第六話:湯煙の秘境と不器用な献身
無人島の深奥に眠る、青き聖域。
潮騒を間近に聞きながら浸かる天然温泉は、亡霊たちが唯一、その重い鎧を脱ぎ捨てられる場所でした。
佐伯の隣で、無自覚な美貌を惜しげもなくさらけ出す美月。
湯煙の中に溶けていく二人の距離と、月明かりに照らされた危うい体温。
さらに翌朝、愛する師匠のために美月が挑んだのは、銃よりも重い「フライパン」という名の兵器。
料理下手な彼女が精一杯の愛を込めて作り上げた、世にも奇妙な朝食の結末とは。
甘く、そして少しだけ騒がしい、亡霊たちの湯治の記録。
どうぞ、ゆったりとした気分でお楽しみください。
石鯛の晩餐から一夜明け、島を包む空気はどこか気だるく、そして甘やかだった。
昨夜、佐伯の肩で寝入ってしまった美月は、朝食の後に「昨日の石鯛との格闘で筋肉痛です……」と、これまた大袈裟な泣き言を漏らした。
普段、佐伯は海水淡水化装置を通した真水でシャワーを浴び、効率的に汚れを落とすだけで満足していた。だが、この島には彼だけが知る「特別な場所」がある。
「……少し歩くぞ。筋肉痛に効く場所がある」
「えっ、デートですか!? どこへ行くんですか、先生!」
美月は現金なもので、痛がっていたはずの足取りも軽く、佐伯の後を追った。
島の南西、ジャングルを抜け、鋭い溶岩石が積み重なる海岸線を数十分ほど進む。やがて、硫黄の微かな香りが潮風に混じり始めた。
そこには、波打ち際の岩礁に囲まれた、エメラルドグリーンの天然の湯溜まりがあった。
海底から湧き出した温泉が、潮が引く時間帯だけ姿を現す、秘境中の秘境。
「わあ……綺麗。これ、全部温泉なんですか?」
「ああ。引き潮の数時間だけ入れる、この島最高の贅沢だ。温度も丁度いい」
佐伯は慣れた手つきで岩場にタオルを置いた。
だが、次の瞬間、彼の心臓がわずかに跳ねた。
美月が一切の躊躇なく、その場でタクティカルパンツとTシャツを脱ぎ捨て始めたからだ。
「……おい、美月。何を考えている」
「え? 温泉に入るんですよね? 誰もいないし、先生しか見てないし。それに私、先生には全部見せてるようなものですから」
彼女はそう言って、悪びれもせずに笑った。
湯煙の向こう、月明かりを反射するような、透き通るほど白い肌。スパイとしての苛烈な訓練を耐え抜いたはずのその体は、不思議なほどにしなやかで、女性らしい柔らかな曲線を描いている。
彼女は隠すべきところを隠す素振りも見せず、そのままゆったりと温泉に身を沈めた。
「はあ……極楽です……先生も早く入ってくださいよ」
美月は岩に頭を預け、長い睫毛を伏せた。
湯面に浮かぶ彼女の肩と、時折揺れる豊かな胸の膨らみが、佐伯の視界に暴力的なまでの「日常」を突きつけてくる。
佐伯は溜息をつき、なるべく彼女から視線を外して、少し離れた岩場に浸かった。
「……あまり無防備すぎるのは感心しないな。君は現役の工作員だろう」
「先生の前でまで防波堤を作ってたら、私、壊れちゃいますよ。……ねえ、先生。三年前、私に射撃を教えてくれた時、一度だけ頭を撫でてくれましたよね。あの時から、私はずっとこうして、先生と同じお湯に浸かる日を夢見てたんです」
美月は温泉の中で足をパチャパチャと動かし、佐伯の方へじりじりと近づいてくる。
彼女が動くたびに、お湯が波打ち、彼女の体温が佐伯の肌に伝わってくるようだった。
「……そんな覚えはない」
「嘘です。先生はいつも、大事なところを忘れたふりをするんだから」
美月はさらに近づき、佐伯の腕に自分の肩をそっと触れさせた。
