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男湯の女の子

 心臓が鼓動を速め、限界が近づいていることを知らせていた。


 メガネの曇りを拭い、薄暗い空間の向こうにかろうじてその姿を現している時計を見る。さっきからほとんど変化が見られない。一分がこんなにも長いとは……。時間経過の遅さから意識を逸らすべく備え付けのテレビに視線を移すも、興味はすぐに失せた。芸能人が地方へ旅する番組だ。オーバーなリアクションをとる彼らも、愛想笑いを浮かべる訪問先の人間も、付き合わされるテレビ局のスタッフも、見ている僕らも、誰も心から楽しんでいない。そんな気がする。


 チラリと長い針の行方に目をやる。テレビに意識を向けることができたのはわずか三十秒だった。信じがたい。普段からこの調子で時間が流れたなら、一日も経過しないうちに人間の一生など終わってしまうだろう。

 汗が止まらなかった。地獄。これが地獄というものの再現。ただただ人間の身体を苛めるためだけの部屋。僕の他にも数人の生贄がいたが、皆押し黙って苦痛に耐えていた。むき出しにされた肌。ここでは誰も人間扱いされない。だが、彼らもまた自分の意思でここにやってきたのだ。ただ黙って耐えるしかない。

 もしも、二度とあのドアを開けて外に出ることができないとしたら。恐ろしい想像だった。一歩間違えば発狂するような恐怖。頭を振り、想像を打ち払う。

 再び壁の時計を見る。しかし稼げた時間はまたしてもわずかに三十秒。残りはまだ二分。


「あぁ」


 僕は限界を迎えた。もはや耐えることは適わない。腰を上げ、ふらつきながら脱走する。周りの嘲笑するような視線。そうだ僕は敗北した。


 *


 湯気で曇ったメガネを外し、振り返ってサウナの扉を見やる。


「今日は十分が限界かぁ」


 十二分が目標だった。しかし二分も残してのリタイア。屈辱だった。


「この間はいけたのになぁ」


 前回、このスーパー銭湯に来た時にもサウナに入った。もっともそのときは、無理をしすぎたせいか出てから気持ち悪くなってしまったが。


「さてと。じゃあ露天風呂にでも行くか」


 露天風呂といっても、都会のど真ん中のことである。周囲を壁に囲まれていて、絶景というわけにはいかない。ただ、夜空には星……も見えないが、まあたまに月は見える。


「ここの露天は初めてだしな」


 前回はサウナで無理をしすぎたため、露天風呂は諦めたのだった。

 今日はお客が少ない。露天風呂にいたっては、一人もいなかった。僕は室外への扉を開けた。


「ふぃー」


 寒い。風があるのだ。安全地帯へと避難する心境で、急いで湯につかる。寒風吹きすさぶ中で熱い湯に入るのはまた格別だった。

 ふと見ると、ここにもテレビが備え付けてあった。


「またテレビか。露天風呂なのにテレビが見られるというのは面白いけど……やかましいな」


 風呂でテレビを見たいという要望が多いのかもしれない。まったく、人はいつからこんなにも退屈を持て余すようになってしまったのか。


「本当よね」


 相槌を打つ声。さもあろう。そう思うのは僕だけじゃないのだ。


「だよなあ」


 返事をしてから、我に返る。待てよ、誰かいたか? 慌ててまわりを見ると、右斜め後ろに人がいた。岩風呂風にデザインされた湯船の傍、人がいる。湯気とメガネがないせいとで、気がつかなかった。


「あら、うれしい。私の声が聞こえてるのね!」


 その人影がしゃべった。


「……君は?」


 この「君は?」には三つの意味があった。一つ。君はいつからいた? 二つ。君は湯に入らないで寒くないのか?

 そして三つ目。君は女性じゃないのか? だ。

 そう。声が、高い。女性の声だったのだ。


「私、お風呂は静かなほうがいいと思うのよね。うるさくて嫌だわ」


 間違いない。女性だった。しかも若い声。


「お、お、おい、ちょっと君、ここは男湯だよ」


 僕は慌てて立ち上がって振り返り、慌ててまたざぶんと湯につかって彼女を見ないように背を向けた。

 彼女は片膝を立てた姿勢で中腰になり、右肩のうえに両手を添えていた。掌を上にした姿勢で……って、いや違うぞ、僕はそんなジロジロと観察したわけじゃない、一瞬だ。一瞬見ただけだ。


 なんで、女の子が?


