傲慢の代償と選択の対価
それは今日の昼を過ぎた時の事だった。朝から父親が出掛けていた為、仕事の無かったフレッドとエリックは午前中に母親の手伝いを強制された後、午後から他の友人達を誘って集合場所に来ていた。
レイとユニスは先に出掛けていたから先に来ているかと思ったが、集合場所には誰も居なかった。
多分入れ違いになったのではとコニーが言ってたので、それなら直ぐにここに来るだろうと先に鳥籠の準備に入ったフレッド達。
そこへ、奴等が現れたのだ。これから鳥役を決めるという段階で、何やら物音が聞こえて振り返ると、馬に乗った身なりの良い二人と、それを囲うように、昨日馬車を護衛していた兵士と同じ格好をした奴等が五人、フレッド達に向かって歩いて来ていた。
「アイツ等…!」
普段はお調子者のフレッドだが、流石に昨日起こった出来事は鮮明に覚えているようで、兵士の格好を見て彼等が貴族に関係する者達だと直感で理解した。
税を重くして村を、父親を苦しめた貴族と、謝っていたレイの頭を踏み付けた護衛の仲間。正直、今直ぐ突っ込んでその顔面を殴り付けてやりたかったが、昨日レイに言われた『お前に、家族の命を懸けてまで戦う意志はあるのか?』という言葉が脳裏を過ぎり、その場に踏み止まる。それでも拳は固く握り締めて睨み付けてはいるが。
「おい、そこのお前達。こんな所で何をしている」
馬に乗った男の方が、フレッド達を見つけるなり不遜な態度でそう言った。
「何って。これから遊ぶんだよ」
他の皆が『誰だコイツ』みたいな顔をしていたので、代表してフレッドが答える。
「ん?お前…そうだ、確か昨日無理矢理頭を下げさせられていた奴だろ。そのどうにも知性の足らなそうな頭は見覚えがあるぞ」
あからさまな挑発。しかし子供であるフレッドはそれにあっさり乗ってしまう。しかし、殴り掛かろうとする寸前でエリックに袖を引かれ、何とか我に帰る。それでも射殺さんばかりに睨み付けているが、当の貴族の息子の顔は愉悦に塗れている。
彼としては先に出会ったレイに言い包められて鬱憤が溜まっていたのだろう。自分の言葉に踊らされるフレッドにご満悦である。
「お兄様、そんな平民如きを構っていても時間の無駄ですわよ。それよりも、何故この平民達にお声を掛けたのか、私にも説明して下さい?」
「それもそうだな」
妹に言われて本題に戻す。一瞬助けたのかと思われたがそうでは無く、本心から時間の無駄だと思っているようだ。フレッドを見る目が完全に見下している目だった。
「お前達、俺様達と一緒に森に来る気はないか?」
「お前等、森に入るのか?」
「ああそうだ。この村は退屈だからな。狩猟でもしようという訳だ」
そう言って貴族の息子は背負っていた弓と矢筒を見せる。
「でも、森には怖い魔物が出るから行っちゃ駄目だって母さんが」
「それは子供だけでは危険だからだろ?俺様には優秀な護衛が五人も居るんだ。その辺の雑魚なら指一本触れる事は叶わないな。それに、この村にも猟師は居るんだろ?なら大人が一緒に居れば大丈夫だという訳だ」
「…だったら何で俺達を連れてくんだよ。アンタ等だけで行けば良いだろ」
これまで短期間で二度も貴族関係者に嫌な目に遭ったフレッドには、目の前の貴族の話がどうにも信用出来なかった。
「お前達には、俺達が狩りをしている間に木の実や野草なんかを集めて欲しいんだ」
「木の実だって?」
「そうだ。何せこんな辺境の村の食事では物足りなくてな。もっと豪勢な食事を摂りたいのだが、そもそも食材そのものが不足しているそうじゃないか。だからお前達も、俺様達の食材探しに協力しろと言ってるんだ」
続けて
「どうせ無駄に遊ぶしかやる事が無いのだろ?この貴族である俺様の役に立てるんだ。光栄に思え」
「ふざけんな!そんな事の為に危ない森に入れる訳無いだろ!」
ただ貴族の道楽に付き合わされる為だけに危険地帯に足を踏み入れるなんて出来る訳が無い。
「何だ?貴族の命令に逆らうのか?貴族に逆らったら、家族全員奴隷落ちだぞ。良いのか?」
「お前…!!」
今にも掴みかかりそうなフレッドに護衛の一人が剣を抜いた。堪らずフレッドは立ち止まるが、また何かあれば今度こそ突っ込んで行くだろう。そんな二人の間に、妹の方が馬ごと割って入った。
