第四話:楽園の迷い子と磯の王者
最強の「亡霊」と、そのすべてを継承したはずの美しき「才女」。
二人の再会から一夜明けた無人島は、硝煙の匂いではなく、熟した果実と潮の香りに包まれていました。
佐伯の完璧なルーチンに、強引かつ不器用に割り込む美月。
スパイとしての冷徹なスキルは、佐伯への溢れんばかりの恋心によってすべて空回りし、楽園の静寂を賑やかに塗り替えていきます。
農作業でのハプニング、自生する秘密のフルーツ、そして磯の王者・石鯛との対峙。
佐伯の「平和な余生」が、もっとも甘く、もっとも騒がしくかき乱される一日を、どうぞお楽しみください。
無人島の朝は、太陽が水平線を越える前から始まっている。
佐伯はいつものように、朝露に濡れた菜園へと足を踏み入れた。昨夜、騒がしく上陸してきた美しき来訪者は、まだ小屋で眠っているはず――そう思った矢先、彼の視界に「あってはならない光景」が飛び込んできた。
「……何をしている、美月」
菜園の中央、佐伯が丹精込めて育てているジャガイモの畝の横で、美月が泥だらけになってしゃがみ込んでいた。
彼女は佐伯から借りたオーバーサイズの白シャツを、裾を結んで短くし、その下には昨日持ち込んだタクティカルパンツを履いている。その手には、どこから持ってきたのか、スパイ用の高性能なカーボン製ナイフが握られていた。
「あ、先生! おはようございます! その……先生のお手伝いをしようと思って、雑草を抜いていたんですけど……」
美月は得意げに、抜いたばかりの「獲物」を掲げた。
だが、その手にあるのは雑草ではない。佐伯が秋の収穫を楽しみにしていた、ジャガイモの立派な苗だった。
「それはジャガイモだ。君が抜くべきなのは、その横の小さなメヒシバだと言ったはずだ」
「えっ……こっちの方が強そうに見えたので、てっきり悪い草かと……」
美月は顔を青くし、慌てて苗を土に戻そうとしたが、焦るあまり自分の足に引っかかり、そのまま畝の中にダイブした。
世界最高峰の身のこなし。音もなく断崖を登るはずの身体能力は、佐伯に見られているという緊張感だけで、完全に機能を停止しているようだった。
泥だらけの美月の鼻先に、佐伯は無言で手を貸した。
「君はスパイを辞めて、一度幼稚園からやり直した方がいい」
「先生が教えてくれるなら、喜んで入園します……」
泥を払いながらも、美月は幸せそうに微笑んだ。
佐伯はため息をつき、気を取り直して島の奥へと彼女を促した。
「作業は終わりだ。口直しに行くぞ」
二人は島の斜面に広がるジャングルへと足を踏み入れた。
そこには、佐伯がこの三年間で発見した「島の恵み」が自生している。
木々の隙間に、鮮やかなオレンジ色の果実が鈴なりになっていた。野生のパパイヤと、さらに奥には、自生して野生化したパッションフルーツ。
「わあ……すごい。宝石みたいですね」
美月は目を輝かせ、木に手を伸ばした。だが、またしても「ドジ」が発動する。
熟したパッションフルーツを一つ収穫しようとした瞬間、彼女の指先が滑り、果実は地面へ。それを拾おうとして屈んだ拍子に、頭上の枝から完熟したパパイヤが彼女の後頭部を直撃した。
「……ふぎゃっ」
妙な声を上げてひっくり返る美月を見て、佐伯はついに小さく吹き出した。
「君の周囲だけ、物理法則が狂っているのか?」
「先生……笑いましたね? 今、笑いましたよね!?」
美月は真っ赤になりながら立ち上がり、半分潰れたパパイヤを恨めしそうに見つめた。
佐伯はナイフを抜き、無事なパッションフルーツを鮮やかに二つに割った。
中には黄金色の種と果肉が詰まっている。独特の芳醇な香りが周囲に漂った。
「ほら、食え。落ち着くぞ」
佐伯から差し出された果肉を口に含むと、美月の表情は一瞬でとろけた。
「……美味しい。甘酸っぱくて、目が覚めるみたいです。先生と一緒に食べるから、余計に……」
