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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

・・・そして彼女は。

作者: 梟の尻尾

恋愛、嫉妬、復讐・・幸せと不幸が絡み合い生まれる人の心が生み出したホラーストーリーになっています。

一部多少残酷(暴力的)な表現もしてありますので、苦手な方は読むのを控えて頂いた方がよろしいかもしれません。

 彼女が俺のもとを去ってから早くも一年が過ぎようとしていた。

 部屋にはまだ彼女との生活の跡が色濃く残っている。

 部屋の真ん中に立つとどこを見ても思い出がちらついて見えてくるほど部屋の中は彼女との思い出で溢れていた。

 生涯で初めて本気で愛したその女性は、今はもう隣にいない。

 ずっと二人の時間が続くと思って疑わなかった。

 彼女となら一生を共に歩んでいけると信じていた。

 それなのに彼女はこの部屋から、俺の前から姿を消した。

 今ももちろん未練が残りに残っている。

 そのせいもあってか彼女との思い出は今も部屋中に散乱している。

(捨てるに捨てられないんだよな)

 今までの俺だったら未練を感じることもなく、別れて一週間もすれば全てを処分することができていた。

だが、今回だけは違っていた。

 捨てられない。

 何故かはわからなかった。いや、認めたくない思いがそうさせていたのかもしれないが、俺はその思いにさえも気付かないようにしていた。

 ただ、それに気付きたくなかった思いがそうさせていたのかもしれないが。

 彼女と付き合うようになったのは四年前。通っていた大学で楽しかった学生生活の最後を彩ろうという思いから催した合コンがきっかけだった。

 それまでにも何度か合コンは経験したが恋愛とまで発展することは一度もなかった。

だから最後くらい自分たちの意中の人たちと合コンして、すっきりさっぱり砕けてしまおうと悪友たちと計画して合コンをセッティングし絶対に勝ち目のない戦場を用意した。

 そう、それはまさに勝ち目のない戦場だった。

 三対三のオーソドックスな合コンだが、相手は三人とも大学で五本の指には入る容姿といっても過言ではないほどのレベルの高さだったのだから。

 目の前に三人が座ると想像以上に圧巻だった。

 まさに完璧な存在が目の前にいる。

 だからこそ本当に勝ち目がないはずだった。

 なぜなら俺たちが呼んだ子達は、いずれも自分たちの好きとか憧れの存在とかといえる存在の子たちだったのだから。現に悪友二人は戦闘開始後ものの十分もしないうちに脈無しとわかり撃沈していた。

 ところが、なぜかはわからないが俺は撃沈することもなく、意中の人と楽しい時間を満喫し、そのまま勝利者として最後の合コンを終えることができてしまった。

 出会ったきっかけがきっかけだったからか、どちらが言い出すわけでもなく二人は恋人という形に落ち着いていた。

 恋人という関係になってから二人でいろんな場所に出かけたものだ。

 同じものを見て同じものを買って同じ思い出を刻んでいった。

 一緒にいるのがあたりまえになって、それが普通なんだと思うようになるまで時間はかからなかった。

 そんな夢みたいな時間が三年も続き、いよいよお互いに結婚を意識し始めて将来を視野に入れ始めたのが一年前。

 そして、それが突然訪れたのもその頃だった。

 幸せな夢が何の前触れもなく悪夢へと変わったのだ。

 彼女は何の前触れもなく俺の傍からいなくなった。

 世間一般の人がよく口にする。

 いなくなってから初めて大切な存在だったことに気付いたと。

 でも、それはその彼女に対して本気じゃなかっただけだろうと俺は思う。

 俺は彼女が傍にいる時からどれだけ大切な存在であるのかわかっていた。

だから、いざいなくなったとしても思うことは変わらないと思い込んでいた。

そんな自己満足の思いの重さの認識が間違っていたことにすぐに気がついた。

彼女という存在を失ってから。

 気づいた時には、もう・・・彼女はいない。

 どんなに探してどんなに名前を呼んでどんなに求めても彼女はもういないのである。

 いなくなって悲しいとかそんな生易しい感情は俺にはなかった。あるのは自分への怒りとやり場のない好きという思いだけ。

 思えばあの日ほど感情をむき出しにしたことがあっただろうか。

 彼女がいなくなった日どれだけ泣いたことかわからない。

 アパートの薄い壁を気にすることもなく、涙が一滴も出なくなり声も嗚咽(おえつ)も出なくなるまで泣き続けた。

 声が出なくなってからも彼女の名前を呼び続けた。

 それでも彼女は戻らない。

 戻ってくるはずがないことを嫌というほどわかっていたが呼ばずにはいられなかった。

 叫びは言いようのない感情に支配されていき、名前を呼ぶという思考が止まり、いつしか唯々絶叫していた。

「ぐぅぁぁぁぁぁぁ!!」

 この世のものとは思えない声で叫んでいた。

 散々叫んだ後、吹っ切れた俺は一気に静かになっていく。

 頭の中は真っ白になり、その後のことはほとんど覚えていない。

 そこに在るのは彼女がいなくなったという事実だけ。

 そんなことから半年が経った。

 悪戯に時間だけが過ぎていくが現状なにも変わっていない。

 全てがあの時のまま。

 部屋の中の時間だけが止まってしまったかのように何もかもがそのままに。

 あの日に開いた壁の穴や壊れたオルゴール、彼女の携帯電話は今もそのまま残っている。

 一年経っても捨てられず片付けられずの部屋は、未だにあちこち散らかっていたり、いろいろなものが壊れたままの姿で放置されている。

 もし、あの日の俺の泣き声や叫び声が隣に聞こえていたとしたら、部屋の中で物が壊れたりする音もきっと聞こえていただろう。他に住んでいる住人がいない他の部屋は良いとしても、一年前のあの日も今と変わらず隣に住んでいた自分たち以外のただ一人の人間。

 いつもことあるごとにうるさいと文句を言いに来ていた隣の男だが、あの日だけは心情を察してくれたのか何も言いには来なかった。だから何も気にすることなく俺はおもいっきり泣くことができた。

 辺りの物もかなり壊したようだが錯乱状態だったためか覚えていない。

 だが確かにあちこちが壊れている。

 荒れた部屋が静かにその時の凄まじさを物語っているようにも感じられた。

 そんな部屋の真ん中に一人座るのが半年前からの日課になっていた。

 何をするわけでもない。

 ただ一人そこに座っている。

 そして部屋を見渡す。

 そうしながら当時のことを考えたり、彼女との思い出に浸ることで今をなんとか生きていることができた。

 ここに思いを馳せていないと何もかもが消えてしまいそうで不安なのだ。

 そうして生きることでようやく半年が過ぎてくれた。

ずっとずっと一人でそうしてきた。

一人静かに静寂に包まれた部屋で生きていた。 

 そんないつもの静寂を切り裂くように自分の携帯電話が鳴り響いた。

「っ!?」

 静かな空間の中で突然鳴ると驚いてしまう。

 前もって鳴ることを知らせてくれる携帯なんて何の意味もないのだろうが。

 いや、鳴ることで前もって知らせてくれているのか・・・?