「じゃあこうしましょう。貴方達が取れた量に応じて、その内の何個かを貴方達に差し上げますわ。それなら文句無いでしょう?」
と言って、更に衝撃の事実を突き付けた。
「知ってるかしら?この村、今年は昨年よりも生活が苦しくなるそうよ。それも相当に。そうなると貴方達平民は冬を越せないかもしれないわね」
貴族の娘から告げられたその言葉に、その事をこっそり聞いて知っていたフレッド以外がざわつき出す。エリックも驚いているようで、表情の変わらないフレッドを見て、フレッドは知っていた事とそれが本当なのだという事を理解した。
「だからここで私達に着いて来れば、それを冬の蓄えに出来ますわよ」
「それを信じろって言うのか?」
「どの道逆らえば奴隷落ちですわ。まあ私としては、奴隷に落ちた貴方達を虐げて遊んでも何の問題はありませんけど」
暗い笑みを浮かべる貴族の妹に、コイツも貴族なんだなと思うばかりだった。
結局逆らえる筈も無く、フレッド達は貴族とその護衛に連れられて森の中へと入って行く。
道中、貴族の息子が妹に今を寄せた。
「おい、どついうつもりだ。平民如きに報酬を与えるなんて」
その様子は明らかに不機嫌そうだ。平民に報酬を与えるのがそんなに嫌なのだろう。労働と恩賞の関係を知らないのは子供だからなのか勉強不足だからなのか。
「別に渡す数は言ってませんわよお兄様。沢山ある内の一つだけを渡したとしても嘘にはなりません」
「なるほど。そういう事か」
意図を知って機嫌を直す貴族の息子。その内容を思いつく方も納得する方にも性格の悪さが窺える。
「それよりもお兄様、今度は私の質問にも答えて下さる?何故あの平民達を森に同行させたのですか?私としてはあんな小汚い平民をあまり視界に入れたく無いのですけれど」
「何、ちょっとした余興だ。あの平民達には、狩りの為の餌と囮になって貰う」
「餌と囮、ですか」
「ああ」
フレッド達には狩りの獲物を誘き寄せる為の餌として、また自分達が獲物を仕留める間の囮となって貰うつもりだったのだ。
「狩りが効率良く行えて、しかも平民達が無様に逃げ回る姿を見れる。二重の意味で面白そうじゃないか」
「そういう訳ですか。それは楽しみですわね」
そんな思惑が裏でなされているとは知らず、フレッド達は疑いながらも森の中を進んで行った。
最初は順調だった。出て来るのは野ウサギかそこらで、フレッド達もちょっとづつ落ちていた木の実なんかを拾っていた。
「結構あるね、この森」
「殆ど人が入らないからか?」
「帰ったらお母さん喜んでくれるかな」
エリック達が収穫の多さに喜んでいる横で、フレッドはこっそりと貴族の兄妹を盗み見る。
彼等は一体何の目的で自分達をこの森に連れて来たのか考えているのだ。今まで特におかしな所は無い。精々言葉の節々に嫌味が混ざる程度だ。そんな事の為に態々連れて来たと言うのか。もしかして本当に収穫目的で連れて来たのだろうか。
(いや、そんな筈無い)
いくら何でも楽観的過ぎる。相手は貴族だ。自分達村の人達を苦しめる魔物のような奴等だ。何も無い筈は無いと、フレッドの感情的な部分が告げている。
「兄ちゃん、どうしたの?」
「あ、いや。何でも無い」
エリックに声を掛けられて思考を中断する。
「何だよフレッド、全然取れてないじゃん」
ジムの言う通り、フレッドの手には殆ど木の実が無かった。他のメンバーは全員二十個近く手に入っている。
「この調子だと、ビリはフレッドで決まりだな」
「な、そんな訳無いだろ!見てろよ!ここから大逆転で、終わる頃には一番になるんだからよ」
「じゃあ取り敢えず、足下の木の実を取ろうよ」
「え?……あ…」
エリックに言われて下を見ると、足の直ぐ側に木の実が落ちていた。即座に屈んで、ササッと取る。
ジムを筆頭に、皆から笑いが溢れた。
「おい何時までそこにいる気だ。さっさと移動するぞ」
貴族の息子からお呼びが掛かった。相変わらず傲慢な態度だが、もう慣れたのか何も言わずに移動を開始した。
(取り敢えず、今は木の実取りだ)
もし何かあったら、直ぐにエリック達を連れて逃げようと決めて、取り敢えず今は木の実採取に集中する事にした。決してビリになるのが嫌だったからでは無いと思う。……多分。
ーーー
