生まれ変わったその先で
瞼の裏に眩しさを感じて、嶺は目が覚めた。眩しさの出処に目を向けると、開け放たれた窓から日の光が差し込んでいた。
(……眩しい)
直ぐに視線を移動させる。すると、木目のある木の天井が視界に広がった。どうやらここは建物の中で、嶺はその一室で横になっているらしい。
アルスの言っていた事が正しければ、ここは既に嶺の知っている地球では無く、アルス達の管理する異世界であり、嶺はそこへ転生を果たしたという事になる。
(という事は…)
起き上がろうと力を入れようとするが、全く動かない、というか力も入らない。手も足も腕も、終いには首すらも動かない始末。
(やっぱりか)
そして最後の確認にと声を出してみた。
「あ、あ〜」
自分の出した声とは思えない高い声が発せられた。転生というから予想はしていたが、やはり今嶺は赤ん坊になっているらしい。それもきっと生後一月も経過していないだろう。首がすわって無いのが何よりの証拠だ。
と、そんな事を考察していると、嶺の視界に一人の女性が入り込んで来た。この女性が自分の母親なのだろうかと思い、その女性を観察する。
第一印象として先ず思った事は、貧乏臭いだった。ボタンも模様も無い草臥れた生地の粗いTシャツと股引の様な飾り気の無いズボンという、余り育ちの良さそうには見えない見窄らしい格好をした彼女は、良くも悪くも無いパーツで構成された顔をしていたが、やや頬が痩せこけている所為で更に印象は悪くなっていた。
(もしかして、この家って相当貧しかったりするのか?)
少なくとも裕福では無いだろう。良くもまあ子供なんて産む余裕があった物だと感心すらしてしまう。
しかしこれは予想以上に拙い状況かもしれない。家が貧乏という事は、明日の飯すら確保するのも大変なのだと思われる。そんな状態で何か問題が起これば、その皺寄せは嶺にも牙を向くのだ。下手すれば口減し的な扱いを受けかねない。
ある程度成長してからならば問題は無いが、今の身動き取れない赤ん坊の状態で放置されればどうしようも無い。せめて自分が身動き取れるようになるまでは何とかもって貰いたい物だと切に願う。
「どうしたの、レイ」
女性はそう言って嶺の頬を撫でる。どうやら名前は前世と同じらしい。名前の違いで困るような事にはならなそうだ。そして言葉もちゃんと聞き取れるらしく、言語で苦労するような事も無さそうで一安心である。
嶺が、いやレイが思考に耽っていると、何も言わない我が子に不安になったのか、女性が顔を覗き込んで来た。
(ヤバい!)
この世界には異端という言葉が存在しているのだ。赤ん坊の状態で下手に異端視されたら、ご飯を与えられずに餓死してしまう可能性が出て来る。今はまだ不審に思われる訳には行かないのだ。それが例え信用出来ない人間であったとしても。
「だ〜!」
取り敢えず適当に反応してますよ的な感じで声を出したら、母親と思しき女性は安心した様だ。
「お母さんまだ忙しいから、大人しくしててね」
女性はそう言うとレイの視界から消えた。しかし物音は近くでする事から、この部屋の中には居るらしい。
(危なかったぁ)
人生リスタートして即異端視されて殺されるなんて冗談じゃない。折角手にした第二の人生、堪能せずして何の為の転生か。
今回はやり過ごせたから良かったが、これからは全力で赤ん坊の真似事をしなくてはならないだろう。少なくとも自力で活動が出来るようになるまでは。正直ついこの間まで十七歳の高校生だったレイにとって、赤ん坊の真似事なんて死ぬ程恥ずかしい事はしたくは無かったのだが、やらなければ命が危ない以上は黒歴史確定であろうともしなくてはなら無い。
(そう、今の俺は正真正銘唯の赤ん坊だ。赤ん坊なら赤ん坊らしい行動を取ってもなんおかしくは無い。だから恥ずかしい事なんて何も無い)
そう自分に言い聞かせて覚悟を決めたのは良いのだが、今直ぐにその演技が必要だという訳では無く、暫くは気を張る事も無いだろう。