 変なことを考え始めると何の呼び出し音かわからなくなってしまった。

 鳴っている曲でメールでないことだけはわかった。

 個人設定もしているから曲で誰かもわかる。

 だが、ピンとこない。

(誰の設定だっただろうか)

 携帯を開いてみればわかるものの、誰の設定だったかを考えているうちに鳴り終わってしまった。

 数秒遅れてから慌てて開いて履歴を見て見たが、誰の設定だったのか思い出せなくて当然だった。

(非通知?)

 登録してある番号以外は通常の着信音がなるが、登録している番号以外からかかってくることなんて滅多にないため曲を思い出せなかったというわけだ。

 だが、どうにも違和感が拭い切れない。

なんとも気持ちが悪くスッキリしない感じの原因を確かめるために、着信設定画面を開いてみる。

(通常着信は・・・っと?)

表示されている曲のタイトルが、さっきの曲とは違うことがわかった。

(違和感の原因はこれか)

 だとしたら、さっきの曲はなんだったのか。

 その後も色々操作はしてみたものの所々操作出来ない箇所もあり情報を確認することは出来なかった。

(そろそろコイツも寿命か)

 携帯だって何年も経てば壊れてしまう。

 今の携帯も既に四年が経とうとしている。

 それでも機種変更できないのには理由がある。

 これも捨てられない思い出の一つなのだ。

 彼女と付き合うようになってから、お揃いの携帯を買い、一緒に色んなところで色んな思い出を写メという形で残してきた。気になった時にはいつでも見られる。無論機種変をしてもデータは転送出来るのだが、それは二人で紡いできた思い出とはちょっと違う気がして機種変出来ないでいるというわけだった。

 そんな理由で手放せなくなっている古ぼけた携帯を手に持って眺めながら、もしかしたらまた着信があるのでは?と思いしばらく待ってみた。しかし、結局その日は不可思議な非通知から電話がかかってくることはなかった。

日付も変わってしまい気分転換にブラブラと街を歩いていると、駅前のビルにある大きな液晶パネルから聞き覚えのある曲が流れてきた。

 それは思い出の曲。

二人で出かける時にはいつも車で流れていた曲だった。

 合コンで二人を近づけるきっかけにもなった共通の話題。好きなアーティストの中でも一番好きな曲。

 その曲がなければ俺も悪友二人と同じ結末を迎えていたかもしれない。

 もしかしたら、その方が幸せだったのかもしれないが。

 しかし運命は二人を結んだ。

 どんな結末が待っているかも知らずに結ばれてしまった。

 そんな二人を結ぶきっかけになった曲が流れていた。

 彼女がいなくなってからは、彼女との幸せな時間を思い出してしまうので聴かないようにしていた。

それだけに懐かしさと寂しさを感じながら再び小さな違和感を覚えた。

 何かが変だった。

 具体的に何がというわけではない。

 久しぶりに聞いたせいだろうとも思ったが何かがひっかかる。

(あまり懐かしくない・・ような)

 どうしてかはわからない。だが、なぜかそんな思いを抱きながら帰路へとついた。

 帰りながらもずっと考えていた。

 あんなに好きだった曲なのに。

 二人にとって特別な曲なのに。

 あの違和感はなんだったのだろうか。

 そんなことを考えながら帰り着き部屋の真ん中で座り込む。

 そうして、また一人の時間がやってくる。

 外に出ても一人に違いはないのだが、この部屋には何の音もしない。

 笑い声も何もない。

 完全に無音なのだ。

 まるでここだけ外界から切り離されたかのようにさえ感じてしまうほどに。

 いつも決まってここに座っているが、それでも静かな時間に耐えかねる時がくる。

そんな時には決まってシャワーを浴びることにしている。

それも毎日の日課となっていた。

 そんないつもの日課どおりに今日もシャワーを浴び始めてから数分後のことだった。

(・・・鳴ってる・・・?)

 微かだが何かが鼓膜を震わせた。

 狭い部屋に薄い壁のおかげで音はなんとか聞こえる。

 聞こえるといっても、壁を挟んで向こう側から聞こえるうえにシャワーの音に混じっていて鮮明とまではいかない。

だが、それでもしっかりとそれは聞こえてきた。

まるで聞いて欲しいかのように直接脳に訴えかけているかのように感じた。

そんな不思議な感覚にさせる音。

それは間違いなくあの着信音だった。

 昨日の非通知を知らせる曲。

 それをさっきもどこかで聞いたような気がした。

(そう、どこかで)

 聞こえる着信音は懐かしさと寂しさと違和感を感じさせた。

 その感覚をさっきも感じた。

 それはさっき駅前で聞いた曲。

 懐かしさが足りないと違和感を感じた曲。

それは俺と彼女が大好きだった曲。

それは・・・。

(あいつの着信音!!)