そう言って、彼女は果汁が唇についたまま、上目遣いで佐伯を見つめる。スパイとしての武器である「美貌」を無意識に使っているのか、それとも計算か。佐伯はあえて視線を逸らし、「次は釣りだ」とぶっきらぼうに告げた。
午後の舞台は、島の南端。潮の流れがぶつかり合い、激しい波が絶え間なく岩肌を洗う「一級磯」だ。
今日の狙いは、昨日のメジナではない。磯の王者、石鯛。
佐伯は、コンテナで届いた頑強な石鯛竿をセットした。餌は、朝のうちに磯で採取しておいたサザエとウニだ。
「いいか、美月。石鯛はメジナとは違う。針を飲むまで待つんじゃない。あいつが餌を噛み潰し、本走りを始めた瞬間に合わせるんだ。コンマ一秒の遅れも許されないぞ」
「はい、先生。集中します」
美月は先ほどまでのドジが嘘のように、鋭い目つきで海面を睨んだ。
これこそが、佐伯が彼女に教え込んだ「殺し屋の集中力」だ。
二人の間に、心地よい、しかし張り詰めた静寂が流れる。
数分後。美月の竿先が、不自然な震えを見せた。
トントン……と、石鯛特有の前アタリ。美月は息を止め、体が岩の一部になったかのように動かない。
そして――竿が根元から、一気に海面へと突き刺さった。
「今だ!」
佐伯の声と同時に、美月が全身で竿を煽った。
凄まじい力が彼女を海へと引きずり込もうとする。石鯛の突っ込みは、暴力的なまでの重量感だ。
「負けません……!」
美月は岩にスパイクを食い込ませ、細い腕でリールを巻く。その横顔には、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきたトップスパイの風格が宿っていた。
だが。
獲物を足元まで寄せ、白黒の縞模様が波間に見えたその瞬間。
佐伯が「よくやった」と声をかけた。
その一言が、彼女の脳内の「スパイ・モード」を強制終了させた。
「えへへ、先生に褒められちゃっ――あっ」
気が緩んだ瞬間、美月の足が濡れた海苔の上で滑った。
そのまま彼女は、釣り上げたはずの石鯛を抱えたまま、浅瀬のタイドプールへと派手に転落した。
バシャーン! という盛大な音と共に、水飛沫が舞う。
佐伯が駆け寄ると、そこには頭からずぶ濡れになりながら、それでも石鯛だけは離さずに抱きしめている美月の姿があった。
「……獲りました、先生。石鯛です……」
びしょ濡れの白シャツが体に張り付き、彼女の美しいラインを露わにしているが、本人はそれどころではない。髪に海藻を引っかけ、必死に魚を押さえているその姿は、あまりにも滑稽で、そして不思議と愛おしかった。
佐伯は手を差し出し、彼女を水の中から引き上げた。
「石鯛は獲ったが、君は海に負けたな。……風邪をひくぞ、帰るぞ」
「はい……。でも、今日の晩御飯、この石鯛でお刺身作ってくださいね。あ、それから、さっきのパパイヤも……」
沈みゆく夕陽が、二人の影を長く磯に伸ばしていた。
一人は、立派な石鯛を抱えた、世界で一番不器用な美貌のスパイ。
もう一人は、彼女の騒がしさに呆れながらも、三年前には決して見せなかった穏やかな笑みを浮かべる隠居人。
佐伯の「平和な余生」は、もう元の形には戻らないかもしれない。
だが、夕闇に溶けていく美月の明るい笑い声を聞きながら、彼は思った。
この「邪魔者」がいる毎日も、それほど悪くはない。
小屋へ続く道を歩きながら、佐伯は心の中で独りごちた。
「明日は、ジャガイモの植え方を一から教え直さないとな」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第四話では、佐伯と美月の「ほのぼの無人島ライフ」を全力で描写しました。
スパイとしての超一流のスキルを持ちながら、佐伯の一言で緊張が解け、物理法則を無視したドジを踏んでしまう美月。彼女の人間味溢れる魅力と、それを静かに受け入れる佐伯の優しさを感じていただけたでしょうか。
野生のパッションフルーツの甘酸っぱさ、そして石鯛との真剣勝負。
五感を刺激する描写を通じて、読者の皆様もこの島に滞在しているような気分になっていただければ幸いです。