 しかもなんで裸……!?


「知ってるわよ。ああ、私のことは気にしないで」


 再び心臓の周波数が上がっていくのを感じていた。熱暴走寸前だった。


「だ、だ、ダメだよ女の子が男湯なんか入っちゃ。何やってんだよ」


 僕は学んだ。女の子と一緒にお風呂にいるという状況が妄想ではなく現実に起こった時、けしてラッキーだなんて考えている余裕はないのだ。ただ慌てるだけである。


「女湯に行こうにも……仕方ないのよ。動けないんだから」


「う、動けないって……。ケガしてるのか? 転んだのか?」


「転んだわけじゃないわ。ケガもしてない。慌てなくていいわよ」


「とにかく、係りの人を呼んでくる」


「えっ。ちょっと待ってって……」


 僕は彼女を見ないように気をつけながら、自分の前を隠して湯から上がり、背を向けたまま露天風呂を後にした。洗い場を通り抜け、更衣室を通り過ぎ、腰にタオルを巻いた格好のままで暖簾をくぐろうとしてわれに返り、急いでロッカーへたどりついて身体をなんとなく拭いて、館内貸し出しのガウンを羽織って、受付に向う。


「あ、あ、あ、あの、男湯に女性がいるんですけど」


 ひどく慌てた僕の様子に受付の女性は面くらいながらもきちんと応対した。


「男湯に女性ですか……? ああ、清掃員ですね。すいません、この時間は清掃が入ってしまうんで、申し訳ございませんが……」


「いや、違うんです。清掃の人じゃなくて。裸の女の人が。う、動けないっていうんです」


 受付の女性はそれを聞くと、少々お待ちくださいと言って奥へ引っ込んだ。かと思うと一人の男性スタッフと連れ立って出てきた。


「案内していただけますか?」


「ええ……あ、露天風呂のとこにいました」


 案内しろと言われているのに、場所だけ告げて立ち尽くしてしまう僕。判断力が切れていた。僕を待たずに、男性スタッフは頷いて足早に男湯に入っていった。僕はなんとなく男湯の入り口のあたりでウロウロと待ってしまう。いやそうじゃなくて僕も現場へ行くべきだ。更衣室に入り、ロッカーでガウンを脱ぐ。……って、わざわざ脱いでる場合かよと思いながらもタオル一丁で浴場のほうへ行こうとしたところで、戻ってきたスタッフに出くわした。


「あの、もういらっしゃらないようなのですが……」


 そうスタッフは言う。


「え……? おかしいな」


「露天風呂のほうには誰もいません。念の為、浴場全体を見てきましたが、女性も、ケガをされてる方も、いらっしゃいませんでした」


「本当ですか?」


「ええ。……動けるようになってどこかへ行かれたのでしょうか」


「え、えーと……」


 冷静なスタッフのおかげで、僕も冷静になってきた。ひょっとして何か勘違いしてるのか僕は……。思い返せば、彼女、さして慌てた様子ではなかった。ケガ等の緊急事態というわけではなかったか。動けないというのは……金縛り、とか? もうそれが解けて解決してしまったということだろうか。

 しかし女性はいなかったというのはどういうことだ? あれ? もしかして女の子かと思ったのは僕の勘違いか? でも彼女、否定しなかったよな。僕はからかわれたということか?