 一年ぶりに聞いた彼女の設定着信音だったため昨日は気付かなかった。

 シャワーを止めて急いで浴室から出て携帯を手にとる。

それと同時に勢いよく携帯を開くと、そこには非通知という表示はなかった。そのかわり、そこにはあってはならない名前が表示されていた。

もう一生見ることはできないと思っていた名前。

何度も呼び続け叫び続けた名前。

一年前、俺の傍からいなくなった彼女の名前に違いなかった。

 嬉しさのあまり声もなく喜んだ。

奇跡が起きたんだと思わずにはいられなかった。

自分でも気づかないうちに涙が頬を伝って流れ落ちていった。

 それらのことが一瞬のうちに起きたのとほぼ同じタイミングで、俺は通話ボタンを押しそのまま耳にあてた。

 声にならない声で彼女に話しかける。

すぐにでも彼女の声がスピーカーから聞こえてくる。

そう思っていたのだが何も聞こえてこない。

俺の方から何度も呼びかけてみたがやはり返事はない。

 不思議に思って画面を見てみると、さっきまで表示されていたはずの彼女の名前はそこにはなく、すでに画面は光を失って表示は消えていた。

 奇跡は最悪のタイミングで去っていってしまった。

 タイミングを考えると携帯に出た時にちょうど切れてしまっていたのだろう。

 冷静にそんなことを考えてみたところで取り返しはつかない。

 俺は悔やんだ。

悔やんでも悔やみきれるものではないが自分を責めた。

 ほんの数秒シャワーを止めるのが早ければ。

もっと早く携帯を手にしていれば。

通話ボタンを押さなくても開くと同時に通話になるように設定しておけば。と、色々悔やんではみたものの過ぎてしまった時間は戻ってはこない。

 それでも悔やまずにはいられなかった。

 起こるはずのない出来事を、奇跡という現象を逃してしまったことを。

 だが、奇跡は一度とは限らない。昨日は非通知だったとはいえ着信音は彼女のものだった。今日なんてちゃんと彼女の名前が表示されて着信音は鳴った。

 それならばと思い、何の根拠もなく開き直り三度奇跡が起こることを待つことにした。

 そして奇跡は、翌日に起こった。

 三度起こったそれを奇跡と呼んでもいいものかどうかは別にして。

 俺の気持ちを知った神様が哀れな男の心情を悟ってくれたのか、電話をかけてくるはずのない彼女からの着信を示す着信音がまた鳴ったのである。

 今度は何の迷いも遅れもなくすぐにとった。三度訪れた奇跡を逃さぬようにと人生のなかでもこのうえないくらいに必死でとった。

 すでに記憶の片隅に追いやられていた現実さえも完全に忘れてしまうほどに。

 そして、ついに待望の音が聞こえた。


『・・・ギ・・・ギギ・・』


 それは紛れもなく音だった。

とても声とは言い難くいつまでも耳に残るような不快な音。

 反射的に耳から携帯を離して表示画面を確認してみるが、まだ通話は繋がっているらしく彼女の名前がハッキリと表示されていた。

 恐る恐るもう一度耳にあててみたが、さっきの不快な音はせず聞こえてくるのは雑音だけで他には何も聞こえてこない。しばらくのあいだ呼びかけたり返事を待ってみたりしたが、そうこうするうちに通話が切れてしまった。

 表示が消えて雑音も聞こえなくなり、携帯を中心に部屋が静寂に支配されていく。

 部屋は不気味な静けさに支配されていった。携帯から発せられた不快な音は俺の心深くに入り込み忘れられないものとして存在していた。

 人の出す声は声帯によって発せられているのだが、さっきのそれは、その声帯を潰したうえでさらに痛めつけた状態でなら出せそうな感じのものだった。

 それがすでに声と言えるものかどうかは不明だが、物が発する純粋な音とは違い声独特の振動をわずかに持っている気がした。

確証はないのだが。

 その後も毎日決まってほぼ同じ時間になると彼女からの着信が鳴った。

 こちらの言葉には一切答えずに毎日少しずつ言葉が聞こえるようになっていった。

『は・・・き・・・』

『・・・くか・・・・て』

『・・や・・・って・・き・・・』

 一年前のあの日のことを考えれば着信があっても出なければ良いのだが、彼女からの着信とわかると脳が働き反射的に出てしまっていた。

何日かそんなことが続き、日が経つにつれて何となく言葉らしきものも聞こえるようになったが、言ってる内容までは聞き取れず理解はできなかった。

あの耳から離れない不快な音が聞こえたのは、三度目の奇跡の時の一度きりだった。それがせめてもの救いだったのだが、微かに聞こえる声が彼女のものかどうかはわからないでいた。潰れたような声で必死に何かを言っているようなのだが聞き取れない。彼女かどうかだけでもハッキリわかればスッキリするし嬉しかったのだが、今は彼女からの着信という表示だけが偽りのない事実として俺の気持ちをもちあげていた。

 ただ、そんなことより俺はもっと大切なことに気がつくべきだった。

 気がつかなければいけなかった。

 彼女からの着信があまりに嬉しくて現実を見ることを忘れていた。

 見ることを放棄していた。

 彼女からの着信があるという現実があってはならないことを忘れていた。

 考えようともしなかった。

 彼女からの着信表示という偽りのない事実が偽りであることを。


『現状なにも変わっていない』


さっきもそういったが何も変わっていないのだ。


『あの日に開いた壁の穴や壊れたオルゴール、彼女の携帯電話は今もそのまま残っている(・・・・・・・・・・・)』


 この事実を俺は忘れていた。

 思い出したくなかった。

 彼女がもういないことを。

 他の誰でもない、愛する彼女からの着信なのだ。

 それを目の前にして誰が否定することができるだろうか。

 だが、それが間違いだった。

 すでに全てが狂っているのだから。

 半年前のあの日から歯車が狂い俺は壊れてしまっているのだから。

 あの日、俺たちは三年目の記念日を一緒に祝う予定にしていた。

 結婚を考えていたこともあり、すでに同棲もしていた。

だから、俺が仕事から帰ってきたら彼女の手作り料理やケーキを一緒に食べようと話していた。

もちろん記念日のプレゼントだって準備していた。

 だが、その日に限って俺はすぐには帰れなかった。

 職場の上司に食事に誘われて断れきれずに行ってしまったのだ。

 そのころ彼女の身に起こっている悪夢も知らずに・・・。



 木造二階建ての古いアパートに住んでいる住人は全部で三人だけ。

数少ない住人の一人が住んでいる部屋と、その隣の部屋に住んでいる一組のカップル。

そんなアパートに住んでいる俺はいつにも増してイラついていた。

普段からイライラしていることは多かったが、今日はいつにも増して虫の居所が悪かった。

「仕事はうまくいかねぇし、隣のカップルたちは毎日イチャつくし、何で俺だけ面白くない毎日を過ごさなきゃならねえんだよ」

 日々の仕事でたまったストレスの解消法といえば、専らパチンコや競馬といったギャンブルか誰かにあたって撒き散らすかしていた男にとって、隣の部屋のカップルはイラつく原因と同時に恰好のストレス解消相手にもなっていた。

