前を向いている。
あの澄んだ、強い強い目で。
「父上、サラベル殿にはどこに行けば会えるのですか」
私にも、いつか彼女と同じ景色を見れる日がくるだろうか。