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平和な余生を邪魔するな。~亡霊と呼ばれた男の、こだわり無人島暮らし~  作者: 空と海


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第五話:琥珀色の晩餐と無防備な刃

磯の王者を仕留めた後の、静かなる祝宴。

 佐伯が振るうのは、かつて標的を仕留めた刃ではなく、命を美味に昇華させるための柳刃包丁でした。


厚い皮、鉄のように硬い骨。

 石鯛という強敵を相手に、佐伯が披露する「至高のムニエル」と、じっくりと旨味を抽出した「あら汁」。

 しかし、その調理の傍らで、ずぶ濡れのシャツを着替えた美月が、無自覚な「攻撃」を仕掛けてきます。


世界最高峰のスパイでありながら、恋心の前ではあまりにも無防備。

 美味しそうな香りと、危うい体温が混ざり合う、無人島の夜。

 

 亡霊たちの、甘く贅沢なスローライフ第二幕。

 どうぞ、心ゆくまで味わってください。

石鯛という魚は、釣り上げる時も、そして捌く時も、一筋縄ではいかない。

 小屋に戻った佐伯は、調理場のシンクに横たわる銀黒の縞模様を見つめた。体長五十センチを超える、立派なクチグロ(老成した雄の石鯛)だ。

 磯の荒波に揉まれたその身は、はがねのような筋肉を纏い、鱗は細かく、皮は鎧のように厚い。そして何より、その骨の硬さは、並の出刃包丁では刃こぼれしかねないほどだ。


「……さて、再戦といこうか」


佐伯は、砥石で完璧に研ぎ澄まされた厚刃の出刃を手に取った。

 まずは、エラから刃を入れ、太い脊椎を断つ。ゴリッ、という手応えが腕に伝わる。かつて人体の構造をミリ単位で把握していた佐伯にとって、魚の骨格を解体するのは、精密機械を分解する作業に近い。

 

 厚い皮に包丁を滑り込ませ、三枚に下ろしていく。

 腹を割れば、内臓の周りには真っ白なラードのような脂が溜まっていた。これこそが、石鯛が「磯の王」と呼ばれる所以だ。


「先生……すごい。さっきまであんなに暴れていたのに、先生の手にかかると、魔法みたいに綺麗になっていく……」


背後から、感嘆の声が漏れた。

 佐伯が振り返ると、そこにはシャワーを浴び終え、濡れた髪をタオルで拭いながら立つ美月の姿があった。

 彼女は、佐伯が予備として置いていた、これまたオーバーサイズの黒いTシャツを纏っている。だが、シャツの首元が大きく開き、鎖骨からその先へと続く白い肌が、夕食のランプに照らされて危うく光っていた。さらに、ボトムは丈の短いショートパンツ。


「美月。その格好は何だ」

「えっ? だって、自分の服はさっき海に落ちて濡れちゃったし……。これ、先生の予備ですよね? 落ち着く匂いがして、好きなんです」


美月は全くの無自覚らしく、佐伯の横にぴたりと寄り添い、調理台を覗き込んできた。

 彼女が動くたびに、シャンプーの清潔な香りと、彼女自身の淡い体温が、石鯛の磯の香りを上書きしていく。佐伯の至近距離に、世界最高峰の暗殺者が、最も無防備な姿で立っている。


「……邪魔だ。向こうでパパイヤでも剥いていろ」

「えー、手伝わせてくださいよ。私、お出汁を取るのくらいならできます!」


美月はそう言って、佐伯の手元にある石鯛のアラを鍋に入れようと手を伸ばした。

 その際、彼女の柔らかな腕が佐伯の二の腕に触れる。佐伯はわずかに眉を寄せたが、彼女は「あ、この骨、本当に硬いですね」と、全く別のことに夢中になっている。

 スパイとしての警戒心はどこへ行ったのか。佐伯は心の内でため息をつき、作業を続行した。


「石鯛は、身はもちろん美味いが、一番の宝はこのアラだ。頭と中骨をじっくり焼いて、香ばしさを出してから出汁を取る。そうすれば、極上のあら汁になる」

「わあ、楽しみです! 先生、私、幸せすぎて死んじゃうかも……」


佐伯は中骨を適度な大きさに叩き切り、オーブンで焼き色をつけた。それを昆布出汁を張った鍋に投入する。

 一方で、分厚い身はキッチンペーパーで丁寧に水気を取り、軽く岩塩と黒胡椒を振る。

 