「お知り合いの方ですか?」


「い、いえそういう訳じゃないんですが……」


 そう言うと、彼は頷いた。


「わかりました。では……後は我々にお任せください。念のため、女湯や館内のほかの場所も探してみます」


 スタッフは頭を下げた。


「す、すいませんでした。見間違いだったのかもしれません」


 僕が謝ると、スタッフは別に気を悪くした風でもなく、また何かありましたらお呼びくださいと言って去って行った。


「なんか恥かいたな……。もう一回いくか」


 冷や汗を流すべく、僕は再び浴場に戻った。


 *


「……って、いるし」


 いた。

 僕が露天風呂に入ると、さっきと同じように彼女はいた。いや、彼、かもしれないが。


「あら、また来たの」


 彼女が声をかけてきた。相変わらずの姿勢で僕のほうに顔を向けもしないが。

 なぜだか、今度は慌てなかった。彼女を直視しないようにしながら湯につかり、背を向けたまま近づいた。


「なあ、君はもしかして男か?」


「見てわからないわけ? 女でしょ、どう見ても」


「なら、み、見るわけにいかないだろ……」


 まあ確かに、さっき一瞬見た限りではどう見ても女だった。


「なんで男湯にいるんだよ。女湯へ行ってくれよ頼むから」


「そんなこと言うのあんただけよ。誰も気にしてないじゃない」


 そうなのだ。今は露天風呂にも数人の客がいたが、誰も慌てた様子がない。特にこちらを見ようとするやつもいない。気付いていないということもない筈だが……変に思うのは僕だけらしい。


「なんでだ? ここでは普通のことなのか?」


 まさかとは思うが、実は混浴だったりするのか? 一瞬浮かんだそのバカな考えを打ち消す。ちゃんと男湯と女湯は分かれていたし……。こんな都会のど真ん中で混浴なんかあるわけがない。何か、この子だけに許された特別待遇なのか? 他のお客はそれを知っていて、見て見ぬふり……なわけないか。大体、そんな特別待遇はおかしい。むしろ彼女が入ってきて喜ぶのはみんなのほうだ。


「そんなわけないじゃない。あんた、察しが悪いのねぇ」


「え……まさか、なんかそういうサービスが……」


 彼女が吹き出したのが聞こえた。


「ここはそういうお風呂屋さんじゃないわよ。健全なスーパー銭湯」


「訳がわからないよ。君はなんなんだ」


「じゃあヒント。さっき係員が誰かを探しに来たみたいで、露天風呂の中を見て回っていったわ。でも結局彼は、誰もいないじゃないか、と言って出て行った」


「そのスタッフは僕が呼んだやつだ。なんだ、君は隠れてたりしたわけじゃないのか? なんで彼は君を見つけられなかったんだ」


「だから、それがヒント」


 うーん……。僕は肩まで湯につかり、考えた。


「わかんない?」


 わかってきた。


「一つしか思い浮かばない」


「何?」


 みんなには彼女は見えていない……。


「まさか君、生きた人間ではない……ってことなのか?」


 すなわち、……幽霊。


「あたり」


 彼女は微笑んだような気がした。後ろなので表情はわからないけど。

 僕は不思議と、怖いとは感じなかった。


「さっき言ってたかもしれないが……そこから動けないってのは本当か?」


「そうなの。動けないし、姿勢を変えることもできないのよ」


 ……地縛霊って奴か。


「姿勢までずっとおんなじってのはえらく不便だな。湯にも入れないのか。寒いだろうに」


 我ながら、どうでもいいことを聞いてしまう。


「ふふ。入れたらとは思うけどね。でも別に、私は寒さなんか感じないから平気よ」


「そうなのか? ならいいが」


 彼女の調子があまりに気楽で、幽霊と話しているということを忘れかけている自分に気がつく。


「しかし一体どうして男湯なんだ?」


 地縛霊ってやつなら、死んだ場所に出現するものだろう……と思う。しかし男湯で死んだ女というのも不自然だと思って聞いてみた。


「……さあ……? わかんないけど。理由なんかないと思うな」


 覚えていない……ということか。


「まあ私は女湯よりいいけどね」


「はぁ? なんでだよ」


「女の私としては、殿方の裸を見られるほうが……ね。女の裸なんか見ても面白くないわ」


 呆れた。おっさんみたいな幽霊だった。


「男の裸は見てて楽しいのかよ」


「わりとね」


「そ、そうか」


 そんなことを幽霊に明け透けに言われても困る。生身の女の子でも困る。


「あなたもなかなかよ」


 何が……なかなか、なんだろう。


「しかし、たまには僕みたいに君のことが見える奴もいるだろう」


 話を変えた。


「んー? そりゃあ見えるでしょうけど」


「いやあ見えるやつは多くはないだろうけど……。まあ僕も霊感が強いほうじゃないしな。今まで霊なんて見えたことないし」


「霊? 私も霊なんて見たことないわ」


 僕は吹き出した。冗談だろうか。いや、他の霊が近くにいないという意味かもしれない。


「結構、騒がれたりしてもおかしくないと思うんだけどな。君みたいのがいるなんて噂が経ったら、このスーパー銭湯も客が来なくなるぞ。……いや、むしろ逆に来るようになるかな」