その順調だった狩りが終わりを迎えたのは、さっきの場所から更に深くに進んだ辺りだった。草木の向こうから、ウルフが威嚇しながら現れたのだ。
「あれがウルフか」
「坊っちゃんいけません、逃げましょう」
ウルフは、猟師でも正面から戦うのは避ける魔物だ。護衛もその厄介さを聞いているからこそ撤退を進言した。
「馬鹿を言うな。相手は一頭だけだぞ。群れなら兎も角、単体のウルフなんて怖く無い!」
貴族の息子は弓を引き絞り、ヒョウッ!と射る。ウルフはその音に耳をピンと立てると、飛んで来る矢を見て軽く躱す。
「クソッ!外したか」
続けて二の矢を構えようとしたその時、周囲の草むらからガサゴソと鳴り出した。そしてそこからフレッドや貴族達を囲う様にウルフが現れたのだ。その数十二頭。まるで時計の様に三百六十度包囲していた。
「な、何だコイツ等、いつの間に!?」
「クソッ!最初から包囲されてたのか!」
護衛達は貴族の二人の周囲を守るように位置付き、フレッド達はお互いに身を寄せ合った。
「一匹たりとも俺様に近付けるな!絶対にだぞ!もし何かあったら、後で父上に言いつけてやるからな!」
ビビって涙目になりながら喚く貴族の息子。完全に自分勝手な事を言っているが、その貴族に雇われた護衛に断ると言う選択肢は無い。そんな事をすれば仕事をクビにされてしまうからだ。
路頭に迷いたく無い護衛達は、後ろで喚き散らす無様な雇い主の子供を死ぬ気で守り抜くしか選択肢は無いのだ。
「オオォォォォォン!!!」
短く、そして鋭い遠吠えが上がり、ウルフ達は一斉に襲い掛かった。身を寄せて合って震えるフレッド達よりも剣を構えた護衛達を危険視したのか、ウルフ達は護衛達を優先して狙って行く。
護衛達も必死に応戦するが、どうにも数が多過ぎた。十二頭の内数頭を倒した時、遂に一人が三体のウルフに同時攻撃を食らい殺られてしまった。
しかしそれを気に掛ける余裕もない無かった。少しでも隙を晒せば、次に死ぬのは自分だからだ。現に、仲間の断末魔を聞いた一人がそっちに気を取られ、一頭のウルフに隙を突かれて押し倒され、更に他のウルフに集られて死んだ。
ウルフの数も減ってはいるが、護衛も一人、また一人と死んで行く。
「こ、この、魔物風情が!俺様は貴族だぞ!」
護衛が三人になった事で危機感が高まったのか、一頭でも数を減らそうと弓に矢を番えて引き絞った。しかし次の瞬間、横合いから飛び掛かったウルフが貴族の息子が乗っていた馬を襲撃した。
「うわぁっ!」
首に噛み付かれ、倒れる馬と共に地面に落ち、矢は明後日の方向へ飛んで行った。
更にそれに驚いた別の馬が嘶き暴れ、妹の方も落馬して地面に落ちる。そして馬はどこぞへと走り去って行った。
その一幕の内に更に護衛が一人、ボロボロになった末に敗れた。
その様子を震えながら見ていたフレッド達。彼等は一時的に嵐の中心から逸れた事でほんの少しではあるが精神的に考えるだけの余裕が出来ていた。
「…(ヤバいよ。このままじゃウルフより先にあの人達がみんな死んじゃうよ)」
「…(ちょっとジム!怖がらせるような事言わないで)」
イルマの側には、兄のコニーにしがみ付いて震えるネリーの姿があった。
「…(だってそうだろ!?もうアイツ等も駄目そうだし)」
言ってる間に残る二人の内の片方の護衛が殺られた。残りは一人だ。ウルフ三頭相手に何とか持ち堪えているみたいだが、それも一歩間違えば終わりだ。そうなれば貴族と一緒にウルフに食い殺される。
「…(ヤバいって!このままじゃ俺達も殺される!早く逃げよう!フレッドもそう思うよな!?)」
「…(え?)」
突然話を振られて吃驚するフレッド。続いて護衛の方を見ると、既に他の四人は殺され、たった一人で貴族の兄妹を庇って三頭のウルフを相手に戦っている。下手に逃げ出せばその隙をウルフが狙いかねないから、貴族の兄妹も逃げるに逃げられない。地面に落ちた時に折れたのであろう壊れた弓では、援護は出来そうに無かった。
そして彼等の周囲以外にウルフは見当たらず、フレッド達は完全にノーマークだ。確かに、逃げるなら今がチャンスだ。
だが、もし動いた拍子にフレッド達に気付いたら。そう思う心がフレットの決断を躊躇させた。
「…(なあフレッド!)」
焦れたジムがフレッドの両肩を掴む。肩に指が食い込みそうな程力を入れて、ジムは必死にフレッドを説得しようとする。