 ちょっと凄んで文句を言えば黙って言われっぱなしになるんだからスカッとするし、後で思い出して酒の肴にもなる。

 最近じゃ彼氏の方がちょっと強気に出るようになってきたが、更に強く文句を言ってやれば、あの程度の男は黙り込んじまうに決まっている。

 日頃からそういう奴らを相手に仕事をしているんだから自分の感には自信があった。

「それに、あの女はあの男にはもったいないくらい好い女だしな」

 正直なところ、いつか自分の女に出来ないかとずっと考えてはいた。

 ただ、二人の間に割って入れるような隙間がまったくないのもわかっていたからストレスの捌け口に利用しているのだが。

 そんなふうに色々なことを考え始めたらイライラは更に増していき限界点を超えた。

 そのイライラを保ったまま俺は自分の部屋を出ていくことにした。



「今日はずいぶんと遅いなぁ」

 二人にとって今日はとても大切な日なのに、今日に限って彼が帰ってこない。

 今までだって残業とかで遅くなる日はあった。

 もちろん仕事をするうえでは仕方のないことだし、私だってそれは理解している。

 でも、彼が記念日に遅く帰ってきたことは一度もなかった。

 ううん、記念日に限らずお祝い事がある日には必ず定時で仕事を終わらせて帰ってきてくれていたのだ。

 だから、いつもならもうとっくに帰ってきていて一緒に過ごしている時間なのに。

 付き合い始めてから今日でちょうど三年目。

今まで一度も浮気とかの心配はしたことがなかったけど、三年も経てば間違いだって起こるかもしれない。

 そんなバカな考えが現れたり消えたりしながら心をソワソワとさせる。

 彼に限ってそんなことは有り得ないことを私自身が一番よく知っているはずなのに、不安はなかなか拭いきれない。

「三年目っていう節目の記念日に限って帰って来ないからこんな気持ちになるんじゃないのよ、バカ・・・」

 自分でも気付かないうちに薄っすらと涙が滲み出ていた。

 彼と過ごしてきた三年間は本当に楽しいものだった。

 いつも優しくて寂しい時には必ず傍にいてくれた。

 そんな彼が私は大好きだった。

(・・・だった?)

「なんで過去形なんだろ。これじゃ別れの言葉みたいじゃないの、縁起でもない」

 自分でも何で過去形にしてしまったのかわからなかった。

 それが、もしかしたら虫の知らせというやつだったのかもしれなかったのだが。

 なんともスッキリとしない気持ちでいると、突然部屋のチャイムが来客を知らせるために鳴った。

 気持ちが不安定だったせいなのか、必要以上にビクついていた。

 それとも、何かを感じとっていたのか。

 そう思わせるには理由があった。

 普段、彼が帰ってきてわざわざチャイムを鳴らすなんてことはない。

 つまり、今のチャイムを鳴らした人物は彼ではない。

 時間が時間だから配達関係とかも考えにくいし、滅多に来ない友達が来たとも考えられなかった。

 いつもなら隣の部屋の男が来たのかもと思うところなのだが、今は彼もいないし文句を言われるほど賑やかな状況ではない。

だから、隣の男が乗り込んでくるはずがないのだが。

 しばらく考えていたが、来客を待たせては申し訳ないと思い、とりあえず返事をしてドアを開けた。

 だが、その行動がいけなかった。

 このとき私は致命的なミスを犯してしまった。

 チェーンロックを掛け忘れてしまっていたのだ。

 少しだけ開けたドアが凄い力で引っ張られ一気に全開まで開かれた。

「ちょっとなんなんですか!?」

「お前たちのバカップルぶりがいつも壁越しに聞こえてイライラするから文句を言いに来てやったんだよ」

 見れば隣に住む男が目の前にふてぶてしく立っている。

 いつも難癖をつけては絡みにくる性質(たち)の悪い男だが、普段は彼が対応してくれる。

だが、今回はタイミングが悪い。

頼るべき彼がいない。

「そんなの無茶苦茶です。帰ってください」

「お?なんだ、今日は彼氏は留守か?まだ帰ってないってことは、もしかして浮気かもな」

「彼に限ってそんなことはありません」

 私は男の言ったことに対して強く否定した。

 心のどこかでそう思っていた自分も一緒に否定するかのように。

「なんだか美味そうな匂いもするし味見してやるよ」

 そう言うと男は遠慮もなくズカズカと私たちの部屋に入ってきた。

「勝手にあがってなにするんですか?警察呼びますよ!?」

「警察?呼ぶだけ無駄だ」

「じゃあ呼びますよ!?」

「うっせえなー」

「きゃぁっ」

 押し出そうとして掴んでいた腕ごと乱暴に体を振り回された私は、そのまま投げ飛ばされ壁に叩きつけられてしまった。

 意識が朦朧とするうえに、あまりに痛かったせいで声も出ない。

 古いアパートの壁は脆くなっていたらしく、ぶつかった衝撃で少し大きめの穴が簡単に開いてしまっていた。

 それでも男の怒りは鎮まらなかったらしく執拗に私を壁に叩きつけていく。

 私が何の抵抗もできずに苦痛の表情を浮かべていることが楽しくてたまらないらしく、何度も何度も壁に叩きつけられていく。

 どこかの骨が折れる音がしたように聞こえたが壁にぶつかる音に呑み込まれて消える。

 そんなことを何度繰り返されたかわからなくなるほど繰り返されたあと、男は私たちの思い出を見境なく破壊しはじめた。

 二人で初めて行った旅行先で買った思い出のオルゴールも棚から転がり落ちていく。

(早く・・・帰ってきて)

 本当なら今頃は一緒にお祝いをしているはずの彼を必死で呼ぶ。

 もしかしたら他の女と一緒にいるかもしれないと、考えたくも無いのに男の言った言葉がバカな考えを再びよぎらせる。

 すでに喉も潰されているらしく声は出ない。

 それでも必死で彼を呼んだ。

 恐怖と悲しみと嫉妬が混じった恨みにも近い思いを込めて。

 もう声とは呼べない音と言うべき声で叫んだ。

「・・・ギ・・・ギギ・・」

 それは紛れもなく音だった。とても声とは言い難くいつまでも耳に残るような不快な音。

 誰が聞いても声とはとうてい思えないものだった。

 私が出した私の声は、それほど酷くすでに声を出す機能が死んでいることを確信させられただけだった。

 心では必死に叫んでいるのに声には出ない。

 もどかしい。

 苦しい。

(はやくかえってきて)

 その願いは目の前の男によって無残にも踏みにじられることになる。

 そう、文字通り踏みにじられるのだ。

「グゥッ・・ァ・・・」

 微かに息のあった私に最後の瞬間が訪れる。

乱れた呼吸に合わせて動いていたお腹を渾身の力で踏み抜かれ、内臓が潰れ骨という骨が砕かれて仰向けの状態で私の意識はそのままこと切れた。

そんな私を上から見下げて男は呟いた。

「あーあ、死んじまったか。後で連絡があったら調べにきてやるからそのままでいるんだな。さて、着替えて行くか」

 男はそのまま部屋を出て行こうとした。

 すでに色を失った私の目が静かに見つめる先で、男は意識のないはずの私の視線が気になったのか一度振り返り私の(まぶた)を閉じてから去って行く。

「薄気味悪い目で見てんじゃねえよ」

 吐き捨てるようにそう言い残すとドアを力の限り乱暴に閉めて出て行った。



 自分が早く帰らない間に、そんなことが起こっているとは知るよしもなく、俺は上司との食事を終えて彼女が待っているはずの自分たちの住まいに向かった。

遅くなってしまい申し訳ない気持ちはもちろんあったが、部屋の前まで帰ってくると彼女が出迎えてくれると疑うこともなくドアを開けた。

それが地獄につながる扉だとは気付かずに。

ドアを開けた瞬間に彼女が飛び込んでくるか、拗ねて文句の一つでも言われるかと予想していたのだが、結果はどちらでもなかった。

暗い。

彼女がいるはずなのに電気がついていなかった。

それに気のせいか、空気が酷く重く感じられる。

ドアが開いたというのに彼女の反応もない。

彼女の出迎えのかわりに料理の芳ばしい香りと酷く血生臭い匂いが出迎えてくれた。

本来なら交わるはずのない両極端な匂いが同時に鼻につき吐き気をもたらした。

いつもなら明るく部屋を照らしているはずの蛍光灯には光はなく、異様な雰囲気を演出している。

(いったいどうしたんだ?)