「なぁにそれ、どういう意味? ここが建ってからずっといるけど、私のせいで騒ぎになったことなんて無いわよ」


「そうなのか? 今の時代、そう珍しいことでもないのかな」


 そんな訳がないとは思うが。


「ああ、もしかして……あなた、皆にも聞こえてると思ってるの? 私の声が聞こえるのは君くらいのものよ」


「そうなのか? 声がしなけりゃ意外に気がつかないものなのかな。でも男湯に女の子、なのになあ」


「いるじゃない。時々女の子も」


 いや、幼い女の子が父親に連れられて男湯にいることは確かにあるが。


「いやいや……そういう年ごろじゃないだろ君は。どう見ても、子供じゃなかったよ」


 僕は言った。言って一秒、変な間があいたので気付く。


「ご、ごめん……そんなにマジマジ見るつもりじゃなかったんだけど、ささささっき一瞬だけ」


「ス・ケ・ベ」


「……君にだけは言われたくない」


「へへ、冗談よ」


「まあでもごめん……今のはセクハラ発言だった」


「なぁにをつまんないこと気にしてんの。見たきゃ見たっていいのよ? 私動けないから隠すこともできないし……」


「か、勘弁してくれよ」


 僕は湯に顔をつけた。顔が火照っているのはのぼせたせいだろう。


 *


 僕は、毎週通うようになった。

 露天風呂で彼女と話をするのが楽しみになった。彼女はいつもそこにいた。


「今日は遅いじゃない。待ちくたびれたんだから」


 彼女もそう言って、僕が来るのを楽しみにしてくれるようになった。


「いやあごめんごめん。服を買ってたら遅くなった」


「服? どんなのを買ったの」


「えーと……。口で説明するのが難しいな。着て来たから見せたいんだけど」


「ここまで着てきてよ」


「無茶言うなよ。怒られるよ」


「もう。残念ね」


「君はどうやっても外に出ることはできないのか?」


「無理無理」


 その時、彼女の足元にパサリとタオルが落ちた。僕のではない。もちろん彼女のでもない。後ろを向くと、知らないオヤジがそのタオルを拾い上げるところだった。

 なんだ? このオヤジが落としたのか? というか、オヤジが歩いてきたことを考えると、こっちに放り投げた、のか?

 見ているとオヤジは信じられない行動に出た。彼女に向ってそのタオルを振りかぶり……叩きつけようとしたのだ。


「おいあんた!」


 反射的に、僕は湯から立ち上がり、怒鳴っていた。


「彼女に何してんだ! ……透けるかどうか試してみようってのか? 失礼だろ!」


 自分でもびっくりするような声を出していた。オヤジの行動はどう見ても彼女の存在を認識してのものだったが、生きている人間に対するような行動では全くない。タオルを振りかぶって、挨拶もなしにそれを叩きつける……というのは少しおおげさだが、乗せてみようとするようなその行為は、つまり「透けるかどうか試してみよう」というのに違いなかった。

 僕の言葉は、しかしそのオヤジには理解できなかったらしい。


「な……何を言ってんだ」


 あんぐり。ああ、これがその擬音でもって表現すべき表情なのか。生まれて初めてそう思った。彼は悪びれるでもなく、逆ギレするでもなく、ただ唖然としていた。


「何をじゃないだろ。彼女に失礼だと言ってるんだ……」


「ちょっと、やめてよ。この人、単にタオルを取り落としただけでしょ?」


 彼女の声が割って入った。取り落としただけ? ああ、このオヤジは幽霊である彼女のことなんか見えてなくて、たまたま偶然、彼女の足元にタオルを落としたって言うのか?

