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数日後、レイは久々に屋外にある露天風呂に入っていた。こっちに入る事にした理由は特には無い。強いて言えば、久々に夜空を見上げながら風呂に入りたいと思ったからである。
空を見上げれば満天の星空。宝石を散りばめたような美しい光景を見上げながら風呂に入るのは精神的な充足感を与えてくれる。周囲の木々から出るマイナスイオンの効果もあるのか、実にリラックスする時間だ。
尤もそんな空気を満喫する事が出来ない者も居る。それはエンシェントウルフの子供である子ウルフだった。レイの作った風呂をとても気に入り、入る時には一時間近く浸かる事が殆どで、風呂の為に一度は群れ作りさえ放棄した程の子ウルフが、今は落ち込んだ様子で風呂場の縁に置かれた岩の上に頭を乗せて黄昏ていた。
ここ数日、グリューエンレーヴェの一件以来、子ウルフはずっとこの調子だ。あれだけ張り切っていた群れ作りもまた放棄して、一匹だけで拠点内を彷徨いては黄昏ている。
そして今もこの場の誰よりも早く風呂から上がると、体を震わせて体についたお湯を払ってどこかへ行ってしまった。あの長風呂の子ウルフがだ。様子がおかしいのは誰の目に見ても明らかだった。
そしてその様子を心配そうに見るのは、子ウルフの母親であるエンシェントウルフである。子ウルフが風呂場から去って行くのを見届けると、横で我関せずを貫く我が子の主人を見る。
「なぁレイよ」
「何だ?」
呆然と星空を見上げたまま返事をするレイ。そこに話を聞こうとする雰囲気は皆無であったが、エンシェントウルフは構わず続ける。
「レイも知っているだろうが、あの子は今、とても落ち込んでしまっている。既に私が何度も慰めてやったが、あの子の調子は戻らなかった」
やりきれない面持ちのエンシェントウルフ。自分では子供を元気付けられない事に不甲斐なさとやるせなさを感じていた。
「あのままでは、あの子は塞ぎ込んだまま重圧に潰されてしまう。どうにかならんか?」
「ならんな」
にべもなく即答する。バッサリとぶった切られてしまったが、ここで諦める訳には行かない。なにせ我が子の未来が掛かっているのだから。可能性が少しでもあるのなら、今はそれに懸けるしか無い。
レイがそういう事をやるような人間では無い事は分かっている。だが、だからと言って素直に引き退る事なんて出来なかった。
「そこをなんとかならんか?あの子はお前の配下でもあるのだぞ」
エンシェントウルフがそう言うと、あからさまに嫌そうに眉を顰めるレイ。そして小さく溜息を吐いた。
「あのなぁ。俺だってお前からその手の話を聞かされる可能性を考えなかった訳じゃ無いんだよ」
レイだって子ウルフの様子がおかしい事は直ぐに分かった。そしてその時から、もし子ウルフが調子を取り戻さなかった場合、エンシェントウルフが相談に来る可能性もまた、可能性として考えてはいた。
その場合は面倒ではあるが、いつまでもウジウジされても迷惑なので、最低限の助言くらいならするつもりではいたのだ。
「でも、無理だろ普通」
「何故だ?」
思い当たる節が無いエンシェントウルフは眉を顰めて頭を悩ませる。
「良く考えてみろ。お前がやって駄目だったのに、俺が『元気出せ』って言ったところで上手く行くと思うか?実の母親であるお前が言って駄目だった事を、俺が言っただけで元気になると思うか?」
「いやしかし、もしかしたらーー」
「万に一つもありはしない」
尚も食い下がるエンシェントウルフに、レイはそう断言する。
「第一、お前は何であいつが落ち込んでいるのか知ってるのか?」
「それは、あのグリューエンレーヴェに敗れたのが原因では無いのか?」
「だったら慰めなんて要らんだろ。産まれて一年そこそこの子供が、何百年と生きた大人相手に余裕で勝てるなんて妄想抱いてる時点で間違ってるんだよ」
人間だって幾多の敗北や挫折を経験して生きて行くのだ。高々一回負けた程度で落ち込むようなら大した問題では無い。
「たった一回高くなった鼻をへし折られた程度で折れるような脆い心なら、一度粉々に砕いて再構成し直した方が手っ取り早い」
「いや、そこまでする必要は無いと思うが…」
極論過ぎて同意するには憚られる持論である。
「まあ兎に角、そんな下らない事で悩んでるなら慰めは不要って事だ。尤もそれだけじゃ無いだろうけどな」
「どういう事だ?」
「どうも何も言った通りの意味だ。多分だけどあいつが落ち込んでるのは、その敗北だけじゃ無いだろうな」
「何故そう思うんだ」
