物好きな死神
訳もなく、死んでしまいたいと思うことがある。いや、訳が無いというのは語弊があるかもしれない。
自転車の前の籠に乗せた手提げ鞄の重さ。無数の教科書に塾のテキスト。そのなかに入った一枚の紙切れ。多分、それが訳だ。
その紙切れには、BやCではない。DやEといった文字が並んでいる。
無論、僕の勉強不足もある。しかし、理不尽じゃあないだろうか。たった数時間の髪が高校を決めるなんてのは。
日が暮れるのが早くなって随分と日が経った。空も雲がかかり、地面と空が近い気がして気分が思い。
受験生という身分であれば、誰しもが思うであろう逃避だ。どのみち、死ぬ勇気なんかは僕には無い。
だけど、一日二日を逃げることならば出来る。短縮の日程になり、冬休みも近い。なのに学校を終えてから、十時過ぎくらいまで塾に閉じ込められる日常くらいであれば容易いことだ。
自転車を漕がずに押して歩く。耳にイヤホンをして、プレーヤーを再生すると家のCDから適当に落とした、愛は勝つと高らかに歌う男性歌手のヒット曲が流れた。
だけど、僕は今から挫けて逃げるんだ。申し訳ないと思いながら電源を切った。それでも、イヤホンをつけたまま歩いた。
ちらほら帰る他の生徒が見える。僕の友人も見えるが、今は誰とも話したくはない。笑いながら「今日の塾はサボる」なんて言えるほど面の皮は厚くないつもりだった。
周囲を遮断するにはイヤホンはちょうどいい品物だ。願わくば、文庫本も欲しいところだったが、それは危ない。
自転車を押して、実質耳栓をして、本を読んで歩く。無理だろう。
“そうら、見ろ。”心のどこかで笑った僕がいた。
“死にたいと言いながら、結局その程度なんだ。” そうだ。僕は否定しなかった。だから、塾に行かずにどこかで時間を潰すのだ。
僕は自転車を押しながら校門を出た。学校は随分な山の中にあり、塾はその下にある。僕は坂道を登った。
その上には広さだけが取り柄の運動公園があるだけで、時々野球の練習試合に使われる球場以外は、ロクに管理されていない体育館があるだけだった。
つまりコンビニの「いらっしゃいませ」も耳障りな今、誰とも合わずに時間を過ごすにはうってつけなのだ。
道の殺風景さは僕を癒した。白いものを被った田んぼに濡れて黒くなった電信柱は僕を気にかけることは無い。
脇に、しゃりしゃりの雪が積もっている。三十分もそれを踏んづけていると、公園の入り口についた。自転車を止めて、走ったら足を痛めそうな雑な階段を昇る。
ふと、手元の時計を眺めた。時間は三時になるかならないかといったところだ。今から結構な時間を僕はここで時間を潰すことになる。
階段を登り終えた辺りで、少しだけ息が乱れた。部活動を引退したあとは、体育程度の運動しかしてこなかった。先輩面をして部活に顔を出すのも憚られる。
運動不足を噛み締めながら歩く速度を落とした。
公園には町を一望できる、ちょっとした丘がある。それが僕の目的地だ。別に思い入れがあるわけではない。公園の隅にあり、冬場に来るような場所ではないからだ。この時期にわざわざ寒い思いをして来る価値は僕以外には無いだろう。 コンクリートの湿ったベンチに座り、隣に手提げ鞄を置く。見た目ほど濡れているわけではなく、じんわりとした嫌な感触はしなかった。
重たい財布を取り出して近くの自動販売機に向かう。冷たい小銭を取り出して投入口に入れる。
「まいど、おおきに〜」
自動販売機の能天気な電子音声が空に吸い込まれていった。一番下の右端、縦長の缶コーヒーのボタンを押した。ガコンと温かい金属が出る音がした。
補充の間隔が長いんだろう。大して人気というわけでもない飲み物にも関わらず赤いランプがつく。
「また買うてや〜」
困ったことに、この公園にはここ以外に自販機は無い。こんな気分でまた来るようであれば、またこれに付き合うことになるのだろう。少しうんざりしながら缶を取り出した。 プルタブを開け、ドロリとした液体をしばらく外気に晒してから口をつける。
予想外の熱さに思わず口を放した。舌がヒリヒリと痺れたようないつもの感覚。猫舌も極まれば寒いところで飲むコーヒーも苦痛になる。