 僕は首を振った。それは違う。こいつは投げたタオルが命中しなかったからって、もう一度落ちたタオルを拾って彼女に叩きつけようとしたんだ。落としたんじゃない。彼女を狙ったんだ。


「違うさ。君みたいな存在を珍しがって変なちょっかいを出そうとしたんだ」


 大体彼女は首を動かせないのだ。横から来たこのオヤジの動作はよく見えていない。


「だったらどうだってのよ。いいじゃない、やらせとけば」


 僕の怒りとは逆に、彼女は妙に冷めているようだった。オヤジのほうも自分が責められているということがわかっていない。なんだか僕だけがこんなに腹を立てて、バカみたいじゃないか。


「とにかくあんた、二度と彼女にタオルを投げつけるなんてこと、するなよ」


 僕の剣幕に気圧されたのか、オヤジは僕を怖がっているようにも見えた。


「え? 彼女って……ああ、いや、いいんだ、わかった。わかったとも。二度としないよ」


 オヤジは何か奇妙なものでも見るような目つきで見ながら後ずさり、首をひねりながら、僕と彼女から離れるように露天風呂を出て行った。

 僕は脱力した。再び彼女のほうに背を向けて、湯の中に肩まで沈めた。


「あいつ、自分が何を注意されたのかわかってないのか……何だよ、いい年して僕の言ってることがわからなかったのか?」


 そう呟く僕に彼女は言う。


「まあまあ。色んな人がいるよ。ともあれもうしないって言ってたんだからいいじゃない」


「まあ君がいいのならいいけれど……。君は寛大なんだな」


 しかしこの僕の発言もまた無神経なものだと気がついた。ずっと動けない幽霊をやっているのだから、たぶん似たような目にはあってきたのだろう。寛大なのではない。きっと……もう、諦めているのだ。