自分でもそこまで読み取れなかったというのに、レイが気付けた事が意外で、思わずそう尋ねる。
「具体的な理由は無いんだけどな。あいつ、俺の目を見ようとしないんだよ」
「は?」
「いや、だからな。昨日偶然あいつと目が合った時があったんだけどな。直ぐに目を逸らされたんだよな」
「……………」
「それとこれと何の関係があるのか分からないって顔だな」
視線だけ移してエンシェントウルフの顔を見てそう言う。当たっていたのか、エンシェントウルフはレイの目を見て続きを促した。
それを見てレイは目を閉じ、一つ呼吸をしてから話し出す。
「あの反応にどんな事情があるのかは知らない。けどもし負けて落ち込んでるだけなら、そんな反応にはならないだろ。そもそも落ち込んでるだけなら俺と目が合うなんて事にはならないだろうしな」
そこから導き出される可能性。それは、
「考えられるとすれば、あいつは俺に対して何か後ろめたい感情があるって事だ。そしてもしそうなら、タイミングからしてあの件が関係してると見てもおかしく無いだろ」
「そこまで分かっているのなら、何かしら解決策も思い付いているのではないのか?」
「それで考えて出した答えが、下手に触れるべきでは無いっていうものだったんだよ」
子ウルフが何をもって後ろめたいと思っているのかまでは分からなかったが、それが敗北という名の失敗から来るものである以上、レイが気にするなと言ったところで失敗で受けた心の傷が癒えることは無い。
「失敗は成功でしか補う事は出来ない。他人からどうこう言われるんじゃ無く、自力で吹っ切るしか無いんだよ。だからそれまでは今まで通り普通に接していれば良い」
「だが、それでは吹っ切れるまでの間、あの子はずっとあの調子のままだ」
「なら俺の出した案を蹴って自分なりに行動すれば良いんじゃないか?頭フル回転させて思い付く限り実践すれば、一つくらいは上手く行くんかもしれないし」
それにレイ自身は何もしないという答えを出したのだ。それを実践するか無視して別の案を実行するかはエンシェントウルフ次第であって、そこはレイが関与する部分では無い。
「兎に角、案は出した。この後どうするかはお前が決めろ。俺はこれからやる事がある」
そう言ってレイも風呂から上がる。
「やる事?」
「あぁ、新しい魔法の検証だ。前例の無い魔法だから、上手く出来ているのか確かめる必要がある」
「…それだけの強さを持って、まだ力を求めるのか」
「当たり前だ。この程度で満足なんて出来るか」
その貪欲さに驚きと共に呆れるエンシェントウルフ。今ですらその辺の街なら片手間に滅せるだけの力を持っているであろう。なのにレイはそれですら満足していない。
目標の高さが凄まじ過ぎる。レイは一体どこに向かっているのだろうかと思わずにはいられなかった。
「人間の欲求に際限なんて無いんだよ。一度手に入ると、もっともっとと欲しくなる」
「いや、レイをその辺の人間と同列に扱うのはどうかと思うがな」
少なくともまともな人間はこんな魔境に拠点を築いて、エンシェントウルフを居候させながら自給自足したりはしないだろう。
「兎に角、俺は俺でやる事があるんだ。後の事はお前の好きにすれば良いだろ。その方がお前も納得出来るだろうし」
そう言ってレイは風呂場から出て行き、体を拭いて着替えた後、ある場所を目指して移動して行った。
ーーー
子ウルフは一人、トボトボと拠点を徘徊する。その姿は目に見えて落ち込んでいた。
母親の説得の末、漸くレイの配下になったからにはと張り切って群れを作りに行ったというのに、突如現れた赤い獅子に惨敗した挙句母親を呼び寄せる為の餌にされ、更には主人であるレイに尻拭いをさせる失態を晒してしまった。
最初はレイと一緒にいればずっと風呂に入れるとか、レイに撫でられるのが気持ち良かったとか、そんな不純な気持ちもあった訳だが。それでも配下になると決めた頃には、レイのその底知れぬ強さに惹かれていたのが大部分を占めていた。
レイは強い、それも途轍もなく強い。それはレイの配下になる前から感じていた事だ。莫大な魔力量、それを操る技術、オリジナルの魔法を作り出してしまう類稀なる叡智。
少々美化されている部分も含まれているが、産まれてからずっと近くで、それも敵対する事無く過ごしていた子ウルフにとって、レイは心強い味方である。そんな味方であるレイの強さに子ウルフが強い憧れを抱くのも、それ程おかしな事では無かった。
そんな憧れていたレイの配下になれたというのに、その数日後にレイに無様な姿を見られてしまった。その事が子ウルフの心を苦しめていた。