 今にも吐きそうな口元をしっかりと手で覆い、電気をつけようとスイッチのある場所まで移動する。

暗がりのなか()り足で移動していると何かに足の先がぶつかった。

 あたっている指先が心なしか生温かく感じられる。

 暗いので見えないが硬いものではない。それに足の先からゆっくりジワジワと濡れていくのがわかった。

 暗闇に目が徐々に慣れていくのと月明かりの優しい光のおかげで、ぼんやりと辺りが見え始める。

 優しい光の照らすそれを見なければ良かった。そんな風に後悔する間もなく、絶望へと堕とされることとは知らずにそれを見てしまった。

「ぐぅぁぁぁぁぁぁ!!」

 一瞬のことだった。

 この世のものとは思えない声で叫んでいた。

 絶望を全て吐き出してしまえるほどの勢いで叫んだ。

 それでも絶望は消えることはない。

 何が起こったのか意味が分からずその場に座り込み叫んだ。

 恥も外聞も何もない。

 ただただ受け止められない現実に抗うように叫び続けていた。

 自分の中の何かが崩れていく。

 それは完全に壊れてしまっていた。

 目の前に横たわる彼女は血の海に沈んでいる。

 人間だったとは思えないくらいに四肢が様々な方向を向いている。

 どんなふうにされれば人間の体があんなにも壊れてしまうのだろうか。

 見開いた両の目が玄関のドアを見ていた。

 帰ってこない俺を憎憎(にくにく)しげに見ていたのか必死にドアを見ている。

 その目は優しかった彼女からは想像も出来ないほど恐ろしく深く恨みのこもった目つきになっていた。

 漆黒に輝く綺麗な瞳だった彼女の目は光を失い闇に染まってさらに恨みの深さを増しているようにも見えた。

 最後の力を振り絞ってドアに向かったのかそれとも向かおうとしたのか、這うような姿でうつ伏せになっている。

 彼女の生きていたころの姿はもうどこにも感じられない。

 誰よりも純粋で誰よりも優しく無邪気だった彼女はもうそこにはいなかった。

(なんでこんなことに・・・)

 周りを見るといたる所に荒らされた跡が見られた。

 壁に限らず部屋全体が壊されていた。

 さっきまで温かかったであろう彼女の手作り料理も無残な物へと姿を変えていた。

 彼女との思い出の全てが壊されている。

 彼女自身も含めて。

 俺の全てが壊されている。

 誰に壊された?

 誰が壊した?

 俺は何で早く帰らなかった。

 何で傍にいてやれなかった。

 あんな上司に付き合ったせいで。

 俺が帰らなかったせいで。

 俺がいなかったせいで彼女は死んだ。

 俺のせいで彼女は死んだ。

 俺のせいで。

 俺に・・・壊された。

 俺が・・・壊した。

 すでに自我が崩壊していたとしか思えないような答えに行き着いた。

 冷静に考えればそれは無理なことなのに。

 でも、それほど彼女が好きだったし、彼女が俺の全てだった。

しばらく泣いたり散々叫んだ後、吹っ切れたのか一気に静かになっていく。 

 それから俺は意外なほど冷静に警察に通報した。

 どれくらいしてからだろうか、警察が到着した時そこには二体の遺体が横たわっていた。



 かかるはずのない彼女からの着信という衝撃的な現実がきっかけで、朧気ながらあの時のことを思い出していた。

 ただ、自分の記憶を辿っていくと人は記憶の壁にぶつかってしまうことがある。

(二体の遺体?誰の遺体だった?)

 三年半も前の出来事だったこととあまりにも衝撃的なことだったせいか記憶がいまいちはっきりしない。

 はっきりしていることは彼女がすでに死んでしまっていること。

 その時に俺は完全に壊れてしまったこと。

 そのせいで記憶が混乱してしまったらしいということ。

 大切なのは彼女はすでに死んでいるという現実。

 死んでいる彼女が電話をかけてこられるはずはない。

 いや、誰かが悪戯で彼女の携帯を使ったとも考えられる。あまりにも非常識だが。

 しかし、それもありえなかった。

 なぜなら彼女の携帯を誰かが使えるはずがないのだから。

 彼女の携帯は今どこにあるのか。

 考えるまでもなく俺の部屋だった。

 今もあの時のままこの部屋に置いてあるのだ。

 それだけの事実があるにも関わらず、そんなことには気付かず俺は今日もいつものように彼女のからの着信を手放しで喜び言葉を聞こうと耳にあてた。

『オマエモコイ』

 その瞬間、背筋が一瞬で凍りついた。

 人が限りなく低く声を出したとしても、地の底から聞こえてくるような声は出せないだろう。それほど低く恨みのこもった声が耳に届けられた。

 ほとんど条件反射だったのだろうが、気がついたら自分の携帯を投げ飛ばしていた。

 壁に当たった折りたたみ式の携帯は、床に落ちると画面をこちら側に見せるかたちで倒れ、画面が真っ黒になって通話が終了したことを知らせた。

 だが拾いに行く気にはならない。いや、正確には、あまりの恐怖に動けないでいた。

 腰が抜けたのかそのままの状態で座り込んでいるはずだった。

そう思っていた次の瞬間、俺はその場から飛び退かされた。

 突然オルゴールが鳴り始めたのだ。

 壊れてしまってから鳴らなくなっていたはずなのに。

(いや、鳴ってるんじゃない)