「…(早く逃げないと俺達も殺されちゃうよ!あっちが戦ってる内に早くーーー)」
瞬間、ジムが消えた。いや、横から飛んで来た何かが、ジムを掻っ攫って行ったのだ。一体誰がなんて、考えるまでも無い。この場でジムを、いや人間を襲う奴なんて他には居ないのだから。
それが通過した方向を見る。そこには自分達よりも大きく、そして他のウルフよりも一回り大きなウルフと、その牙で喉笛を貫かれ、グッタリとしたジムの姿があった。
「……あ…ジム?」
一瞬、見間違いじゃないかと思ったりもした。そんな事有る訳無いと。
しかしそんな事は無かった。イルマも、エリックも、恐らく自分と同じ顔をしている。コニーはネリーの顔を抱き締めて塞ぎ、自身も見ないようにしていた。
そして何より、今までずっと仲良く遊んで来た友達の顔を、見間違える訳が無かった。
「ジムゥゥゥーーーーー!!!」
気付けば体が勝手に動いていた。エリックの制止を振り切り、自分よりも大きなウルフに突貫していた。
勝てるとか勝てないとか、そういうレベルの話では無かった。ただ衝動のままに、フレッドは走っていた。
しかしウルフはそんなフレッドを見ると、口に咥えたジムを振り回し、そしてフレッドに投げ付けた。人間から投擲物と化したジムがフレッドに直撃し、フレッドは後ろに飛ばされた。
「グッ…う…!」
体に響く鈍い痛みを堪えて体を起こす。その時ふと視線を向けたその先で、ジムと目が合った。焦点の合っていない、もう動く事の無い虚ろな瞳がフレッドを下から覗き込んでいた。
「ヒィッ!」
思わずそんな声が漏れ、咄嗟に上に乗っていたジムを退けて後ろへ下がる。
そこまでして漸く理解した。ジムはもう死んでしまったのだと。
ジムは殺された。実にあっさりと。多分殺されたジムとフレッド達との差など殆ど無かったのだろう。単に一番狙い易い位置にいたという、たったそれだけの理由で、ジムは死んだ。
そして向こうでも決着が着いたようだ。結果は語るまでも無くウルフ側の勝利だった。最期の最後でウルフを一体仕留めたは良かったものの、残りの二頭に挟撃されて終わった。
これでもう人間陣営に戦える人間は居ない。ウルフ側も残りは三頭しかいないが、それだけいればこの人数を殺すのなんて訳無い。絶体絶命だった。
一頭はフレッド達の所に、残りの二頭は貴族達の方へとじわりじわりと詰め寄って来る。
「来るな!あっち行け!」
折れた弓を振り回して牽制する貴族の息子だったが、そんな物は何の気休めにもならなかった。そしてウルフに弓を持つ手を攻撃されて、それもどこかへ弾き飛ばされてしまった。
「お前達!何をしている!早く何とかしろ!」
すると今度はフレッド達に喚き出した。フレッド達に誰かを守る力なんてある訳無い。自分を守る力すら持ち合わせていないのだから。
それを知ってか知らずか、貴族の息子は無様に喚き続ける。
「さっさとしろこの役立たず共が!何も出来ないのならせめて、囮でも身代わりにでもなってこの俺様を逃す隙をーーー」
「ガァァッ!!」
「ヒィィィッ!!」
ウルフに一吠えされて情け無い悲鳴を上げて大人しくなった。同時に股間の辺りが濡れる。どうやら恐怖のあまり失禁したらしい。
だからと言ってフレッド達にそれを笑う余裕は無い。その貴族と同じ死の恐怖が今正に自分達に迫って来ているのだから。
「ガァァァァッ!!」
「「グルルァァァ!!」」
ウルフ達が一斉に襲い掛かった。フレッド達の物と、貴族の兄妹の悲鳴が、ウルフの唸り声と混じって響き渡る。
誰もが死ぬとそう思った瞬間、どこからとも無く飛来した何かが、フレッド達を襲おうとしたウルフの顔面に直撃した。それはぶつかったと同時に炸裂するかのように周囲に枯葉をばら撒いた。それは枯葉を詰め込んで球状にしただけのただの布だった。
貴族の兄妹を襲おうとしていたウルフ二頭も、ばら撒かれた枯葉に吃驚して後ろに下がる。するとウルフ達が離れたのを見計らったかのように次の物が投げ込まれた。それはメラメラと火が灯る松明だった。しかも五本。
それ等は地面に落ちると、枯葉に引火して忽ち燃え上がった。突如起こった火事は、ウルフ達とフレッド達を分断した。
「今の内にこっちに逃げろ!」