そうなると、その暫くの間は体を動かす事の出来ないレイにとってはする事の無い退屈な時間となる。流石に動けるようになる数ヶ月もの間ボーッとするだけというのは迂遠だ。
(…そうだ、魔力)
まだ魔力制御が転生してもちゃんと使えるのか試していない事に気付いた。出来るとは思っているが、もし使えなかったらという不安が頭を過る。あの時のレイは霊体だったから、肉体を持ったら感覚が変わっているかもしれない。
そう思い、試しにと魔力の制御に取り掛かる。先ずは目を閉じて、自分の体内の魔力を感じてみる。すると、思いの外簡単に魔力を感知出来た。まだ体が完全に完成していない赤ん坊だこらなのか、それとも感受性の高い子供だからなのか分からないが、自分の体内に温かい流れが存在するのがはっきり分かった。
次はそれを制御しようと試みる。今体内で流れている魔力は暴風のようにそこかしこを適当に流れているだけだ。これを意図的に体の中を循環するように持って行く。血液の流れを意識して心臓から身体中を巡るという、練習している時に気付いたレイにとってのやり易いイメージで操作する。
結果、流石に習得したばかりの時と同じという訳には行かなかったが、上手く制御する事には成功した。
何だか流れが何かに遮られているような感覚を受けたが、これは霊体とは違って肉体が物理的な壁のような役割をしているからなのだろうかと考えたりもしたが、取り敢えずは上手く行った事にホッとする。
今後はこれを前と同じ、いや、前以上に上手く出来るようにする事が目標となるだろう。幸いな事に泣くか寝てる事くらいしか出来る事の無い赤ん坊の今なら、練習する時間は腐る程ある。自力で立てるようになるまでには前と同じくらいには出来るようになるだろう。と言うかそれを最低目標とレイは定めた。
(安心したらまた眠くなって来た…)
体に引き摺られているのか尋常じゃ無い眠気が襲って来た。赤ん坊の体は思った以上に燃費が悪いらしい。知りたい事は知れたのだし、今は成長ホルモン促進の為にもこの睡魔に便乗しようと決め、レイは再び眠りに就いた。
ーーー
次にレイが目を覚ましたのは、それから暫くしての事だった。気持ち良く寝ていたレイの側で何者か二人集まってヒソヒソと話しをしていたのだ。いや、ヒソヒソなんてレベルじゃ無い。完全にお喋りレベルの音量だった。
「見て見て、この子だよ!」
「本当。本当にフィリア様の加護を受けてるのね」
「しかも唯の加護じゃ無いよ!凄いやこんなの、見た事無いよ!」
「フム、フィリアはこの子供のどこを気に入ってここまで寵愛なさったのかのう」
直ぐ側でワイワイ騒がれてはレイとしては堪ったものでは無かった。生前からレイは目覚めが悪いのだ、特に無理矢理叩き起こされるという行為に関しては万死に値するとすら思っている。
故に今は騒いでいる連中にも、これ以上騒ぐのならば最悪赤ん坊の権力を行使して全力で泣いてでもご退場頂く所存である。
(煩いな、さっき寝たばかりなんだから静かにしてくれよ)
別に誰かに言うつもりで言った訳では無かった。言おうとした所で言葉も発せ無いのだから意味も無い。だから心で思うだけにしようと思ったのだが、
「わっ!?この子今喋ったよ!」
「あらまぁ、まさか産まれたばかりなのに私達と話せるだなんて」
「ビックリだね。凄い凄い!」
「これは将来有望かもしれんな」
声の主達は更にテンションを上げて反応して来た。
(ハァ?)
喋ってもいないのに話が通じている。訳の分からない出来事に驚いて意識が覚醒した。こうなると最早寝る気にもなれないので目を開けると、外から射し込む光とは別に、赤、青、緑、黄色の光の玉がフワフワと浮かんでいた。
「あ、起きた!」
「いや、元々起きておったであろうに」
「でも半分は寝てたんだよね」
「あら?結局寝てたのかしら、起きてたのかしら。あららぁ?」
(…別に半分寝てたのなら半寝でも良くないか?)
