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平和な余生を邪魔するな。~亡霊と呼ばれた男の、こだわり無人島暮らし~  作者: 空と海


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7/20

第七話:嵐の夜に、氷は軋む(前編)

無人島の平穏を、規格外の嵐が蹂躙します。

 異常気象がもたらした、予測不能な巨大台風の直撃。

 

 かつて「亡霊」として死地を渡り歩いた佐伯にとって、死は常に隣人でした。しかし、今の彼には守るべき菜園があり、そして――隣で震えを隠そうと虚勢を張る、一人の教え子がいます。

 

 堅牢なセーフハウスの壁の向こうで吹き荒れる、自然の咆哮。

 逃げ場のない密室で、二人は初めて、武器も嘘も脱ぎ捨てた「本当の言葉」を交わし始めます。

 佐伯の凍てついた過去が、美月の真っ直ぐな想いに触れ、静かに、しかし決定的に軋みを上げる前編。

 どうぞ、嵐の音と共にその鼓動を感じてください。

その兆候は、朝の磯釣りの最中に訪れた。

 昨日までの抜けるような青空はどこへ消えたのか、水平線の彼方から、墨を流したような不気味な積乱雲が、急速に空を侵食し始めていた。風はない。だが、空気は湿り気を帯び、肌にまとわりつくような嫌な重さがあった。


佐伯は、愛用の石鯛竿を早々に畳んだ。

 気象衛星のデータは、例年なら北上するはずの台風が、異常な高気圧の配置によって急旋回し、この島を直撃するコースを辿っていることを示していた。中心気圧910ヘクトパスカル。数十年の一度の怪物だ。


「……美月、撤収だ。菜園の補強と、セーフハウスの完全封鎖に入るぞ」

「えっ、でもまだアタリが……。あ、本当だ。空が変ですね。先生、なんだか嫌な予感がします」


美月は鋭い勘で、自然が発する「殺気」を感じ取っていた。

 二人は全速力で小屋へ戻った。佐伯は農機具小屋の地下に隠された「セーフハウス」の防護シャッターを確認し、自家発電用の予備燃料をチェックする。菜園では、昨日まで青々と茂っていたトマトやジャガイモの苗を、可能な限り防風ネットで包み込んだ。


「先生、これじゃ……せっかくの菜園が」

「命があれば、また植えられる。今は自分たちの生存を最優先にする。いいか、地下へ入ったら、何があっても外へ出るな」


夕刻。嵐の本隊が島に到達した。

 猛烈な風が、島中の木々をなぎ倒すような音を立てて咆哮し始める。波は十メートルを超え、一級磯を完全に飲み込んだ。頑強なコンクリート造りの隠れ家でさえ、時折巨大な鉄槌で叩かれたかのように震動する。


佐伯と美月は、地下の居住エリアへと退避した。

 ここは佐伯が自らの手で補強し、数ヶ月の籠城に耐えうるように設計した秘匿空間だ。厚いコンクリートの壁と鋼鉄の防音扉に守られ、外の騒乱は、低い重低音となって伝わってくるだけだった。

 

 非常用電源に切り替わり、室内はオレンジ色の予備灯に照らされた。

 美月は、いつものドジっ子な明るさを消し、ソファーの端で膝を抱えていた。どれほど優れたスパイであっても、人知を超えた自然の暴力の前では、一人の無力な人間に過ぎない。


「……先生。さっき、菜園のトマトが風で飛ばされるのが見えました。私が昨日、あんなに不器用に雑草を抜いた、あの場所が……」

「気にするな。嵐が過ぎれば、また土を作るだけだ」


佐伯は静かにコーヒーを淹れた。

 狭い密室に、焙煎された豆の香りが広がる。彼は一杯のカップを美月の前に置いた。

 美月は震える手でそれを受け取ると、熱い液体を一口啜り、ようやく少しだけ息を吐いた。


「先生は、怖くないんですか? こんなに世界が壊れそうな夜なのに」

「怖い、という感覚はとうに忘れた。だが、不快ではあるな。自分の支配できない力が、自分の居場所を荒らしていくのは」


佐伯は、美月の対面に腰を下ろした。

 予備灯の微かな灯りが、二人の影をコンクリートの壁に長く投影している。

 