「石鯛は刺身もいいが、この厚い皮目を活かすなら、ムニエルが最高だ」


フライパンにバターをたっぷりと落とす。シュワシュワと泡立ち、ナッツのような芳醇な香りが立ち上り始めたところで、皮目から身を投入した。

 ジュッ、という心地よい音。

 石鯛の厚い皮が熱で縮み、脂が溶け出してバターと混じり合う。佐伯はスプーンを使い、溶けたバターを繰り返し身の上にかけていく「アロゼ」を施した。

 

「皮はパリパリに、中はふっくらと。火を通しすぎないのがコツだ」


美月は、その佐伯の横顔を、調理の熱気で少し上気した顔で見つめていた。

「……先生って、本当に何でもできちゃうんですね。昔、シリアの潜伏先で、乾パンをふやかして食べてた時が嘘みたい」

「あの時は、生きるのが精一杯だっただけだ。今は、味わう余裕がある」


調理が完成した。

 テーブルには、表面が黄金色に輝く石鯛のムニエル。横には、菜園で採れたパセリとレモンが添えられている。

 そして、石鯛の脂が黄金の輪を浮かべる、濃厚なあら汁。

 

 二人はテラスのテーブルにつき、ランタンを一つだけ灯した。

 夜の海から吹き込む風は涼しく、波の音が最高のBGMだ。


「いただきます!」

 美月は期待に満ちた顔で、ムニエルにフォークを刺した。

 一口食べた瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。

「……っ! 何これ……美味しい! 皮がサクサクなのに、身がびっくりするくらいジューシーで……。噛むたびに石鯛の旨味が溢れてきます!」


佐伯も一口、口に運ぶ。

 バターのコクが石鯛の力強い風味を包み込み、レモンの酸味が後味を鮮やかに引き締めている。続いて、あら汁を啜る。

 石鯛の骨から溶け出した濃厚な出汁が、五臓六腑に染み渡る。それは、磯の恵みを丸ごと飲み込むような感覚だった。


「美味しいですね、先生」

 美月が、あら汁の熱さと美味しさに、ふにゃりと顔を綻ばせる。

「ああ。自分で獲り、自分の腕で仕上げる。これ以上の贅沢はない」


食事が終わる頃、美月はすっかりリラックスしたのか、椅子の上で膝を抱え、佐伯の方へ体を傾けた。

「先生。私、ここに来て本当によかった。外の世界は、いつも誰かを騙したり、殺したり、嘘をついたり……。でも、先生のトマトやこのお魚は、嘘をつかない」

「……」

「私、先生の隣にいたいんです。スパイとしてじゃなくて、一人の……」


彼女の声が、わずかに熱を帯びる。

 美月はそのまま、ウトウトと船を漕ぎ始めた。今日一日の釣りと、美味しい食事、そして何より佐伯の隣という安心感に、彼女の「最強の警戒心」は完敗したらしい。


不意に、美月の頭が佐伯の肩にこんと預けられた。

 規則正しい寝息。

 佐伯は、自分の肩に触れる彼女の体温と、柔らかい髪の感触を無言で受け止めた。

 

 平和な余生。

 一人で完結していたはずのその世界に、今、自分を心から信頼し、無防備な姿を晒す一人の教え子がいる。

 

「……困った奴だ」


佐伯は独り言をこぼしながら、遠く暗い海を見つめた。

 まだしばらくは、この静かな時間が壊れないことを願いながら。

 彼の手は、彼女を突き放すこともなく、ただ夜風に揺れるランタンの火を見守っていた。

第五話、最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 今回は、石鯛のムニエルとあら汁という「究極の釣果飯」をメインに据え、佐伯の調理スキルと美月の無防備なアプローチを描きました。

 石鯛の硬い骨に刃を入れる感触、そしてバターが弾ける音。五感に訴える描写を通じて、二人の「美味しい時間」を共有していただけたでしょうか。


美月のシャツ一枚での無自覚なお色気アプローチ。かつての亡霊である佐伯も、流石にこれにはたじたじといった様子です。

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