フレッド達の後ろから声が上がる。聞き覚えのある声だった。同時に、ここにいる筈の無い声だった。しかし咄嗟に振り返ったフレッド達の目には、見間違えようの無いレイの姿があった。
「レイ!何でここに!?」
「んな事は良いから早くしろ!そう長く足止めは出来ないぞ!」
火事だって一時的な目眩し程度にしかならない。少し経てば回り道するなりして再び追っ掛けて来るだろう。それまでに村まで一直線に駆け抜けて、ウルフ達から逃げ切らなければならない。
既に助けが来たと判断した貴族の兄妹はいの一番に逃げ出した。残っているのはレイとフレッド達だけだ。
「急げ!」
レイに急かされてイルマとコニー、ネリー、エリックは逃げ出す。しかしフレッドは動こうとしなかった。
「フレッド!お前も急げ!」
「でも、あそこにジムが」
そう言われてレイはジムが横たわる方を見る。首元から夥しい量の出血をしているのを見て、もう生きていないと即座に分かった。
(ジムは死んだのか…)
思ったのはそれだけだった。表情一つ変える事も無く、ただそう思っただけだった。
「アイツはもう死んでる。ここに置いてくぞ」
「そんな…!ジムは友達なんだぞ!?」
「その友達の所為で逃げ切れなかったら意味無いって言ってんだ!!死体と一緒に死にたいのか!!」
「ッ!?」
今までに無いレイの怒鳴り声と、死に対する恐怖を呼び起こされ、数瞬間を空けて未練がましくジムを見たが、それを振り切るように駆け出した。
レイは無詠唱で【炎の壁】を唱え、炎をより一層大きくしてから後を追った。
ウルフ達も急に炎の勢いが強まって警戒するだろうから、これで少しは時間を稼げる筈だ。それを確認してからレイも逃げ出す。一番最後に逃げ出したレイだが、レイには身体強化がある。森に出る頃には余裕で追い付ける。
一方で先に逃げた方はと言うと、先頭の方には貴族の兄妹。普段から運動する事の少ない生活をしていたのか足は遅く、もう直ぐで後ろのイルマやネリーの手を引くコニーに追い付かれそうだ。
意外にも妹の方が兄よりも足は速いらしい。貴族オーラ全開のヒラヒラした格好にも関わらず、少しではあるが前に出ている。逆に言うと兄の方が遅過ぎるだけともいえるが。
しかし急ぎ過ぎて周りが見えなかったのか、妹は地面から露出していた木の根に足を引っ掛けてしまった。前に倒れる体に慌てて体制を整えようとしたが、失敗して転んでしまった。小綺麗なドレス調の服が土と草の汁に汚れる。
しかしそんな事を気にしてはいられない。恐怖に促されるように直ぐに立ち上がろうとする妹だったが、途端に足首に激痛が走った。どうやら体制を立て直そうとした時の失敗で足を変に捻ったらしい。足首が赤く腫れていた。
これでは逃げる事は出来ない。妹は咄嗟に直ぐ横の兄の服を掴んで助けを乞う。
「お兄様、足を怪我してーーー」
「煩い!!俺様の邪魔をするな!!」
しかし無情にも利己的な兄は、自分が逃げるのを妨害する妹の顔を思いっきり蹴り付けて引き剥がした。そして兄は一人、妹を置いて逃げて行く。
残された哀れな妹は、蹴られた顔を押さえて蹲って呻く。子供とは言え蹴られた痛みは相当な物だった。
そしてその横をイルマ、コニー、ネリー、エリックと抜き去って行く。フレッドもそれを見てザマァ見ろと言わんばかりの顔をして通り過ぎて行った。
「嫌…!死ぬのは嫌…!」
痛みと、そして走って逃げる事が出来ず、迫って来る死の恐怖に怯える貴族の娘。そこへ最後尾を走っていたレイが通り掛かった。レイもフレッド達と同じく見はしても助けようなどとは露程も思わず、そのまま通り過ぎようと横を通過する。
しかし他に縋る物が無かった貴族の娘は、迫り来る死の恐怖から逃れる為にレイの足にしがみ付いた。
「ッ!?」
予想外の行動に、レイの足が止まる。てっきり兄のように助けろと喚くかと思っていたが、まさか縋り付くとは思っていなかったのだ。
「何すんだ!離せ!」
ウルフに一番近い位置にいるレイだからこそ、こんな所で時間を浪費する訳には行かない。必死に引き剥がそうとするが、貴族の娘の方も命が懸かってるからか、必死に縋り付いて来る。身体強化したレイにそこまでしがみ付けるのは、正に火事場の何とやらだろう。
「嫌ッ!死にたく無いッ!!」