 音が聞こえる。

 オルゴールの奏でる綺麗な旋律などとは程遠く潰れた何かが必死に出すような音が。

『・・・ギ・・・ギギ・・』

 それは聞き覚えのある音だった。

声に近い音だが、とても声とは言い難くいつまでも耳に残るような不快な音。

この音・・・。

ようやく出ることが出来た三度目の着信の時に聞こえてきた音。

声ではなく音でもない。矛盾しているがそんな音を忘れるはずもなく、再び脳裏に刻まれていく。

そんな不快な音を聞いているせいか、音に合わせるようにオルゴールの装飾に使われていた天使の彫像が一瞬不気味な笑みを見せたように感じた。

どれくらいたったか、しばらく繰り返しあの音を出し続けたあとオルゴールは止まり静寂が戻ってくる。

気温が下がったかのように思える程涼しげで不気味なほど静かな静寂が。

そんななか自分から見る景色が変わっていることに気づいた。どうやらオルゴールの音に驚いたとき気づかないうちに放り投げた携帯の近くまで逃げていたようだ。

隣に転がっている携帯が視界に入ると、あの声の持ち主が誰だったのか急に気になり始めた。

あの声は彼女のものだったのだろうか。

あんな声が彼女のものだというのだろうか。

誰よりも近くで聞いた声。

今でも目を閉じれば思い出すことが出来る彼女の声はとても澄んでいた。

だが、そんな彼女の声と同じくらいにさっきの声が頭に響いている。

まるで彼女が自分の声だと言うかのように主張している。

どう比べても同じ人間から発せられた声だとは思えない。

思いたくない。

だとすると、あれはなんだったのだろうか。

静寂の訪れた部屋の中で一人塞ぎこんで考えていると、外で階段を上がる音が聞こえた。

二階建てのアパートの階段は俺の部屋とはちょうど反対の位置にある。

だからこそわかる。

足音の向かう先がどこなのか。

何の迷いもなく真っ直ぐこちらに向かってきている。

そもそもこのアパートには俺と隣の男しか住んでいない。だから必然的にこちらに向かってくるのはわかるのだが、今は時間が時間なだけに不自然である。

その足音は部屋の近くまで来ると、ふいに聞こえなくなった。

俺の部屋までの間にも部屋はいくつかある。

だが、もちろん誰も住んではいない。

あんなことがあってからというものの、ただでさえ人の寄り付かなかったボロアパートは輪をかけて人が寄り付かなくなっていた。

しばらくすると再び足音が聞こえ始める。

あちこち移動しているらしく、どこにいるのかが定かでなくなっていく。

そしていつのまにか足音は消え静かになっていた。

(いったいなんだったんだ)

 吐き出すのを忘れていた二酸化炭素を一気に吐き出したときだった。

『ミィツケタ』

 その声は突然聞こえた。

 心臓が飛び出るかと思ったが何とか失神だけは免れて辺りを見回す。

 何もいない。

 誰もいない。

 声だけは確かに聞こえたのに。

 それに今の声は何度か耳にしたあの音と同じものだった。

 ただ、今の声がどこから聞こえたかわからない。

 周りにあるものと言えば床の上には壊れた思い出たちや、さっき放り投げた携帯くらいだった。

 そんななか、携帯の液晶画面が光っているのに気がついた。

 さっきは確かに消えていたのに。

(また、見なければいけないのか)

 着信音は鳴ってはいない。

 ただ液晶画面だけが光っている。

 この状況で確認するかどうか迷った時だった。

 突然どこかで床を震動させる音が響いた。

 完全に不意をつかれた俺は息をするのも忘れて固まってしまった。

 震動音のする方に目をやるとそこには別の携帯が落ちていた。

(彼女の携帯が)

 あの日以来充電などすることもなく、ただ形だけがそこにあった携帯が震動している。

 だが、どこかに安心感を覚えてしまっていた。

 彼女の影を彼女の持ち物に求めていたのかもしれない。

 それに今は自分の携帯に触る気にはなれない。

だが、彼女の携帯なら。

ずっと傍にいてくれた彼女の携帯なら守ってくれるはず。

 そんな変な安心感を支えに、ずっと震動を続けて呼び出す彼女の携帯にゆっくり近づく。

 俺を待つかのようにいつまでも呼び出しをやめない携帯を俺は拾い上げた。

 そして無用心にも呼び出し人を確認する前に無意識に通話ボタンを押して、そのまま耳にあててしまった。

『デタナ。デタナ。デタナ。デタナ。デタナ』

 またあの声だった。

 ハッキリと聞こえるようになってはいたが、耳に残るあの声はそのままだった。

 しかもさっきよりも近くより鮮明に聞こえた。

 我にかえって耳から離して相手の名前を見るとそこには意外な人物の名前が表示されていた。

(・・・俺・・・・)

 ただでさえ涼しく感じていたのに更に一気に血の気が引いていくのを感じた。急いで電源ボタンを押して通話を切ると画面は光を失っていく。

 それと同時に床に投げ捨てられた俺の携帯も光を失うのが見えた。

 俺の携帯にはもちろん彼女の番号もアドレスも入っている。

 誰かが操作すれば彼女の携帯にかけることなんて容易いことだろう。

 誰かが操作すればの話だが。

 もうわけがわからなくなっていった。

 恐怖はとっくに臨界点を超えている。

 精神は崩壊し何も考えられなくなっていた。

 助けは呼びたいが携帯を使う気にはなれなかったし、何故か思うように声が出せなくなっている。

 何もできない。

 今できることが何もなくなると、かえって気になることを考え込んでしまうことがある。

 あの声。

 ずっとひっかかっていた。

最初は不気味な音だったが、鮮明になるにつれてはっきりわかるようになってきた。

あれは間違いなく彼女の声。

だとすると・・・。

 彼女はやはり・・・俺を恨んでいる。

 そう、私はあなたを恨んでいる。

 私を一人にしていつまでも私のもとに帰ってきてくれなかったあなたを。

 でも、あなたは私のために死んでくれた。

 それなのに、あなたはまだそこにいる。

 私が苦しんだその場所に。

 記念日に私を一人にした、あの時のまま。

 そして、今も私を一人にしている。

 だから、あなたも苦しみなさい。

 私の苦しみを知って思いだして。

 そして早くこっちにいらっしゃい。

 こっちでまた一緒に暮らしましょう。

 だから・・・。

『ハヤクキテ』

 また声が聞こえる。

 携帯からではない。

 どこからともなく聞こえてくる。

 もしかしたら幻聴だったのかもしれないが、そんなこと考えてはいられない。

 耳を塞いでいても聞こえてくるのだから。

(もう、やめてくれ!)

 そう心の中で叫んだ時だった。

 また階段を上がる音が聞こえ、すぐに部屋の前が騒がしくなった。

 しかも今度は一人じゃない。

 これ以上の恐怖はもういらない。

 俺は必死になって願った。

 この恐怖から解放してくれと。

 その思いが通じたのかはわからないが、部屋の前には意外な人物たちが立っていた。

「警部はこの事件にこだわりますね」

(警部・・・?)