「……ねえ、先生」

 美月が、カップを見つめたまま呟いた。

「私、上陸した時に言いましたよね。先生をサポートしに来たって。でも、本当は違うんです。私は、確かめたかった。先生が三年前、あんなに急に姿を消して、こんな絶海の孤島で何をしていたのか。……そして、私のこと、少しでも思い出してくれたことがあったのかを」


美月の声が、嵐の重低音に混じって、震えながら紡がれる。

「私は、先生に教わった技術で、たくさんの汚れ仕事をこなしてきました。でも、どんなに暗い場所にいても、目をつぶればあの訓練場の、煙草の匂いがする先生の背中だけが見えていたんです。先生は……私にとって、ただの師匠じゃない。世界でたった一人の、光だったんです」


彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で佐伯を真っ直ぐに見つめた。

 その視線には、もう「不器用な教え子」の仮面はなかった。そこにあるのは、三年間、片時も絶やすことなく燃やし続けてきた、一途で、重すぎるほどの愛だった。


「先生。私は、先生が誰かを亡くして、その痛みを抱えたままここに逃げてきたことを知っています。でも……もう自分を罰するのはやめてください。私じゃ、彼女の代わりにはなれませんか?」


佐伯の胸の奥で、何かが鋭い音を立てて軋んだ。

 それは、彼がこの島で、孤独と静寂という名の雪を降らせて、何層にも塗り固めてきた「心の氷」が割れる音だった。

 

 三年前。

 彼の腕の中で息絶えた、かつてのパートナー。

 彼女を守れなかったという自責の念が、彼を亡霊へと変え、この無人島へと追い詰めた。

 

「……美月」

 佐伯の声は、掠れていた。

「君は、代わりなどではない。君は、君だ。世界に一人しかいない、優秀で、美しく……そして、誰よりも厄介な教え子だ」


佐伯は立ち上がり、壁際に置かれた古い木箱を指でなぞった。

 そこには、彼が決して開けることのなかった、過去の断片が詰まっている。

 嵐の咆哮は、さらに激しさを増していた。島全体が激震にさらされ、天井から微かな塵が舞い落ちる。


「外は、すべてが吹き飛ばされている。だが、この中だけは、嘘をつく必要はないのかもしれないな」


佐伯はゆっくりと振り返り、美月の前に膝をついた。

 彼女の白い手に、自分の、数多の火器と魚の骨を扱ってきた硬い手を重ねる。

 美月の手が、微かに跳ね、それから縋るように彼の指を握り返した。


「俺の過去を話そう。君が知るべき、そして俺がいつか話さねばならなかった、亡霊の本当の正体を」


佐伯の瞳に、三年間消えていた「人間」としての光が、静かに灯り始めていた。

 

(後編へ続く)

第七話・前編、最後までお読みいただきありがとうございます。

 

佐伯が自力で築いた「セーフハウス」という閉鎖空間にフォーカスしたことで、より二人の心理的な距離の近さが際立つ形になりました。


外界を破壊する嵐の音と、オレンジ色の予備灯の下で交わされる告白。

 美月が投げかけた「彼女の代わりにはなれませんか?」という問いは、佐伯がもっとも恐れていた、そしてもっとも求めていた救いの言葉かもしれません。


続く「後編」では、佐伯が自らの口で語る凄絶な過去、そして美月の想いに対する、彼なりの誠実な「答え」を描きます。

 二人の距離は近づきますが、それは安易な結末ではありません。亡霊が再び歩き出すための、再生の物語です。


嵐がもっとも激しくなるその時、二人の絆はどのような形を見せるのか。

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