開けずに手のひらを暖めるだけにしておけば良かった。縁に残る濁った液を眺めながら僕はベンチに戻った。
「……あ」
正確にはこんなにしっかりと「あ」なんて言わなかった。ひゅう、とかはっ、とか。そんな空気が僕の口から漏れだした。
今時ゲームの魔法使いが着ていない、ゆったりとしたローブを被った人がベンチに座っていた。
珍しい格好で、珍しい場所に人がいる。しかし、僕が驚いたのはそれじゃあない。
鎌だ。
その人は真っ黒な鎌を肩に乗せていた。黒なんてもんじゃない。刃物にある光沢やツヤは無いし、艶消しをしたようにも見えない。
闇だ。変な言い方になるけれど、闇の鎌なのだ。
「死神」
ローブに鎌。それと結び付く程度にはファンタジーをたしなんでいた。 ローブを来た人間が振り向いた。小さな声で呟いたつもりだったが、他に音のない場所であれば気付くのも無理はない。
振り向いた顔は骸骨……というわけではない。白い、むしろ青いと言っていいような顔の女の子だった。
ませた子供がそのまま大きくなったような幼い顔立ちと血色の悪い顔は不釣り合いで、可愛らしい顔立ちではあるものの、後ろ姿を見たときの印象からひっくり返ることは無かった。
病気か尋ねたくなるような白い顔、対照的な真っ赤な唇と、瞳は、人の持てるものではない。
「す、すみません。変なこと言って」
女の子は素っ気なく答えた。
「んにゃ。気にしてないよ。事実だから」
僕は面食らった。冗談のような響きではない。僕が“あなたは日本人ですか”と尋ねられたら、こんな風に答えるだろうという調子だ。
「そう、なんですか……それで、死神さんがどうしてここに?」
「野暮用だから、気にせずどうぞ。先客はあなただ」
そう言いながら死神はベンチを、置いてあるカバンを指差した。
僕はベンチに座った。崖になっているところに申し訳程度に張られた低いフェンスを横目に、カバンから一冊の小説を取り出した。
今の時間であれば、本当なら塾の小テストのために単語帳を必死で読んでいる時間だったはずだ。それを思うと、少しだけ気持ちが良かった。奇妙な女の子に会う以外は、平和だ。
「ねえ」
小説をめくる僕に女の子が声をかけた。開いていたページに指を挟んで顔をあげる。
「驚いたりしないの?私が死神で、死神が実在してってこと」
「違うのかい?」
「違わなくはない。私は死神。何度も聞くなよ。変な奴だな」
死神を自称するあなたの方が奇妙だ。僕はその言葉を飲み込んだ。
「死神さんは、どんな仕事をしてるんだい?」
女の子、もとい死神は癖の強そうな髪を指に巻き付けて戻してを繰り返した。
「企業秘密」
「やっぱり、その鎌で切ったりするの?」
「企業秘密」
「天国ってある?」
「ひみつー」
秘密ばかりで面白くない。僕は再び小説に視線を落とした。 「ちょっとちょっと」
「んー?」
パラパラと本をめくるうちに、死神が声をかけてきた。呼び掛ける声が大きいし、少し急かすような調子だった。多分、何度も呼び掛けてたんだろう。
「ちょっと見せてくれない?その本、見覚えがありそうでね」
「別にいいけど」
僕は本のカバーの折り目から先を読んでいたページに差し込んで手渡した。
「そのレーベルじゃなかったら、ぼろぼろに破けちゃうとこだ」
死神が眉をひそめて言う。仰る通りだと、僕は内心答えた。しかし癖になっていて、どうしようもない。何度同じ本を買い直したことか。
「ああ、やっぱり」
「アタシも読んだことあるわ、これ。ちゅーか、シリーズ揃えてた」
表紙の間の抜けた笑みを浮かべる黒猫をつついて死神が笑った。
「珍しいね。僕の回りに知ってる人はあんまりいなかったよ」
「SFファンは肩身が狭いと思わないかしら?」
死神がニヤリと笑みを浮かべた。黒いローブに、でしょう?と言いたげにつり上がった赤い唇と白い歯が見えた。
「全くだよ。読んでてもみんなライトノベルや恋愛小説だ」
そんな風な会話から、僕らで狭いコミュニティ特有の奇妙な連帯感が生まれるのは自然なことだった。
話してみると、対照的な正確だと思っていたのと裏腹に僕と気の会う部分が多かった。
小さな頃に好きだった話は『エルマーの冒険』だったこと、たい焼きは尻尾から食べること。本をきっかけに、神話や哲学に少し興味を持っていたこと。