「でも、ありがとうね。私なんかのために、あんなに怒ってくれて」


 彼女がポツリと言った。


「いや……。そう言われると……」


 照れる。


「ううん、私の声が聞こえる人も初めてだけど、こんなに私のこと考えてくれる人なんて、初めて」


「そんなことは……。いやあ、その、君は美人だし、その……以前はモテたんだろう?」


 そう聞いた僕は、彼女の生前のことが気になっていたのだと思う、正直。


「え?」


 彼女は一瞬間をおいて、大きな声で笑った。


「なぁに、それ? そんなこと言われるなんて思ってもみなかった」


「そ、そんなに笑う程変なことを言ったつもりはないよ。眼鏡がないからはっきり見えるわけじゃないけど、君は美人だよ、間違いなく」


「ふふふ。ありがとう。近くで見てみる?」


 願ってもない申し出だったけれど、さすがに彼女が服を着ていない状況で、それは耐えられそうになかった。少なくとも……今はまだ。


「か、からかわないでくれよ」


 僕の背後でくすくすと笑う声がした。


「ピュアねぇ。あんた、彼女とかいたことないんじゃないの?」


「そんなのわかりきってるだろ」


「残念ねぇ」


「何が」


「私がちゃんとした生きた人間の女の子だったら、彼女になってあげるのに」


 なっ……。

 勢いよく湯に顔をつっぷした。もう限界だった。


「ご、ごめんのぼせたみたいだ。ま、また来週」


「あはは。はーい。またねぇ」


 からかっているだけなのか、本気だったのか……。僕は一週間悩んだ。


 *


「なあ、聞きたいことがあるんだ」


「ん?」


「なんていうか……どうして、ここにいるんだ?」


 この質問も、もう何回目だろうか。毎度、うまくはぐらかされてきた。

 彼女は少し黙った。僕がいつになく真剣なのがわかったらしい。


「だから……わかんないってば。私にも」


「その……以前の記憶とかは無いのか?」


「以前って? 以前っていつよ」


 だから、生きていた頃だよ。だがその話題……彼女の死について触れるようなことを言うのが……躊躇われた。


「君が、そこでそうして動けなくなっているのには理由がある気がする」


「私がここで動けない理由……? そんなの、あなたが空を飛べないのと同じような理由しかないと思うけど」


「空を飛べない理由?」


「あなた、どうして空を飛べないの?」


「そりゃあ、羽がないからさ。人間の身体は飛ぶようにはできてない」


「じゃあ、そういうことよ」


 さっぱりわからなかった。


「どういう意味だよ。僕が空を飛べないのは当然じゃないか」


「それが当然なら、私の身体が動くようにできてないのも、当然じゃないの」


「本来は動ける筈だと思うんだよ。よその幽霊は、結構動いてるんじゃないのか」


「知らないでしょ」


「知らないけど」


 彼女以外に幽霊なんて見たことないんだ。わかるわけがない。


「知らないんじゃない。見えもしない、よその幽霊と私を一緒にする理由がわからないわ。大体、あんた何か誤解してる気がするんだけど、私は……」


「君は、もっと自由に動きたいと思わないのかよ!」


 僕は怒鳴っていた。


「僕は、この湯につかっている時間だけしか君と過ごせないなんて嫌だ。のぼせるからそんなに長いこといられないし……入館料だってかかるし……」


「お金、困ってるの?」


「違うよ! お金なんかどうでもいいんだ。そうじゃなくて、そうじゃなくて……」


 僕はなんで自分が金のことなんか言ったのかわからなかった。そんなことどうだっていい。


「君と外を歩きたいんだ。ここで君と話すのは楽しい。僕は君と話すことで凄く癒されてる。だから毎週通ってる。でも、もっと他の場所で君と過ごしたいんだよ」


「でも私は普通の女の子じゃ……」


「そんなの関係ない! 僕は君と街を歩きたい。格好だってそうだ。お互い裸じゃなくて、色んな服を着た君と街を歩きたい」


「……あら、裸は、お嫌?」


「君には似合う服がたくさんあると思う。それを見てみたいんだよ。いつも裸じゃあその、君を見つめていたくても見られないし……」


「見てもいいのよ?」


 僕はおし黙った。


「見なさいな。私、一回も見ないでなんて言ってないじゃない。あんたが勝手に見ないでいるだけ」


「そうだけど……。でも、段階ってのがあると思うし」


 彼女はいつものように笑いはしなかった。


「意気地なし」


「……何?」


「早い話がさ、意気地なしなんだよね。私が生きた人間の女の子じゃないから距離を置いてるのかと思ってたけど、あんた、単なる意気地なしなのよ。もうわかったわ」


 カッとなった。僕は振り向き、立ち上がって彼女の正面に立った。


「……」


 彼女の動かない顔に、僕は視線をあわせた。

 初めてちゃんと見る彼女の顔は……思った以上に……綺麗だった。


「肌が……白いな」


「いかが? お気に召しました?」


 茶化す彼女。


「や、やぁ……まあ……その、なんというか」


「そして次第に視線は下へ下へと移っていくのでした……。まるで全身をなめまわすような……」


「や、や、やめてくれよ……!」


 僕はもう耐えられなくなって、後ろを向いた。