痛みと恐怖と蹴られた痕で顔をグチャグチャにして縋り付く様子には、貴族としてのプライドなど欠片程も存在して無かった。平民に縋ってでも助かりたかったのだろう。
レイにとってはそんな事知った事では無いが、このままだと引き剝がしている内に後ろから追って来るウルフ達に追い付かれてしまう。無理矢理蹴り飛ばして囮に使えば一体はどうにか出来るかもしれないが、相手は三体だ。無理矢理引き剥がすタイムロスの方が惜しい。
「クソッ!」
レイは一瞬の内にそう判断すると、貴族の娘を小脇に抱えて全速力で駆け出した。
自分が行く時に作った獣道に沿って急いで駆け抜ける。貴族の娘も振り落とされまいと必死に腰にしがみ付いている。
後半分くらちだろう。しかし先程のタイムロスに加え、貴族の娘を抱えながら走っているのでどうしても遅くなる。
遂に後ろの方から何かの走って来る音が聞こえ出した。
「もっと速く走りなさい!このままじゃ追い付かれてしまいますわ!」
「喧しい!誰のせいで遅くなってると思ってんだ!それ以上騒ぐと無理矢理にでも置いてくぞ!」
脅しが効いたのか大人しくなる貴族の娘。しかしだからと言って速度が上がるという訳でも無く、徐々にウルフ達との距離が詰まって行く。
『ティエラ、俺の後ろに落とし穴を作れ!シエルは突風を吹かせて臭いと足音を妨害しろ!』
「了解!」「分かったのじゃ!」
レイが二人に指令を出すと、ティエラがレイが通り過ぎた位置に大の大人もすっぽり嵌まる落とし穴を作り、次にシエルが風魔法で横風を吹かせて臭いを別方向に飛ばし、更に風や草木の揺れる音でレイの走る音を聞き取り辛くする。こちらからも向こうの音が聞こえなくなってしまったが、レイにとっては聞こえない方が抱えた荷物が煩くないから良いのかもしれない。
少しして足音が分かるくらい小さくなっていたので、足止めは成功したのだろう。この距離ならギリギリ逃げ切れる。疲労から息を切らしながら、見えて来た森の出口に向けて直走る。
森を抜けた先には、既に森を抜けていたフレッド達が地面に腰を下ろしていた。森を抜けて助かったから緊張の糸が切れたのだろう。
だが、レイは気付いていた。もう直ぐレイも森を抜けると言うのに、一切速度を落とす事なく近付いてくる足音を。
「まだだッ!!走れーーーーー!!」
森を出るなり叫び出したレイをその場に居た全員が見る。瞬間、レイの後ろから一頭のウルフが森を抜けて襲って来た。狙いは一番近くにいるレイと貴族の娘。
レイはそれに気付くと、動くのに邪魔なお荷物を後ろへ投げた。
直後、ウルフがレイに飛び掛かり、投げた後の体制で接近を許してしまったレイは何も出来ずにウルフに押し倒されてしまった。
レイの頭を噛み砕こうと牙を向けるウルフ。レイは何とか殺されまいと首の毛を掴んで押しやる。身体強化のお蔭かギリギリ拮抗してはいるが、ウルフの頭がガチガチと歯を鳴らして荒ぶっている。レイの手が首から外れれば、直ぐさまその顎はレイの頭蓋を噛み砕き、ジムの血で濡れた牙にレイの血を上塗りする事になるだろう。
「クソッ!」
また手が外されない様にするのに必死で魔法を発動させる暇も無い。それくらいウルフの暴れ様は激しかった。状況は圧倒的に不利だった。
「レイ!」
「来るなぁッ!!」
「ッ!?」
レイを助けようと近付くフレッドを、そのレイが止めさせる。別方向でレイを助けようとしたフラム達もだ。
「お前じゃ無理だ!早く助けを呼んで来てくれ!」
首に掛かった手を外そうと頭を振り乱すウルフ。押される力が減ったのを幸いに、片手を前足の付け根に、もう片方で喉を抑える。これで大分楽になった。
「そんな事言ってる場合かよ!」
「やらなきゃどの道死ぬだけだ!追って来てるのはコイツだけじゃ無いーーグゥァァッ!!!」
「レイ!」
ウルフがレイの手を外そうと、今度は腕をその鋭い爪で引っ掻き出した。ガリガリと皮膚を裂かれ、激痛と共に血が流れ出し、それが自分の顔に滴り落ちて来る。このままではいずれ力が入らなくなって押し負けるか、動脈を切られて失血死だ。
死ぬ。そう強く感じた瞬間、魔力が体外に放出される程勢い良く循環させ、身体強化を全開にする。
「オオォォォ!!」