「やっぱり、あのキャラは死んだんだよ。最後の銃声の描写もあったし」
「死んでないね。台詞じゃ、やりたいことが残ってるって言ってたじゃないか」
「おかしな奴だな。死神が生きてることを信じるなんて」
こうした対立も、なかなか面白いものだ。共有することのよさと言うべきか。
「それで、新刊の“戦場は遠く”のことなんだけどさ……」
それに僕が言葉を差し込む。
「それはひとつ前だよ。新刊は“海賊はひとり”のはず」
そこで、死神の笑みが変わった。今までの楽しそうなものから、“やっぱりか”というものだ。
「そっか、やっぱアタシ……死ぬんじゃなかったなぁ」
「死ぬ?死神が?」
死神がまた笑った。残念さを堪えているように、小さく首を振った。
「死神ってのはね、好き好んでやってるわけじゃないの。罰なの」
「そりゃ、そうだろうね。でも罰?」
「そ。自殺した人間の罰。閻魔様が言ったんだ。勝手に死ぬのは殺人と同じだ。お前もその置いていかれたヒトの苦しみを知れ。だってさ。ありゃ、最近イエス様の教えを知ったかな?」
無理に繕っているのが分かりきった笑みと冗談をこちらに向ける。
「苦しみを知る……?」
「そう。死ぬ間際の人間にそれを教える。それから、その家族に伝える。それを十人だ」
大変だったよ。そう言った。彼女が言うにはこんなこともあったらしい。
ガンを患った女性に伝えに行ったときのことだそうだ。
病室に行ったとき、そこには女性と小さな子供がいたらしい。
死神が女性……母親に伝えたとき、それは子供も知ると言うことだ。伝えると、子供は母親にしがみついて泣きじゃくったらしい。
「キツかったよ。ガンじゃ変えようもないからね」
死神が俯いて言う。その子供が死神に何と言ったか、その後どうなったかは知りようがない。語られなかったんだから。
「それじゃあ、僕も死ぬのかい?」
すっかり温くなったコーヒーを死神に差し出して、僕は尋ねた。
「そうさね、ちょいとアタシの眼をを見てくれ」
コーヒーを一気に飲み干してから、そう言って死神が顔を上げた。瞳の真ん中が赤い炎を湛えたようにゆらゆらと揺れる。それに吸い込まれた。
僕の視界が赤くなった。ふらふらと拙い動きだった。視界がグラグラと揺れる。
そして小さな柵を覗きこんだ。数度躊躇してから、頭から落っこちた。
「……今のは?」
「アンタの死のビジョンだよ」
視界がもとに戻った。そう言いながら死神がふらっと立ち上がった。
「そういや、名前は?」
「コウヘイ。幸せに、平たいって書いて」
「そうかい」
「でも、何だって急に」
死神の瞳に宿る赤い炎がさらに大きくなった気がした。
「ち、ちょっと」
死神が僕の首根っこを腕で抱えた。視界がぐらぐらと揺れながら、柵の方に進む。凄い力だった。体格はそう変わらない。そして、僕は男なのに。
「アンタが最後なんだ。閻魔様のノルマ!」
「自分で殺してもカウントなの」
声が上擦っているのが分かった。少しずつ、柵まで進んでいく。ついさっき見たのと同じだ。
「止めて、死神さん」
それが、僕が死神に言えた最後の言葉だった。
「そんじゃね、こーへー」
そう言って、死神は僕を突き落とした。無論、頭から。視界に綺麗な緑が写った。そこで、僕の視界は真っ暗になった。
───アタシはね、ユキっての。
声が聞こえた気がした。走馬灯というやつかもしれない。最期にまた僕を殺した死神の声を聞くのもウンザリだったけど。
────怒ってるね、アンタ。
怒れないよ。死んでるんだから。その思考を読んだように、死神。もとい笑った。
────にゃはは。まあ、起こるさね。でも、まだ死んでないよ?生きてる、こーへーは。
バカな。そんな思考より先に死神は、ユキは言った。
────あのぼろっちい柵。ホントの死因はアレだよ。アタシの眼は、触覚まで再現は出来ない。
────まだ、アンタは生きてる。
待ってよ、じゃあユキはどうなるんだ。
────まだ、あの本の新刊は出るだろうから、読みたいだろう?十年そこらで読みきれるほど本は少なかないからね。
答えてよ。考えてること、分かるんでしょ!