 あまりに予想だにしていなかった人物の登場に安堵したせいか思考が止まった。

 数秒遅れて再起動した俺の脳が部屋の前に立つ男の言葉の意味を理解した。

(警察の人間か)

 しかも話しからすると、どうやら事件担当の刑事のようだ。

「犯人は未だ捕まらず、しかも通報者も通報後に自殺。こんな事件を途中で丸投げにはできないだろ」

「そりゃそうなんですけど。でも、だからって近況報告に誰も住んでいない現場に来る意味あるんすか?」

(え?)

 声からして若い刑事の言葉がひっかかった。

 誰も住んでいない現場とはどういうことだ。

 しかも通報者は自殺したと。

現場は確かにここだが、ここには今でも俺が住んでいる。

あの忌わしい事件の後もずっと。

何度もここを出ようかと思った。

ここには思い出が多すぎるから。

ここにいれば彼女にも帰る場所があるんだと、自分に言い聞かせながら一人の生活に必死に耐えて生きてきた。

帰ってくるはずのない彼女をただひたすら待ちながら。

だから俺はずっとここにいる。

第三者なんているはずがない。

じゃあ通報者って誰だ。なんでそいつは死んでるんだ。

彼女があの日に限って誰かを部屋に連れ込んでいたのか?

いや、もしかしたら俺が仕事の間はいつも他の誰かと一緒にいたんじゃないだろうか。

そいつが彼女を殺して発見させるために警察を呼んだ後で後追い自殺したとか。

じゃあ今までの二人の時間はなんだったんだ。

 混乱と憶測はどこまでも続いたが、そんな俺のことに構わず外の刑事の話は続いた。

「じゃあ報告してくるからここで待ってろ」

「やっぱり一人で行くんすか?」

「ああ、俺が担当した事件なわけだし、まだ良い報告ができるわけでもないんだ、二人で報告する必要もないだろ」

「わかりましたよ。早く済ませてくださいね」

 刑事たちの話が終わると何の抵抗もなく俺の部屋のドアが開かれた。

 警部と呼ばれていた中年の男がそのまま躊躇することもなくズカズカと入ってくる。

 不思議なことに迷うことなく部屋の中心までくると辺りを見回し誰にともなく小さな声で話し始めた。

「あの時は世話になったな。正直あんたが死んだ時はちょっと焦ったが通報してきた彼氏が俺たちの到着前に自殺してくれたことはラッキーだったぜ」

 刑事はそのまま腰を下ろすと大げさなくらい大きな溜め息をついてみせる。

「そのおかげで被疑者死亡扱いになったんだからな。そりゃそうだろ?彼女が死んでいるって通報してきた彼氏が、その後に自殺。その状況なら痴話喧嘩のまま勢いあまって殺しちまったなんてのは良くある話しだし、それに耐え切れず後追い自殺なんてのは自然なもんだ。このアパートには俺たち以外に住んでる者もいなかったから聞き込みもままならず状況判断で片がついた。ただ、彼女の死亡推定時刻に彼氏は会社の上司と一緒だったってアリバイが出てきたもんだから、被疑者死亡という形をとりつつ未解決扱いになっちまったがな。どっちにしても俺には都合の良いことってわけだ」

 部屋の構造を良く知る刑事はニヤつきながらも外にいる相棒の刑事には聞こえない程度の声で話を続ける。

誰もいない部屋の天井に向かって。

「あの時言ったよな、警察を呼んでも無駄だって。意味わかっただろ。あんたが呼ぼうとした警察は目の前にいたんだからな」

 このうえないくらいに自慢げに隣の部屋の男は話していた。

 時には手振り身振りを交えながら事件を再現するかのように。

 その時の男の顔はまるで武勇伝でも語る子どものような笑顔だった。

「それにしても、現場に来たときは驚いたもんだぜ。彼女の死体だけでなく彼氏が一緒に死んでるんだからな。首に包丁つきたてて彼女の隣で。死んでも一緒ってか?どこまでバカなんだか」

 男が吐き捨てるように言ったその言葉で、俺はやっと気がついた。

 自分がとっくに死んでいたことを。

 彼女の死を受け止めきれないまま死んだことで、思念だけがこの世に残り未だにちゃんと彼女の所に戻ってこない俺を彼女は怒っているのだろう。

 まだ一人にするのかと。

 あの時から彼女はずっと一人。

 俺が変わらない時間の中で、自分の死すら気づかないままさまよっている間も。

 随分と待たせてしまったが、もう少ししたらそっちに行くことを心で呼びかけてから俺は部屋から静かに消えた。

 直後、部屋に残された携帯が鳴り響いた。

「俺の携帯じゃねえな」

 俺のはポケットに入れたままだし、部屋の中に落ちているわけがない。

 誰かがここに入りでもして忘れていったのか。

 一瞬驚いたが深くは考えずに携帯の通話ボタンを押し耳へと持っていく。

『・・・ギ・・・ギギ・・』

 突如耳に不快な音が飛び込んできた。

 とっさに携帯を耳元から離す。

「何だ今のは?」

 すでに耳に残っているその音が気持ちが悪くなるくらいに頭の中で反響している。

 薄気味悪い感じだ。

 手に持った携帯を見つめてようやく気がついた。

 それが殺した女の携帯だということに。

(あの女の携帯なら署に保管してあったはずだが)

 殺害現場に落ちていた携帯がこんなところに放置されるわけがない。

 それに俺自身が自分の手で署に持って帰ったんだから間違いない。

 じゃこの携帯はいったいなんなんだ。

 そういえば気のせいか部屋が薄暗い。

 俺がここに来たのは昼過ぎ。それにしては暗すぎる。

(カーテンでも閉まっているのか)

