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消えない指紋

掲載日:2026/04/06

雨は、降り始めると止む理由を忘れてしまったように降り続いていた。

 警視庁鑑識課の坂口理央は、濡れたアスファルトに映る街灯を踏みながら、現場となった古書店へ向かった。都内でも珍しい、戦前の木造建築を残した三階建ての建物だった。店名は《星影堂》。文学史の専門書や絶版小説を扱うことで、知る人ぞ知る店だったらしい。

 被害者は店主の森山恭介、六十二歳。書棚の間で、仰向けに倒れているのを常連客が発見した。死因は後頭部への鈍器による強打。争った形跡はほとんどない。

 理央は雨粒を払いながら、入口に立つ若い刑事に会釈した。


「坂口さん、内部はそのままです」


 靴カバーを装着して店内に入ると、古紙特有の甘い匂いが漂った。壁面を埋め尽くす本棚は、重力に耐えかねているように少しだけ歪んでいる。床に転がる脚立の傍で、白いチョークの輪が静かに存在していた。

 理央は周囲をゆっくり見回す。


「第一発見者は?」


「大学教授です。文学研究者で、週に三回ほど通っていたとか」


「名前は?」


「中島啓介」


 理央は軽く眉を動かした。聞いたことのある名だった。日本近代文学の権威として、講演会にもよく登壇している人物だ。

 棚の側面に触れた瞬間、理央は微かな違和感を覚えた。木目の上に、極めて不自然な指紋が残っていた。乾燥して白く浮き上がるそれは、誰かが意図的に触れたようにも見える。


 採取しながら、理央は呟いた。


「やけに目立つ場所ね」


 数日後、指紋照合の結果が出た。

 一致した人物は、中島啓介本人だった。

 任意聴取は穏やかに始まった。大学の研究室は整然としており、書籍は背表紙の高さまで揃えられている。


「事件当日、あなたは店を訪れていましたね」


 中島は穏やかな笑みを浮かべた。


「ええ。いつも通りです。森山さんとは三十年来の付き合いでして」


「最後に会った時、何か変わった様子は?」


「いえ。むしろ上機嫌でした」


「指紋が、遺体近くの棚から検出されました」


 中島は少しだけ考える素振りを見せた。


「棚? ああ、脚立を借りて上段の本を取った記憶があります」


 自然な説明だった。理央は頷きつつも、胸の奥に小さな棘が残るのを感じた。

 棚の高さは、脚立がなくても十分届く位置だったからだ。


 調査を進める中で、奇妙な事実が浮かび上がった。

 森山は死の前日、大量の書籍を処分しようとしていた。店の奥に積まれた段ボールからは、希少な初版本や署名入りの資料が次々に見つかった。


「普通、売りに出す品だろうに」


 若い刑事が首を傾げる。

 理央は静かに段ボールを覗き込んだ。書籍の中に、一冊だけ異様に保存状態の悪いノートがあった。革装丁は剥げ、ページは何度もめくられた跡で黒ずんでいる。

 中には、走り書きの原稿が綴られていた。

 タイトルは《消えない指紋》。

 読み進めるうちに、理央は息を止めた。

 それは戦後に発表された名作短編と、ほぼ同一の内容だった。ただし、このノートの日付は作品発表の十年前を示している。

 作者名は記されていない。


 文学史を調べると、例の短編は若くして夭折した作家・藤代蓮による作品として知られていた。中島は、その藤代の研究で名を上げた人物だった。

 理央は再び中島を訪ねた。


「藤代蓮について、教えてください」


 中島の表情は、ほんのわずかに硬くなった。


「天才でした。彼は、文学そのものを変える可能性を持っていた」


「あなたは彼と面識が?」


「ええ。学生時代に、少し」


 理央はノートのコピーを机に置いた。


「これは、藤代の未発表原稿ですか」


 中島は長い沈黙の後、静かに椅子へ座り直した。


「……どこで?」


「星影堂です」


 窓の外で、細い雨が降り始めていた。


「森山は、藤代の友人でした」


 中島は語り始めた。


「藤代が亡くなった後、遺品の整理を任されたのは彼だった」


「では、この原稿は」


「……藤代のものです」


 中島は、ゆっくりと目を閉じた。


「だが、世に出したのは私です」


 室内の空気が、重く沈んだ。


「編集者に持ち込み、私の校訂として出版させた。作者は藤代。しかし、世間が評価したのは私の解釈でした」


「盗作ではない、と?」


「文学において、作者とは誰でしょう」


 中島は淡々と言った。


「書いた者か。世に送り出した者か。評価を定義した者か」


 理央は沈黙した。


「森山は、最近になってこの原稿の存在を公表しようとした。真実を戻すと言ってね」


「だから、あなたは――」


「違う」


 中島は即座に否定した。


「私は、殺していない」


 捜査は膠着した。中島の動機は明白だが、決定的な証拠はない。

 しかし、理央は違和感を捨てきれなかった。

 あの指紋だ。

 あまりにも、見せつけるように残されていた。

 再度現場を訪れた理央は、棚を注意深く観察した。やがて、木材の継ぎ目に不自然な溝を見つける。板を外すと、そこに小さな録音機が隠されていた。

 再生すると、森山の声が流れた。


『もし私が死んだら、この記録を警察に渡してほしい』


 短い沈黙の後、別の声が続く。中島だった。


『公表すれば、文学界は混乱する』


『混乱して当然だ。作品は作者に返るべきだ』


『……君は理想を語る。しかし理想は、人を食い潰す』


 激しい物音が入り、録音は途切れていた。


 証拠は十分だった。

 逮捕状が下りる直前、理央は中島と最後の面会を行った。


「なぜ、指紋を残したのですか」


 中島は少しだけ笑った。


「私は、生涯をかけて文学を研究した。だが最後に理解したのです」


「何を?」


「真実とは、記録されなければ存在しない」


 彼は手を見つめた。


「森山は、記録を残した。私は、記録される側になった。それだけの違いです」


 裁判は世間の注目を集めた。文学界は激しく揺れ、作品の帰属を巡る議論が巻き起こった。

 やがて判決が下り、中島は有罪となった。

 数か月後。

 理央は星影堂跡地を訪れた。建物は取り壊され、更地になっていた。雨上がりの地面に、作業員の足跡が無数に残っている。

 彼女はふと、あのノートの最後の一文を思い出した。

 ――作品は、作者の指紋を残す。

 理央は自分の掌を見つめた。

 どれほど洗い流しても、指紋そのものは消えない。皮膚が再生しても、同じ形を取り戻す。

 真実も、同じなのかもしれない。

 隠され、歪められ、忘れられても。

 どこかに、必ず痕跡を残している。

 空を見上げると、雲の切れ間から淡い光が差していた。濡れた地面に反射したその光は、無数の指紋のように細かく揺れていた。

 理央は静かにその場を後にした。

 雨の匂いだけが、まだ消えずに残っていた。


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