身体強化を全開にした事でウルフを押し返すだけの力を引き出したレイ。そのままウルフを横に引き倒すと、今度はレイがウルフの上に馬乗りになった。そしてウルフの首に手を掛け、地面に押し付けるようにして気道を圧迫する。
当然ウルフの方もこのまま殺られまいと必死に暴れまくるが、身体強化をしたレイが四肢の付け根を肘と足で押さえているから上手く動けないでいる。
「死ね!死ね死ね死ねえ!!」
暴言と共にギリギリと首を締め上げる。その間レイから噴き出す魔力が迫力となって周囲を威圧し、レイと押さえ付けられたウルフ以外の全員が動きを止めて、驚愕の目でレイ達を見ていた。フレッド達も、貴族の兄妹も、そして遅れてやって来た二頭のウルフも、皆威圧されて動けなくなっていた。
そうこうしている内にもウルフの動きは鈍くなり、涎を垂らしながらも懸命に抵抗していたウルフは、次第に弱って行き、遂には完全に動きを止めて窒息死した。
勝者であるレイは息を切らしながら、ボロボロになった腕に負担を掛けないように立ち上がる。そしてレイ達を見ていたウルフ達に顔を向けた。
「「ッ!?」」
ウルフ達に寒気が走った。殺意に塗れたレイの目を見て、まるで捕食者と被捕食者が逆転したような錯覚に陥ったのだ。
懸命にも己の不利を悟ったウルフ達は、即座に踵を返して森の中へと逃げて行った。これでもう襲って来る敵はいない。レイ達は助かったのだ。
周囲にはレイとフレッド達だけが残された。レイはその場で深く深呼吸し、放出している魔力を抑え、身体強化を解く。そしてその場に膝を着いた。
「レイ!?」
威圧感が無くなって身動きが取れるようになったフレッド達が駆け寄って来た。
「レイ!酷い傷…!」
「大丈夫なの?痛く無い?」
「正直滅茶苦茶痛い…!腕無くなってたりしてないよな?」
「大丈夫。ちゃんとくっ付いてるよ」
ウルフに引っ掻かれた傷がジクジクと痛み、脳にまで届いて来る。血の流れる量も酷い物だ。傷口が広いから直ぐに塞がる感じでは無い。それまでに失血死しない事を祈るばかりだ。いや、この場合は破傷風や狂犬病等を警戒すべきなのだろうか。
「クソッ!何だというんだ!護衛の癖してあっさり魔物に殺されやがって!お蔭で僕まで殺される所だったじゃないか!」
一方で貴族の息子は、醜くも自分を守り切れなかった護衛連中に憤慨していた。一人称も『俺様』から『僕』になっている。恐らくこちらの方が素なのだろう。
こんな奴等に雇われていた護衛達も護衛達なのだが、その言い方はいくら何でもあんまりである。
「貴様達もだ!自分達だけ安全な場所に固まって!僕が危なくなったら、盾なり囮なりなってみせろ!この役立たずの鈍間共め!」
更に矛先がフレッド達に向き、更に怒りからか本音をぶっちゃけた。
「お前、最初からそのつもりで!」
「他に何があると言うんだ!でなきゃ貴様達のような泥臭い田舎の平民など側に置くか!」
「ッ!!」
遂に我慢の限界を越えたフレッド。前に飛び出し、貴族の息子に向けて拳を振り抜いた。
殴られた貴族の息子は、「ブフォッ!?」と変な悲鳴を上げて後ろに倒れた。そして殴られた顔を押さえて「痛い!痛い!」とのたうち回る。
「き、貴様!貴族である僕に手を出してタダで済むと思うなよ!父上に言い付けて、家族全員皆殺しにしてやる!必ずだ!」
鼻の潰れた不細工な顔で、鼻血を垂らしながらフレッドを睨み付ける。タダでさえ滑稽だったのが益々滑稽に映る。
しかしこれでは貴族の息子が怒りに任せて、ここに居る子供達全員の関係者を皆殺しにしかねない。ここ等で釘を刺しておく必要があると踏んだレイは、腕の痛みを何とか堪えつつ前に出る。
「そいつは困るな。アンタの私的な感情で一々村の人達を殺されたら堪った物じゃ無い」
そして貴族の息子の目の前にやって来る。
「ならいっその事、ここで始末しておいた方が良いのかもな」
「なっ!?」
突然の脅しに貴族の息子は驚愕する。彼の想定では、ここでフレッド達を散々脅し虚仮にして溜飲を下げ、更に家族全員を殺した後で絶望に塗れたフレッドの顔を見て高笑いする筈だったのだから。
考えが完全に屑のそれである。
「そ、そんな事をしたら、お前だって無事では済まないぞ。僕は王国貴族、ハウゼン家の嫡男だぞ。意味が分かるか?僕は貴族の跡取りなんだ。それを殺せば、お前も、お前の家族も、それを止めなかった後ろの奴等も纏めて処刑だぞ」