単純に言って配下の敗北というのは、その群れの長の顔に泥を塗る行為である。そんな弱い奴を群れに入れている弱卒の長となれば、弱肉強食の世界では舐められてもおかしくは無いのだ。今回の子ウルフの失態はまさにそれだった。最終的にレイが圧倒的な力でねじ伏せてくれたが、子ウルフとしては尊敬する主人にカッコ悪い姿を見られた挙句その後始末をさせてしまったという事になる。
敗北を見られた羞恥心と後始末をさせてしまった自責の念で、子ウルフはすっかり意気消沈してしまっていた。それが生涯で初めての大失態というのも影響しているのだろう。今の子ウルフは正に、大きな失敗をして落ち込んでいる子供そのものであった。レイに会わせる顔が無いと思いつつも、チラチラとレイの様子を窺ってしまう所も子ウルフの幼さ故の行動である。途中一度レイと目が合い、その瞬間自分の抱えている心の負の面を見透かされそうな気がして目を逸らしてしまった事も含めてだ。
「こんな所に居たのか」
突然聞こえた声に跳ねるように頭を上げると、目の前にはいつの間に接近したのか、己の主人であるレイが立っていた。どうやら落ち込み過ぎて気配すら感じ取れなかったようだ。己の未熟さに内心更にヘコむ子ウルフ。
「ちょっと手伝って欲しい事がある。ついて来い」
しかしそんな子ウルフの事情などレイにはどうでも良く、御構い無しに用件だけを伝えると子ウルフの意思も問わずに歩いて行く。
一体何のようなのだろうと疑問に思いつつ、主人が呼んでいるからと取り敢えず後ろを付いて歩く。移動する間に会話は一切無く、ただ雑草を踏む音や草木が風に揺られる音だけが響き渡る。
ふと子ウルフはレイを見上げる。前を行くレイの表情に特に感情は感じられない。少なくともこの後怒られるとかそういう感じでは無いらしい。そう思って少しホッとすると同時に、自分はそう思われる程期待されていた訳では無かったのだろうかという思いがチラつく。
とはいえそんな事を尋ねる勇気も無ければ手段も無い。子ウルフは黙ってレイの後ろを付いて行く。
移動した先にはフラッフシープのメリーが居た。あれから更に数を増やして五匹の羊になっていて、今はそれぞれが思い思いに草を食んでいる。
レイはメリーも五匹全員呼び出すと、それ等も従えて更に移動して行く。そうして辿り着いた先はレイの生産活動等を行っている地下洞窟の中だった。そこはレイが主に魔法の練習を行っている区画で、ただのだだっ広い空間が広がっているだけの場所だった。
それを知らない子ウルフ達は、こんな場所に連れてきて、何をするつもりなのだろうかとレイを見ている。
「ちょっと待ってろ」
レイはそう言うと子ウルフとメリーから少し前に出て、右手を前に出した。そしてレイの右手が淡い光を放つと、それに連動してレイの前の空間も光り出す。光はやがて白い壁のような形になると、光りの消失と共に元の姿を現した。
それは一枚の扉だった。石枠で区切られた木製の扉。それがレイの目の前に設置されていた。
見た目は完全に普通の扉。一体これを見せて何を手伝わせようとしているのかと内心小首を傾げる子ウルフ。メリーに至っては完全に表に出している。
レイが扉に手を掛け、然程力を入れた様子も無く扉を押して両開きに開く。その扉の向こうを見て、子ウルフもメリーも驚愕した。
扉の向こうには、一面の草原とそれを照らす青空が広がっていたのだ。
先程までこの空間には暗闇と押し固められた土壁しか無かった筈。しかもここは地下であるにも関わらず、この扉を一枚の隔てた先には、草が青々と茂る草原が見渡す限り広がっていた。
「これは俺が魔法で作り出した空間だ。と言っても、土と草は外から持って来たものだけどな」
これはレイが愛用している【アイテムボックス】を応用したものだ。空間を大きくして、更に人一人入れる大きな入り口が付いているという点では【アイテムボックス】を拡大しただけの魔法である。
但し【アイテムボックス】とは異なり、レイはこの魔法に以前砂糖作りの時間稼ぎの為に開発した時間の流れを速める魔法を応用して、空間内でも時間が流れるようにしたのだ。
欠点は空間と時間という特殊な魔法を使っている為、それ等を制御する為に膨大な魔力を必要とする事と、魔力の関係上中に必要な物は外部から持ち込む必要があるという事だ。特に土や空気等の構成する成分が正確に把握出来ていないものや、動植物等の生物は必然的に外部からの持ち込みとなる。
今空間内で生えている草は、レイが事前に適当にばら撒いた後、入り口を閉じて空間内の時間を早送りした結果である。
そしてこの空間こそが、今回子ウルフ達を呼び出した理由となるのだ。