────アタシも、もっと本が読みたかったなあ。
終止勝手な奴だ。答えてよ。まだ聞きたいことはいっぱいあるんだから。
────いきなさい。コーヒー、ごちそうさん
「待ってってば!」
ムクリと僕は起き上がった。身体中が痛い。髪にはいっぱい葉っぱがくっついていたし、きっと打撲もある。骨折は……分からない。でも、そんな辛さは感じなかった。
夢、というわけでもないだろう。僕は周囲を見渡した。何もない。ここは駐輪場の裏の雑木林だ。
「おい、死神。……ユキ!」
返事は無かった。悲しかったが、それも当然かという、諦めの気持ちもあった。
時計は既に塾が終わって少ししたくらいだった。歩いて帰れば、自習をしてきたと誤魔化せるだろう。僕は自転車を押して、家に帰った。汚れた制服をどうはぐらかすか。それを悩みながら。
「なあ、昨日はどうした」
次の日、母には転んだで誤魔化しきり、去年まで母の友人の息子が着ていたサイズの一回り小さな制服を来て登校した。
そこで、同じ塾に通う知り合いに聞かれた言葉だった。
「試験近いのにサボるなんてな、なんかあったんか?風邪か?」
「言っても信じないだろうけど」
「聞かなきゃ分からんだろう。言え、きっと面白いことがあったんだ。俺には分かる」
「死神の女の子に会って、SF小説で盛り上がって、突き落とされた」
「……ナァ。ホンとは?」
「……風邪だよ」
だーから、風邪になったら本を読むなとあれほど……そう言った友人の言葉を遮ってチャイムが鳴った。
授業を終えて、すぐに僕は自転車を走らせた。通りの雪は不安だが、どうせ誰も通らない。真ん中を走ればよかった。
僕が向かったのは丘だった。あそこに行けば、またユキに会えるんじゃないか、そう思ったんだ。
結論を言えば、そこへ行くことは出来なかった。ベンチの近くに黄と黒のロープが張られていた。ラミネートの紙に、《柵の修理につき立ち入り禁止》の文字があった。僕はまた、受験生になった。
勉強は相応に実を結んだらしい。僕はギリギリのラインで、第三志望の地元の市立に通うことが出来た。
入学式を終え、数日の退屈なオリエンテーションを終えてすぐ、僕は図書室へ向かった。
僕以外、貸し出し係の人であろう女の子以外、誰も居なかった。
僕の持っているあのSF小説は無かった。適当な本を持って、ふと思い立って、カウンターの横にある希望用紙にそのSFのタイトルを書いた。
深い意味は無い。気紛れだ。たまたま数ヶ月前の不思議な出会いを思い出しただけで。
紙を本の上に置いて、小さな声で「お願いします」と言う。
女の子が読んでいた本から顔を上げた。
「珍しい本を注文するんだ」
「はい。僕と、友達が好きなんです。皆も良さを知ってほしいなって」
「私はそうは思わない」
そう言いながら、女の子は用紙をビリビリと破いてしまった。
「あ、あの。いきなりそれは酷いです」
「酷いもんか、こーへー。その友達はそんなこと望むもんか」
アンタに何が分かる。そう言いかけて、思い止まった。今、この人は何と言った?名札なんか無いのに。
戸惑った僕は視界をさ迷わせる。それは、カウンターに置かれた本に行きつき、そこから動かなくなった。
それは、僕が今用紙に書いた本の新刊の、ひとつ前だった。 “戦場は遠く”
「だってさ、良いじゃない?知る人ぞ知る!ってノリ」
閻魔様はきっと試したんだ、自殺した人に、きっと問いを投げたんだ。
「それはそうかもしれないけれど……」
そうやって、自分で自分の命を捨てた人に。
「この世に、未練は無いのか」と。
「残される人の重さを知って、それでも死ねたのか」と。
「それに、図書室を使う奴なんかほとんど居ない。委員会も無い。ここは実質アタシと学校司書の書簡だ」
それでも躊躇わない人間には、きっと天国か地獄だ。そうじゃない人はきっと───
「書くなら、自分の欲しいやつにしな?んで、こっちに来なよ。見所はあるからさ、何ヵ月か前から知ってた」
「……はい」
「“海賊はひとり”、持ってる?アタシはまだなんだ」
「ええ、分かりました」
そして、教えてください。その数ヶ月に読んだ本を。それから、いろんな考察を話し合いましょう。
様々な言葉が僕の脳を駆け巡る。それを全て表現するのは出来ない。視界がじわりと滲む。目の前の貸し出し係の表情がぼやけた。
それでも女の子の赤い唇と意地の悪い笑みは分かる。
ごちゃまぜになった感情を乗せて、僕は口を開いた。
「ええ。ユキ……先輩」