 暗いという表現が正しいのかどうかはわからない。

 経験したことはないが、違う空間に飛び込むとこんな感じなのかもしれない。

 そう思わせるほどに重く淀んだ暗さだった。

 はっきりとは見えない窓の方を確認するために、暗がりのなか()り足で移動しようとした時だった。

 何か生温いものが足の先にあたった。

 それとほぼ同時に覚えのある臭いが鼻についた。

 殺害現場なんかで何度も臭った死体が放つ独特の臭い。

 足元になにかがいる。

 目を凝らして見ようとした瞬間。

 手に持ったままの携帯が振動を始めた。

 画面には非通知の文字が浮かびあがっている。

 出るか・・・出ないか・・・。

 一瞬迷ったが思い切って出ることにした。

 すぐに耳元に持っていき同時に怒鳴りつけてやろうと考えていた。

 だが、その考えは脆くも崩れ去った。

『モウカエレナイ』

『モウカエサナイ』

 一瞬のことだった。完璧なタイミングであの音のあの声で宣告された。

 たった一言を告げると通話は切られ部屋に静寂を越えた無音が訪れる。

 それが何を意味するのかわからなかった。

 その時までは。

 外界と完全に遮断された部屋でいきなり男は悶絶した。

 もの凄い力で壁に叩きつけられたのだ。

 何度も何度も繰り返し執拗なまでに叩きつけられていく。

 骨が衝撃に耐えられる限界を超えて一気に砕け始める。

 それでも攻撃の手が緩められる様子はない。

 その音を聞いて相棒が駆けつけてくれることを男は心から願ったが、音が外に漏れることはない。

 助けを呼ぼうと必死で叫ぼうともした。

 だが、それも叶わない。

すでに喉も潰されているらしく声が出なかった。

『・・・ギ・・・ギギ・・』

 声の限り悲鳴をあげているつもりだった。

声とは呼べない音と言うべき声で。

 外にいる相棒の耳に届いてくれと叶わない願いを込めて。

 みるみるうちに壊れていく自分の体の感覚を意識だけは明確な脳が受け止める。

 それがまた過酷だった。どんなに壊れていっても気を失うことさえ許されないのだから。

いっそ死んだ方がマシだと思える激痛に苦しみながら男の目は何かを映していた。

 男と女の影。

 ぼんやりとだが男には確かにそう見えた。

 それが誰を表し何を意味するのか、長い年月で磨かれた刑事としての勘が男に理解させた。自分がどんな立場にいるのかも同時に。

 激痛の苦しみと耐え切れない恐怖から何とか逃れようと最後の力を振り絞った時だった。

「ぐぅ・・あぁぁぁぁぁぁぁ」

 見計らったかのように最後の瞬間が訪れた。

 いや、実際にそのタイミングを狙っていたのだろう。

腹をこれまで以上の力で踏み抜かれ男は『く』の字に曲がった。

浮いた頭と足が床に着いたときには男にもう息はなかった。

無音だった部屋は外の風の音が聞こえてくるだけの静寂な部屋へと戻っていく。

男を襲った惨劇から五分が過ぎ十分が過ぎようとしたころ、いつまでも部屋から出てこない上司を呼びに若い刑事が中に入ってきた。

数秒もしないうちに信じられないような絶叫がアパート周辺に響き渡る。

それは、刑事の彼も見たことのないほど凄惨な光景だった。

男が一人部屋の真ん中で死んでいる。

何がおこればそんな死にかたができるのか想像を絶する死にかたで。

その後、刑事はすぐに署に連絡して状況を説明した。

もっとも、状況といっても男が絶命する瞬間はみていない。

それ以前に何が起こったかも知らない。

そんな彼が説明できたことは、駆けつけた刑事たちが見たままの光景だけだった。

刑事たちの話によると、内臓を潰され骨という骨を砕かれたうえに、あらぬ方向に曲がった四肢の状態は見るに耐えがたかったという。

だが、いくつもの殺害現場を見てきた彼らでさえ吐き気を感じずにはいられなかったのは、その状態でさらに首に深々と包丁が突き立てられている光景を見たときだったという。

人間の憎悪だけでこれほどのことができるとは思えなかった。目の前にその光景が広がっていなければ。

その場にいるだけで、その憎悪に直接触れているようで早く現場を去りたいとさえ皆が思っていた。

署に戻った刑事たちは状況から判断してすぐに犯人の割り出しにとりかかった。

現場には生き残った刑事と殺された警部の二人以外には誰もいなかったことから、最初は若い刑事が疑われたが、包丁に残っていた新しい指紋から犯人は別にいることがわかり、それと同時に事件は迷宮入りとなってしまった。

迷宮入りとなった理由は、その指紋が誰のものかわからなかったからではなく、指紋の持ち主が誰なのかわかってしまったからだった。

そして、その指紋の持ち主こそが事件を迷宮入りさせる扉となっていた。

なぜなら、その指紋の持ち主は半年前に、今回の殺害現場であるアパートで首に包丁を突き立てて死んでいることがわかったのだから。

もちろん彼が自殺した時についた指紋ではないかという考えもでたが、そんなことは有りえないことは明確だった。今回ついていた指紋が自殺する時につく指紋の向きとは違っていたからだ。だからこそ彼が刺した何よりの証拠となっていた。

そしてそのことが事件を迷宮へと導いていた。

こうしてアパートの一室で二つの迷宮入り事件ができてしまった。二つの事件の真相を知るものはいないが、どちらの犯人ももうこの世にはいない。

時が過ぎていくと事件を調べようとするものも次第にいなくなっていった。

特に解決を望む親族もいなかったし、なによりあの事件に関わりたいと思うものはいなかったため未解決のまま事件は幕を閉じていった。

事件が解決されない以上、時効が成立するまではアパートをとり壊すこともできずにいた。そうして誰も住んでいないアパートはひっそりとその場に残されたままとなった。

ただ、あの事件以後、毎年同じ時期がくるとアパートの一室から携帯の着信音らしきものがきこえるようになったらしい。

着信音といってもそれが音なのか何なのか、はっきりとはわからない。

なぜなら聞こえた人は皆すぐにその場から離れて行ってしまう。

なかには着信音を聞いていて気持ちが悪くなるものまでいるという。

そんな気味の悪いものを調べようとするものがいるはずもなかった。

しだいにそれは都市伝説のように噂が噂をよび広まっていく。

噂に共通することは凄く不快なその音を聞いた人は皆揃って同じことを言うという。

それはこんな音だったと、喉を押しつぶした状態でその音をあらわす。

『・・・ギ・・・ギギ・・』

 それがいったい何の音なのか、知るものはもういない。

二人の浮かばれない想い。

 それを面白半分で広めていったものたちが、その後どうなるのか。

 この話は終わることなく廻り続けていく。

 誰かが死者の魂を噂する限り。

「ねぇねぇこれって知ってる?」

「何を?」

「・・・ギ・・・ギギ・・」

「ちょっとそれって」

「冗談よ」

「あれ、なんか急に暗くなってきてない?」

「それに何か臭・・うよ・・ね」

・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・

・・・・

・・

『・・・ギ・・・ギギ・・』

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・


    了


読んでいただき誠にありがとうございました。

いかがでしたでしょうか?ホラーというだけあって、少しは恐怖を感じていただけたでしょうか??

少しでもトイレに行きにくいとか鏡を見るのが怖いとか、ホラーらしい後遺症があれば作品としては成功かと思えます(どちらも作品中には関係ない後遺症ですが・・・)

せめて、部屋の中に一人でいる恐怖を感じてもらえたら嬉しく思います。

それでは、また別の作品でお会いできることを楽しみにしています。

最後まで目を通していただき本当にありがとうございました。

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