「お前等には今からこの空間に入って貰う。取り敢えず適当に走ったりしてみろ」
突然の命令に戸惑う子ウルフとメリー達。しかし契約がある以上、断るという選択肢は無いし、そもそもこんな事で逆らうつもりも無い。意を決して、子ウルフは扉に歩を進める。
扉のそばではレイが子ウルフを見ている。やる事は大した事無いのに、緊張しているのか足が重く感じられた。
そしてそんな緊張の中、子ウルフは扉一枚隔てた先へ一歩を踏み出した。一歩進めば自然と二歩三歩と足が前に出て、草と土の感触を踏みしめる。草の匂いと澄んだ空気、それは間違い無く自然のそれであった。
気が付くと足は進み、遂には駆け出していた。感覚的には風が吹いていないという点を除けば、殆ど外と変わり無い。入り口が無ければ、普通に草原に居ると錯覚しそうになるくらいに。
凄いと素直にそう思った。同時に駆け回る疾走感と共に、凄いという感情が頭を包み込む。特に説明を受けていない子ウルフには原理は理解出来ないが、こうして体験した上で考えてみると、レイは一つの世界を作ったようにも感じられたのだ。まるで神のように。
メリー達も小ウルフが行った事で安全だと理解したのか、草原に出て思い思いに動き出す。駆け回り、草を食べ、横たわってゴロゴロしたりとそれぞれ堪能している。そしてレイはその様子を扉の向こうから観察しながら時折周囲に目を向けていた。数分程それを続けた後に何かに納得したように小さく頷くと、レイも空間の中に入って来た。
「もう良いぞ。戻って来い」
レイの号令で、小ウルフとメリー達が戻って来る。途中メリーの内の一匹が眠っていて来なかったが、レイが大岩を直ぐ傍に落とすと、飛び起きて直ぐに戻って来た。
「用件は終わった。また用がある時は呼ぶから、その時は頼む」
用件の終わりを告げられて、小ウルフの熱が冷めてレイに呼ばれる前の感情が蘇る。それで一気に暗くなる小ウルフ。自分は期待されていないから、だからレイの作った空間を走り回るだけという簡単な命令しか与えられなかったのでは。そんな思いが脳裏を過る。
「あぁそれとなーー」
そんな子ウルフの前で、レイはある話を切り出した。
「色々とあって結構遅れたけど、そろそろお前にも名前を付けようと思う」
名前、それを聞いて子ウルフの尻尾が僅かに揺れる。配下になった直後は嬉しさとミクォラの出現で有耶無耶になってしまっていたが、ここ数日でレイがメリーの名前を呼んでいるところを見て、その部分に少しだけ嫉妬していた所もあった。
本来固有の名前を持たない魔物には、名前というものがどれ程重要な物なのかは分からない。しかし主人であるレイに自分だけの名前で呼んで貰える事が、今の子ウルフには何か特別な事のように感じられた。
具体的に何と表現すれば良いのか言葉が思い付かないが、強いて挙げるのであれば、自分という存在を他とは違う特別なものとして認めてくれているように思えたのだ。
その場で座して待つ子ウルフ。レイから賜る名前を今か今かと待っている。待ち遠し過ぎてほんの数秒が何十秒にも引き延ばされたかのように感じる程に。
そしてレイの口から、子ウルフに与えられる名前が告げられる。
「お前の名前はルーフィエだ。良いな?」
ルーフィエ。そう呼ばれた途端、その名前が自分の体に浸透して行くのを感じる。それは心の中で反芻するごとにより一層強くなって行った。レイが与えてくれた自分だけの名前。否などあろう筈が無い。ルーフィエは一つ頷くと、何度も自分の名前を噛み締めるように反芻する。
「あぁそれとなーー」
その途中、レイが割り込んで来て、こんな事を言った。
「一応言っておくと、その名前は誇り高き狼という意味の言葉から来ている。精々名前負けしないようにするんだな」
誇り高き狼。自分につけられた名前の意味を知り、ルーフィエの中で何かが込み上げて来る。レイが何の意図があってこの名前を付けたのか、その真相はレイにしか分からない。しかしルーフィエにはレイが自分にそうなるように言われているような気がしたのだ。
レイが自分に期待してくれている。そんな思いが、ルーフィエに活力を取り戻させる。落ち込んでいる暇など無い。レイの与えてくれた名前に恥じぬよう、より一層の努力を積み、レイの期待に応えられる存在にならなくてはならない。今のルーフィエはそんな使命感のようなものに満ち溢れていた。
「しかし、上手く発動出来てくれていたようで良かった。下手すりゃ中身全部異空間に持ってかれてたしな」
「メ゛ッ!?」
背後でそんな話がなされていたが、使命感に燃えるルーフィエの耳に入る事は無かった。
尚、メリーは確りと聞いていた模様。