「「あ、そっか〜」」
レイの冷静なツッコミに赤と緑の光球が反応した。どうやら声の主は目の前に浮かぶ光球で間違い無いらしい。
(というか、お前等は何なんだ?)
喋る光球なんて聞いた事が無い。地球では無い明らかなファンタジー世界なのだから知らない事があっても不思議では無いが、だからと言って知らないまま話を進める訳にも行かないだろう。
「私は火の精霊だよ!」
「私は水の精霊です。宜しくお願いしますね」
「僕は風の精霊だよ」
「妾は土の精霊なのじゃ」
何というかいかにもファンタジーな答えが返って来た。知らなくて当然だ、精霊なんて見た事無いのだから。
(で、その精霊が何でこんな所に居るんだ?)
「えっとね、フィリア様の加護の力を感じて来たの」
(加護?)
そう言われて、フィリアにキスされた時にアルスの加護を受けた時に感じた物と同じ物を感じ取った事を思い出した。それと同時にその時の事を思い出してしまい、慌て要らない情報を忘却の彼方へ吹き飛ばす。
「フィリア様の、精霊神様の加護だよ」
「この近くで遊んでいたら、偶々感じてね」
「フィリア様の加護を受けた人って珍しいから、気になってしまいまして」
「どのような奴が加護を授かったのか見に来たのじゃ」
(そうか)
あのフィリアがそんな事をしてくれていたとは驚きであったし、そのフィリアが殆ど加護を与えた事が無いという事にも驚いた。いや、逆にあのフィリアだからこそと思えば納得出来るかもしれない。あのお子様が神様としての仕事をちゃんとしているとは思えないし。
「しかも唯の加護じゃ無いんだよ。『精霊神の溺愛』なんて加護初めて聞いたもん」
(は?溺愛?)
加護とか寵愛なら兎も角溺愛、一体フィリアは何をもってレイを溺愛したのだろうか。あれだろうか、クッキーを半分こした事だろうか。だとしたらチョロ過ぎるぞ精霊神。
(それでお前等は面白い物見たさでここに来たって訳か)
「私達だけじゃ無いよ!他にも一杯!」
そう言われて周りを見ると、成る程確かに、部屋の中に無数の光球が遠巻きに漂っていた。最初の四体と違ってこれと言って色は付いていない見たいだが、ヒソヒソと何かを話している事は何となく聞こえて来た。
(こいつ等も精霊なのか?何かお前等と違って色付いて無いけど)
「この子達はまだ産まれたばかりなんだよ!」
(…どういう意味なのかさっぱり分からないんだが)
何がどうなって産まれたばかりだと色が無いという事になるのかを聞いているのだ。
「精霊っていうのは、産まれて暫くは属性を持たない物なんですよ」
「それから暫くして、周りの自然の影響を受けて、僕達みたいに属性を持つんだよ」
「つまり、妾達は周りの奴等よりも一つ上の存在という訳じゃ」
バラバラに喋られて面倒だったが、何とか把握出来た。この世界では精霊はそういう性質を持っていたという事か。物語なんかの創作物では予め属性を持って現れていたから考えもしなかった。
所で…そろそろ喋る奴を限定すべきだろうか。
(そう言えばお前等は何て呼べば良いんだ?因みに俺はレイだ)
ここに来てお互いの名前も知らなかった事に気が付いた。長年人とちゃんとした挨拶なんてしていなかったから、最初に自己紹介し合うという初歩的な事を忘れてしまっていた。字面だけ見ると完全にコミュ障である。
「私は火の精霊だよ!」
まるでロールプレイングゲームのような回答が返って来た。
(いや、そうじゃ無くてだな…)
「ごめんなさい。私達まだ名前が無いんです」
(そうなのか?)
ではどうした物か。名前が無いとなると一々呼ぶ際に火の精霊とか呼ばなくてはならなくなる。今はそれそれ一体だけだから良いが、これが複数体存在した時は面倒だ。
(なあ、だったら俺が勝手に名前付けても良いか?)