「それは俺が殺したらだろ?ここに居るのは俺達子供だけだ。ならこの場でお前を殺して、それをウルフが殺った事にすれば良い。まさかお前の父親も、死んでしまったウルフに責任を取れだなんて間抜けな事は言わないだろうしな」
「ウッ!?」
「そうだなぁ…ついでに、勇敢な貴族様が俺達を庇ってくれたが、奮戦虚しく殺されてしまった。しかし死の間際でウルフを討ち果たし、見事相討ちに持って行った…なんて筋書きがあれが更に良いだろうな」
責任をウルフに擦り付けてしまえば、レイ達が責任を取らされる事にはならない。幾ら村に来た貴族が屑だとしても、こんな美談を前に子供達に責任を取らせるなんて事は余程愚かでない限り出来ないだろう。そんな事をすれば、それは噂になって他の村や街に広がり、領民の不信感を煽る事になる。そんな領主なら即行で領民の反乱に会って今頃この世に居ないだろう。
どんどん話が貴族の息子を殺す流れに向かっている。ヤバいと目が泳ぐ貴族の息子は、レイの背後に居る自分の妹が目に入った。
「じゅ、重要な事を忘れているぞ。ここには僕だけじゃ無い、僕の妹も居るんだぞ。お前達だけが口裏を合わせても無駄だ」
いきなり自分が助かる為の出汁に使われた妹は、顔を蹴られた件も相俟って憎悪の目で兄を見る。
「そうだな。もしお前が殺された後に同じ脅しを食らって、それでも尚断るだけの勇気がその妹にあればの話だけどな」
しかし思わぬ所で自分にも同じ脅しをされると知り、驚愕の目でレイを見た。別に驚く事でも無いだろうに。何も脅しの対象は兄だけだと決まってはいないのだから。しかも彼女とて貴族の娘、つまり貴族サイドだ。兄が敵対している以上、彼女もまたレイ達の敵である。
ふと、レイと視線が合った。自分の血がベッタリ着いた顔は、貴族の娘を怖がらせるには十分な迫力だった。
「お前はどうする?ここであった出来事を誰にも言わずに墓まで持って行くか、それともこの聞き分けの悪い兄に俺の言ってる事が本気だと分からせる為の見せしめになって今すぐ墓に入るか。どっちなんだ?」
「ヒッ、い、言わない。言いません!絶対に!」
死の恐怖に敏感になった貴族の娘は、直ぐさまレイの軍門に下った。自分の妹の裏切りに貴族の息子は妹を睨むが、その妹も自分勝手な兄を逆に睨み付けていた。
「兄と違って、妹を方は賢くて聞き分けが良いな。さて、これで後はお前だけだ」
レイの視線が再び貴族の息子に戻ると、彼も怯えの目でレイを見る。
「ウルフの首を締め上げる程の指の力だ。爪を立てれば、お前の首の皮なんて簡単に貫くだろうな」
痛む腕を無理矢理動かして、貴族の息子の首を掴む。
「ヒッ!ヒィィッ!!」
「さあ選べ。黙るか、死ぬか。二つに一つだ」
キリキリと機械のように徐々に力を入れて行く。自分の首が絞まるにつれて膨れ上がる恐怖に遂に限界を超え、次の瞬間泡を吹いて気絶した。
「…沈黙は肯定と見做すぞ」
レイが手を離すと、後ろにドサリと倒れる。
結局答えは聞けなかったが、これだけ脅せば十分だろう。もしこれで何か悪さをしよう物なら、その時は今度こそウルフさんの餌食になって貰うだけだ。
「約束は守れよ。もし約束を違えるような事があれば、俺はどれだけの時間を掛けてでもお前等を殺しに行くからな」
そう言ってまだ起きている貴族の娘を見て指差す。自分に言われているのだと理解した貴族の娘の肩がビクンッと跳ねた。
「何日、何年、はたまた何十年掛かってでも探し出して、必ずお前等を殺しに行く。兄にもそう伝えておけ。良いな?」
恐怖から声を出せず、高速で首を縦に振った。
レイは一言「宜しい」とだけ言って、フレッド達の方へも戻って行った。
同時に、村の方が騒がしくなる。漸く探索の準備が整ったらしい。正直言って遅過ぎるとしか言い様が無かった。今更出て来られても、もう全て終わってしまっているのだから。森での一件も、ここで起こった事も、そしてジムの死も。
レイはウルフの近くに移動すると、その場で後ろに倒れた。何かあったのかとフレッド達が近寄って来るが、何て事は無い、ただ疲れただけだった。
「あ〜、腕凄え痛い…」
村人達の喧騒が近付く中、レイは小さく愚痴を零した。
ジムはお星様になってしまいました。。・゜・(ノД`)・゜・。