「あははははは」


 僕は脱力して勢いよく湯に身を沈めた。

 空を見る。

 月が出ていた。風がなく、雲もない。静かな夜だった。


「私ね」


「うん?」


「本当はいないの」


「…………?」


「どこにもいないのよ」


「いない?」


「うん」


「どういう、意味」


「幻なの」


「違うよ」


「違わないよ。ねえ、幽霊ってどこにいると思う?」


「どこ? 君はここにいる」


「幽霊は、頭の中にいるの」


「違う。僕の脳が見せている幻覚なんかじゃない」


「どうしてそう思うの?」


「僕だけが見えてるわけじゃない。他にも君のことが見えている奴はいたじゃないか」


「いいえ、誰もが同じものを見ているとは限らない。本当は見えていないかもしれない。私のことが見えているわけじゃないのかも」


「なんだって? 何を言っているんだ」


「あなたが見ている私は、あなただけに見えている。あなたが聞いている声は、あなただけに聞こえている」


「何だよ。まあ、他の誰も君を見てないってんなら、僕はむしろその方が嬉しい。僕は君を独占したい」


「心配しなくても私はあなただけのもの」


 僕は振り向いた。そこには確かに彼女がいる。けして幻なんかじゃない。彼女の身体は透けたりはしない。幽霊なのに、こんなにはっきり実態を伴うなんて。


「ねえ、私に触ってみて?」


 急に彼女が言う。

 幽霊の身体には触れない筈だと思った。でも、ふとこんなに存在感があるなら、わからないと思った。だから何も言わずに僕は手を伸ばす。


「そんなに恐る恐るじゃなくていいよ。触ったって溶けたりしないから」


 彼女は笑った。


「でも、変なとこ触っちゃ嫌よ」


「か、肩ならいいだろ」


 僕は手を伸ばし……彼女の身体の境界線に狙いを定めた。透けてしまって触れないかもしれない。でも、彼女の身体の境界線を探るようにしていれば、もしかしたら感触があるのではないか……そんな気がした。

 だが。


「あっ」


 感触は探らずとも訪れた。はっきりとした感触。僕は彼女の肌に触れることができた。肩の丸みを掌で感じる。


「信じられない……」


 幽霊である彼女の身体は、冷たかった。ひんやりとしていた感触は、とても生きた人間のものとは思えなかった。


「触れたね」


「うん。触れた」


 彼女は、くすくすと笑った。そしてその笑みを消した。


「ねえ、私のこと、絶対に忘れないって約束できる?」


 ……僕は頷いた。


「私の存在を疑わないって、約束できる?」


 ……僕は頷いた。


「私とずっと一緒にいるって、約束できる?」


 ……僕は頷いた。

 彼女も頷いた。


「なら私はあなたと行くわ」


 僕の手が、彼女の身体に触れている僕の右手が、熱くなった。接点が光る。それも一瞬のことだった。


「手を放して、後ろを向いて!」


 彼女の声で僕は彼女の身体から手を離し背を向けた。


「この露天風呂から出るの!」


「えっ……」


「いいから! 絶対に振り返らないで!」


 僕は言うとおりに露天風呂を出て、室内の浴場に戻る。


「まだ振り向いちゃだめ! そのまま更衣室へ行って!」


「え、君、どこから……」


「振り向かないで!」


 彼女の声がまだ聞こえていた。僕はキョロキョロしようとして、彼女にとがめられる。ただ足早に更衣室へと続く扉を開けた。


「君、そばにいるのか?」


「……ええ、けして浴場に戻らないで」


「なあ、君はどこにいる?」


「言ったでしょ? 貴方と行くわって。これからは、ずっと一緒」


 彼女の声が肩のあたりに近づいた気がした。


「……そっか」


「ねえ、着替えて。外に出ましょ。ここを出たとこで待ってるから」


「えっ? あ、おい……」


 彼女の気配が消えた気がした。僕は慌てる。身体を拭くのもそこそこに急いで服を着て、濡れた髪もろくに乾かさず、暖簾をくぐって廊下に出た。


「おっ。早い早い」


 息をついた僕に、そばで声をかけた女性は……彼女だった。僕は振り向く。


「君……その格好は……」


 女湯の暖簾の前に、彼女がいた。もう裸ではない。服を着ていた。白いコート。その前をはだけてみせる。黒いワンピースだった。


「似合う?」


「うん、凄く似合うよ」


「そっ。良かった」


 彼女の笑顔。僕は初めて見たのに、そんな気がしなかった。背中越しに彼女の笑い声を聞くたび、思い浮かべていたのと同じだった。


「それじゃあ、出るかい」


 僕は受付に向おうとした。

 だが彼女が立ち止まっている。


「ねえ、最後にもう一つだけ、約束して欲しいの」


「なんだよ」


「もう絶対に、ここには来ないこと」


「ここには……って?」


「このスーパー銭湯」


「え? どうして?」


 彼女は口ごもった。


「……」


「……」


 僕は、彼女の傍に寄った。


「わかった。来ないよ」


 あの露天風呂に近づきたくない。近づけば彼女はまたあそこに縛られることになるのかもしれない。そう解釈した。それで十分だ。元々、彼女がいるからこそ、僕は通っていたのだ。あそこに行かなくても彼女と一緒にいられるなら、未練なんかない。