「え!良いの!?」
(あ、ああ)
何故かノリノリな火の精霊。そんなに欲しかったなら自分で考えれば良かっただろうに。
「付けて付けて!名前頂戴!」
「どんな名前になるのかしら、楽しみだわ」
「僕も!可愛い名前だと良いな」
「変な名前にしたら承知せんからな、覚悟して名付けるのじゃ」
他の三人もノリノリだ。本当に何故自分で名付けないのだろうか。
とは言えレイが名付けると決まってしまった以上は仕方ない。責任を持ってちゃんとした名前を付けなければ。
(あー…、じゃあ赤いのがフラム、青いのがアイシア、緑がシエルで、黄色いのはティエラでどうだ?)
色々と考えた末に提案してみたのだが、光球達からの反応が無い。沈黙のままフワフワと浮いているだけだ。周りの光球達も何だかソワソワしている。
(あれ?何かマズッたか?)
まさか気に入らなかったのだろうかと思われた次の瞬間、四つの光球が眩い光を発した。
光が収まると、そこには四つの光球は消えて、代わりに四人の少女の姿が在った。
それぞれ赤い髪をサイドアップにした活発そうな少女、ウェーブの掛かった青い髪を腰まで伸ばしたお淑やかな少女、緑の髪をショートヘアにした中性的な少女、金糸のような髪をツインテールにした褐色の少女だ。皆白地にそれぞれ赤、青、緑、黄色があしらわれたドレスを着ていた。
しかしその四人共が、一般の人のサイズとは掛け離れて小さかった。そう、先程の光球と同じくらいの大きさの、言うなれば小人と表現しても遜色無いくらいに小さかった。
「やったー!」
自分達の姿を確認して大はしゃぎする彼女等に、レイは付いて行けずに置いてけぼりを食らっていた。
(えっと、どういう事だ?一体何がどうなってるんだ?)
「そう言えば、レイさんはまだ産まれたばかりだから知らないんでしたね。私達精霊は名前を持つ事によって、また一つ上の段階に成長する事が出来るんですよ」
「人の形になる事が出来るくらいにはね」
「名前を持つという事は、この世界との結び付きが強まる事を意味しているからのぅ。その影響で妾達の器が大きくなり、人型を成すまでの魔力を得たのじゃ」
どうやらレイは知らない内に、彼女達を成長させる手助けをしていたらしい。どうりで周りの精霊達が「良いな〜」と言っている訳だ。
(そうだったのか)
「ありがと〜、レイ!」
フラムが嬉しそうにレイの頬にピトッとくっ付いて頬擦りし出した。
「うわ〜、レイのほっぺスベスベだ〜」
レイの頬の肌触りが大層気に入った様で、フラムはレイにベッタリくっ付いて離れなくなった。産まれたての赤ん坊なのだからスベスベなのは当たり前だろうに、知らなかったのだろうか。
フラムに触発されて他の三人の精霊達もレイに触り出し、更に周りにいた精霊達までもレイに殺到して、宛ら蟻に集られたみたいになってしまっていた。フラム達は兎も角、無属性の精霊達は光球なのに質量があるのか、質感が綿毛のようにフワフワしてて擽ったい。
「うわ〜、本当スベスベ!」
「人間には初めて触れたけど、こんな感じなのね」
「心地良い触り心地じゃの」
(ウプッ!オイ、そんなに引っ付くな!息が出来ないだろ)
「あっ、ごめんね」
一斉にレイから離れる精霊達、しかしその中で一人、フラムだけが未だにレイから離れずに頬擦りを続けていた。
「にへへ〜、スベスベ〜、スベスベ〜」