熱い温泉の温度と、彼女の柔らかな体温。佐伯は逃げ場のないその密着感に、石鯛との死闘よりも深い緊張を強いられていた。
夜の海から届く波音が、温泉の溢れる音と重なり合う。
美月は満足そうに、佐伯の腕に頭を乗せて目を閉じた。
その顔は、もはやスパイでも亡霊でもない。ただ一人の、恋する女性の貌だった。
翌朝。
佐伯は、いつもより遅い目覚めを迎えた。
台所から聞こえてくる、何かが爆発したような「ボフッ」という音と、焦げた匂い。
「……まさか」
佐伯が台所に駆け込むと、そこにはエプロン(どこで手に入れたのか)を身に着け、顔を煤だらけにした美月が、フライパンを持って立ち尽くしていた。
テーブルの上には、彼女が「精一杯作った」という朝食が並んでいる。
黒炭のように固まったパン。
形を留めていない、ドロドロのスクランブルエッグ。
そして、なぜか紫色に変色したスープ。
「あ、先生! おはようございます……。その、先生にゆっくり休んで欲しくて、私が朝ごはんを作ったんですけど……火加減がちょっと……爆弾の信管より難しくて」
美月は泣きそうな顔で、煤けた手でエプロンの端を握った。
世界最高峰の毒物調合や暗殺術を心得ている彼女が、たかが卵一つを焼くのにこれほど苦戦するとは。
佐伯は、その無惨な「料理」と、彼女の煤けた顔を交互に見つめた。
「美月、これは何だ」
「えっと……スクランブルエッグです。先生が昨日採ったパッションフルーツを隠し味に入れたら、色がちょっと……」
「果汁を卵に入れる奴があるか」
佐伯は呆れて言葉も出なかったが、彼女のその不器用な献身を無視することはできなかった。
彼は無言で椅子に座り、フォークを手に取った。
黒く焦げたパンを一口かじる。苦い。
続いて、紫色のスープを啜る。……形容しがたい味がした。
「……先生、やっぱり無理して食べなくていいですよ。私が片付けますから……」
美月が気落ちして手を伸ばそうとしたとき、佐伯はその手を制した。
「……いや、最後まで食う。君が俺のために、殺意を持たずにこれを作ったことだけは評価してやる」
美月の瞳が、一瞬でパッと明るくなった。
「本当ですか!? じゃあ、次はもっと練習します! 明日はオムレツに挑戦して……」
「いや、明日の朝飯は俺が作る。君は、皿を洗う練習から始めろ」
佐伯は、不気味な色のスープを飲み干しながら、心の中で溜息をついた。
平和な余生。
温泉での危うい体温や、命の危険すら感じるような朝食。
それらは、三年前の彼がもっとも避けていたはずの「雑音」だ。
だが、皿洗いを命じられて「はいっ!」と元気に返事をする美月の後ろ姿を見ながら、佐伯は思った。
胃は少し痛むが、この「不自由」な生活も、悪くないのかもしれない。
窓の外には、今日も穏やかな青い海が広がっていた。
まだしばらくは、この騒がしくて愛おしいスローライフが続くことを。
佐伯は、残りの焦げたパンを口に運びながら、静かに願った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第六話では、無人島の隠れた贅沢である「天然温泉」と、美月の「壊滅的な料理センス」という二つのエピソードを描きました。
温泉での無防備な美月の描写。彼女にとって、佐伯は師であり、愛する人であり、唯一「武装を解ける」存在であることが、あの湯煙の中で表現できていれば幸いです。
そして翌朝の、あまりにも「らしくない」料理の失敗。スパイとしての完璧さと、日常生活の不器用さ。このギャップこそが、彼女を最強の「邪魔者」たらしめています。