「これからはずっと一緒にいられる」


「うん。貴方が嫌になるまではね」


「じゃあ、ずっとだな」


 僕は彼女を後ろから抱きしめた。彼女の感触は確かにある。


「なあ、いずれ、教えてくれるか? 君が生前どうしていたのか」


 彼女が、ふっと息を漏らした。


「笑うなよ。気になるんだ。前に男がいたかもしれないだろ?」


「バカ。ありえないのよ。だって、私は貴方が生み出した幻なんだから」


「またそうやってはぐらかす……。まあ、いいさ、先は長いんだしな」


 *


「あの~、館長」


「なんだマミちゃん」


「お客さんが噂してたの聞いたんですけどぉ、『像の番人』ってなんですか?」


「ああ、彼のことか。そういえば彼も二ヶ月くらい前からパッタリ来なくなったなぁ。毎週来てたのに。そうかマミちゃんが入ってくる前だしな、知らないか」


「教えてくださいよぅ」


「まだ二十歳そこそこの若い男なんだけどね」


「ふんふん」


「彼ね、男湯の露天風呂。いつも、あそこにずーっといたんだよ。二時間くらい張り付いてたんじゃないかな」


「えぇ? ふやけちゃいますよぉ。よっぽど露天風呂好きなんですね」


「それがお目当てはね、露天風呂の傍にたたずむ女の子なんだ」


「えぇ? 男湯に女の子がいるんですかぁ? うわぁ、やっらしい」


「あはははは。そんなわけないだろ。彫像だよ。真っ白な像。彼、あれがお気に入りでさ、ずーっとその前に陣取ってるんだ。それで付いた仇名が『像の番人』」


「彫像、ですか……。そんなに綺麗な像なんですか?」


「雰囲気づくりで置いてあるだけの安物だよ。確か昔は水がめかなんかを担いでたと思うんだけど、途中で外れちゃって今は何ももってない」


「安物の像がお気に入りだったんですか?」


「それがどうもね、噂じゃあ話しかけたりしてたみたいなんだよ。その女の子の像に」


「え? やだぁ。まさか、恋しちゃってたんですか? 彫像に?」


「本当のところはどうだったかわからないけどね。ただ、常連のおじさんが言ってたんだ。いつもその像にタオルをかけとくんだが、それをやろうとしたら急に怒り出した奴がいたって。何を言ってるのかよくわからなかったが、どうも『彼女に失礼だ』とかなんとか」


「完璧ぃ。すごぉい。そんなに可愛い女の子だったんですか?」


「見てきてごらんよ」


「男湯なんて入れませんよぅ」


「まあ裸の女の子ってことで、色気も手伝ったんじゃないか?」


「男ってバカですねぇ」


「バカは酷いなぁ、マミちゃん」


「じゃあ訂正します館長、その人がバカなだけです」


「あのね、マミちゃん。違うよ。彼は、魔法にかかっただけなんだよ」


「うわあ館長、なんてこと言うんですかぁ。じゃあ、来なくなったってことは……魔法が解けちゃったんですかぁ?」


「そうかもしれない。あるいは逆に……魔法が解けないように、かもな」


「どういう意味ですかぁ?」


「彼は、あれを彫像だと気付く可能性を自ら封印したのかもしれない」


「……よくわかりません。じゃあ彼、所詮幻だって気付いてたんですか?」


「みんな気付かないふりをしているだけで、色恋なんてものはもともと幻にすぎないものさ。問題は、その幻を信じ続けられるかどうか、だよ」


「ふうん……館長も意外にロマンチストなんですね」


「マミちゃん、覚えておきたまえ。男はみなロマンチストなんだよ」


「私はわかりませんねぇ。女なので」


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― 新着の感想 ―
[良い点] ツギクルには感想書いたのですが、個別には初めて書きます。 女の子の正体が何なのか、最後まで不思議でした。 短編ですが、それでも一気に読み切れました。 [気になる点] やはり、女の子の正体。…
[一言] まさかのオチに驚愕である。 男湯にいる女の子ってさ、何かそれだけで酷くエロスを感じますよね。いえ裸の女の子が男湯にいたらそらエロいですけどそれだけじゃなく。ロリコンでもないですけど。
[良い点]  すんごくおもしろかったです。
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