「あらあら、フラムったらあんなに懐いちゃって。妬けちゃうわね」
「そうだね。加護の影響なのかな、何だか近くに居たくなるんだよね」
「ウ、ウム…羨ましいのじゃ…」
余りのフラムの懐きように、他の精霊達に変な空気が伝染して行く。
(オ、オイ、お前等大丈夫か?何か危ない雰囲気出してるけど)
「う、うん…いや、ごめん。僕もう我慢出来ない!」
「あっ!狡いぞ!妾ももう限界じゃ!」
「あらあらまぁまぁ。なら私も混ざろうかしら」
そしてまた集まり出す精霊達。結局レイはまたしても精霊達に集られる事になるのであった。
精霊達にスリスリされる時間は数時間に及び、それが終わりを迎えたのはレイの母親がレイの側に来た時だった。母親がレイを抱き抱えると、レイにくっ付いていた精霊達は「うわ〜」や「きゃ〜」などと言いながらポロポロと引き剥がされて行った。
「あらレイ、大人しく待ってられたのね。偉い偉い」
どうやらやっていた事が一段落した様で、休憩がてら用事の間構ってやれなかったレイをあやしに来たらしい。
精霊に集られて踠いていた時にうーうー言っていたから起きていたのは知っていたのだろう。レイからすれば見事なファインプレーである。
。
(助かった…)
頬どころか全身にスリスリされて、光の玉でしかない筈の精霊なのに擽ったくなったりしていたから辛かったのだ。もう少し遅かったら恥も外聞もかなぐり捨てて泣き喚いていただろう。赤ん坊だから恥も外聞も無いだろうに。
しかし、精霊達から解放されると、今度は別の問題が浮上して来た。
(ヤバい、今度は腹が減って来たな)
散々精霊達と戯れた所為で体が空腹を訴え出したのだ。そういう意味でも赤ん坊とは燃費が悪いらしい。
だが考えて欲しい、赤ん坊のご飯とは何なのか。そう、母親の母乳である。胸から出て来るミルクである。つまりレイが食事をする為には、今現在レイを抱き抱えている女性に胸部を露出させ、更にそこにレイ自身が吸い付かなければならない。
(何だってこんな歳にもなってそんな羞恥プレイさせられなきゃならないんだよ)
内心愚痴を零したがそれも今更である。前世の年齢は兎も角、今のレイは唯の赤ん坊である。羞恥プレイも何も唯の食事でしかないのだから気にするだけ無駄という物だ。
それに既に一度赤ん坊の演技をしているのだから、また赤ん坊のフリをするのもさっき程辛くは無い。
(やるしか無いか)
覚悟を決めたレイは全思考を停止させて乳幼児の演技を開始した。そう、全力で無いたのだ。その行為は思っていた数倍羞恥心を掻き立てられる物で、心の中で『俺は赤ん坊俺は赤ん坊…』と自己暗示し続けなければ到底その恥ずかしさに耐えられる物では無かった。
「え!?えっと…よしよし、どうしたの?」
(どうしたのじゃ無い!頼むから早く気付いてくれよ!じゃ無いと俺の方が保たないから!)
切に願いを込めて泣き叫ぶレイ。母親は何故泣いているのかを考え、そして一つの答えに辿り着く。
「もしかして…」
(お!遂に分かってくれたのか!?)
「おしめかしら」
(そっちじゃなぁぁぁいッ!!)
心の叫びと共に鳴き声も一層激しくなった。その声の大きさたるや、最早周りの精霊達が耳を塞いでいる始末だ。フラム達は兎も角他の無属性の精霊達に耳が存在するのかは不明だが。
「違うのかしら。だとすると、お腹が空いたの?」
(良しッ!)
思いが通じた事に内心歓喜の叫びを上げるレイ。赤ん坊の鳴き声が弱まったのを肯定と受け取ったのか、母親は少し安心した。
「待っててね。いまあげるから」
そう言って母親は着ていた服をたくし上げて、胸を露出させた。酷い言い草ではあるが、見た目と同じく貧相な胸だった。
下着の類は身に付けていない様だ。下着を買うだけの余裕が無いのか、或いはそもそもこの世界に存在しないのか。まあ今はそんな下着の事を気にしてもしょうが無い。取り敢えずは母乳を摂取する為に、母親の胸に吸い付く。
あって数時間と経っていない女性の胸に吸い付くのもどうかと思ったが、そこは自己暗示とエネルギー補給の為という大義名分の下、何とか色々と抑え込んでご飯に有り付けた。
「御免ね、余り出が良く無いみたいで」
母親の言った通り、母乳の出は余り良く無かった。そしてこれは関係無いかもしれないが味も良く無い。量が少なかったから水でかさ増しした牛乳みたいな味だ。
貧乏だから栄養が少なくて母乳に回っていないのかも知れない。果たして乳離れするまで保ってくれるだろうか。例えレイが吸い尽くしたりしなくとも、ちょっとした飢饉が起これば一気にこの均衡は崩れ去るだろう。
少し心配になるが、身動き取れない赤ん坊の身では祈る事しか出来ない。フィリアに祈るのは心許ないので、取り敢えずアルスに祈って置く。一応レイは月の女神の使徒だし。
時間は掛かったが何とかお腹も膨れたので口を離す。我慢出来ずに小さなゲップが出てしまったが、赤ん坊ならさして問題無いだろう。
「ユーリ、レイ、帰ったぞ」
「アナタ、お疲れ様」
レイのエネルギー補給が終わったタイミングで、誰かが帰って来たようだ。そう言えば気が付けば外はもう夕暮れ時だ。そうなると一体どれたけの時間レイは精霊に集られていたのだろう。集られる前は昼間だったから結構長かったのではないだろうか。
やって来た男は恐らく母親の夫、つまりレイの父親だろう。母親よりかはガッシリした体型ではあるが、やはり痩せこけた頬は同じで、余りいいものを食べれてはいないらしい。
顔もやはりパッとしない普通顔、寧ろどちらかと言えば芋っぽさの残る顔付きだ。母親よりも暗い、ブラウンと表現するよりも焦げ茶色と表現した方が合う短髪もまた有り触れた髪型で、パッとしなさを際立てている。
こんな両親の顔を受け継いだレイがイケメンである事は先ず無いと言って良いだろう。寧ろ父親の芋っぽさを受け継いでいない事を祈るばかりだ。
「おおレイ、良い子にしてたか?」
父親は母親のユーリからレイを受け取り、自分の目線の高さまで持ち上げる。
「(此処で返事しないのは拙いよな)う〜?」
「ハハハ!元気そうで何よりだな」
「アナタ、夕餉の準備が出来てますよ」
「ああ、そうだな」
父親はレイを揺籠に戻すと、その揺籠ごと持ち上げて母親のユーリと共にリビングに移動した。リビングは大して広くなく、キッチンと呼べるか微妙な台所と部屋の真ん中に椅子が片側二つの四つ並べられたテーブルが設置されただけの空間だった。
父親は部屋の隅に揺籠を置くと、テーブルに腰掛けた。そこへ母親のユーリが木のボウルに入れた料理を並べ、父親の向かいに腰掛けた。
ここで食べ始めるのかと思いきや、二人揃って手を組んでお祈りを始めた。
(そう言えば、この世界では信仰が根強いんだったな)
いただきますぐらいでしか信仰が垣間見えない日本では先ず見られない食事風景だ。
「さあ、食べよう」
「はい」
お祈りをが終わると、父親の合図でお互い食べ始めた。
「それで、畑の方は?」
「何時も通りだな。この分なら、今年もどうにかなりそうだ」
「そう、良かったわ。この子が産まれたばかりだから」
「そうだな」
どうやらレイの家は父親の畑と母親の内職による共働きで生活しているらしい。子供を産む位なんだから多少は余裕があるのだろうが、さっきのユーリの言葉を鑑みるに、畑の方が不作だとそれだけで危うくなるような経済状況らしい。
(本当に大丈夫なんだろうな。)
せめて走り回れるようになる三歳、贅沢を言うのなら外を駆け回っても怪しまれない五歳位になるまではどうにかもたせて欲しい所だが、それも少し不安になって来た。産まれて一月も経たない内に未来に不安を抱える事になろうとは、レイの人生は二回目になっても中々にハードモードらしい。